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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
王都編

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壁の手


「今日は、青い札の道をまっすぐ行く」


翌朝、ネアは宿の戸口でそう言った。袋は胸の前にある。口の結び目には、昨日もらった青い糸が挟まっていた。糸は朝の光で色を残している。


宿の女が、戸の内側から顔を出した。


「まっすぐ行くなら、洗い場の前で右だよ」


「洗い場の前で右へ曲がります」


「その先に、古い壁がある。人が立っていたら邪魔しないでおやり」


「壁に人が立つの」


「立つよ。王都では、壁にも用がある」


宿の女は戸枠に肘を置いた。


「壁は返事をしますか」


「返事がほしいなら、大神殿へ行くんだね」


「大神殿は遠いです」


「だから、みんな壁で済ませるのさ」


「済ませるのは、悪いことですか」


「悪くないよ。近い場所で言うだけだ」


ネアは分かった顔をしなかった。けれど、うなずいた。うなずいてから、袋の口を見下ろす。青い糸には触れない。


(壁に用がある。王都、広すぎないか)


俺は声に出さない。出しても、朝の宿では大きすぎる。ネアは扉を閉め、青い札の影を踏まずに歩き出した。


   ◆


ネアは朝の裏通りを歩き、宿の女に言われた洗い場の前で右へ曲がった。


道は狭かった。洗い桶が三つ並び、濡れた布を持った女たちが戸口へ戻っていく。ネアが顔を少し横へ向けると、布越しに冷えた水の気配が入った。木桶の縁。石畳の濡れたところ。誰かの手から落ちた泡。


水は近い。


だから、俺は何もしない。


「濡れるよ、嬢ちゃん」


桶を抱えた男が言った。ネアは壁へ寄る。


「通ります」


「ああ、通りな。今日は神殿へ行く日じゃないのか」


「神殿へは行きません」


男はネアの顔を見た。袋も見た。


「じゃあ、壁か」


「壁を見ます」


「見ても、面白いもんじゃないぞ」


男は桶を腰に寄せた。


「面白いものを見に行くのではありません」


「じゃあ、何を見に行くんだ」


「手を合わせるところです」


「変な見物だな」


「はい」


男は笑って、桶を持ち上げた。水が揺れた。揺れただけで、俺の内側が少し身構える。


動かさない。水を返事にしない。ここは廃都の井戸ではない。


ネアは濡れた石畳を避け、洗い場の横を抜けた。


   ◆


ネアが右へ曲がった先に、崩れかけた壁龕があった。


家と家の間に残った古い壁だった。人の背より少し高く、中央だけがくぼんでいる。くぼみの中には、小さな石板が置かれていた。文字は薄い。端に欠けがある。石板の前には、干からびた草の束と、割れた白い皿があった。


女が一人、壁の前で手を合わせていた。


ネアは足を止めた。すぐ横には通り道がある。荷車は通れない。人が一人ずつ、肩をすぼめて通る幅だった。


女は長く祈らなかった。指先を合わせ、目を閉じ、口の中で何かを言う。それから、小さな硬貨を皿の欠けたところへ置いた。


「終わったよ」


女は後ろの子どもに言った。


「次、あんた」


子どもは鼻をすすり、壁の前に立った。手を合わせる向きが分からないのか、左右を見た。女が子どもの指を直してやる。


「こう」


「こう?」


「そう。お父さんの咳が軽くなりますように、って言うんだ」


「お父さんの咳が軽くなりますように」


子どもは言い切った。声は小さい。けれど、言葉は壁のくぼみにまっすぐ置かれた。


俺は袋の中で黙っていた。


咳。水。空気。


廃都なら、誰かの咳は井戸の音と一緒に覚えていた。タロの咳も、ネアの手の力も、石床の冷えも。俺は守り神と呼ばれたことがある。朝に手を合わせられたこともある。


でも、この壁の前では、誰も俺を見ない。


それでいい。


そう言い切るには、少しだけ早い。


   ◆


「祈らないのかい」


さっきの女が、ネアに声をかけた。


ネアは袋を抱え直した。


「祈り方を知りません」


「知らなくても、手を合わせればいいんだよ」


「誰に合わせますか」


女は少し困った顔をした。怒らない。笑いもしない。


「ここの御方にだよ。名前は、まあ、古すぎてね。うちの祖母は知ってたらしいけど」


「名前が分からなくても、祈るの」


「分かる名前だけじゃ、足りないからね」


子どもが女の袖を引いた。


「大神殿なら名前があるよ」


「大神殿は遠いだろう」


「金の札もある」


「ここは白い皿でいいんだよ」


女は子どもの頭を軽く押した。子どもは皿を見た。皿の欠けたところには、さっきの硬貨が斜めに乗っている。


ネアは壁の前へ一歩だけ近づいた。祈るためではない。石板の字を見るためだった。読める字は少ない。石の粉が指につきそうなほど古い。


「手を合わせると、届くの」


「届くようにするんだよ」


「届いたか、分かりますか」


女は答えなかった。答えのかわりに、皿の位置を直した。硬貨が落ちないように、欠けていない側へ寄せる。


子どもがネアの袋を見た。


「その中にも、お願いするの」


「お願いはしません」


「じゃあ、何が入ってるの」


「石です」


子どもは壁を指した。


「石なら、ここにもあるよ」


「これは、持っている石です」


「持っている石には、お願いしないの」


ネアはすぐに答えなかった。袋の口を押さえ、青い糸の横から指をずらす。


「お願いの仕方を、まだ知りません」


「知らなくても、さっき言ったよ」


「誰に言うかが、分かりません」


子どもは首をかしげた。


「石に言えばいいんじゃないの」


「どの石に言うか、分かりません」


俺なら、ここで皿を鳴らせるかもしれない。風を少し押して、草の束を揺らせるかもしれない。水桶の底を鳴らせば、子どもは顔を上げる。


やらない。


祈りに返事をした石になってはいけない。ここの祈りは、ここの壁へ向けられている。俺が横から奪うものではない。


(守り神、休業中)


自分でそう思って、少しだけ嫌になる。休んでいるわけではない。動けないだけだ。動かないことを、選んでいるだけだ。


   ◆


ぐりが、屋根の下の影を通った。


ネアが先に気づいた。首を少し上げ、何も言わずに視線だけ動かす。黒い影は雨樋の下にいて、壁龕を見ているのか、ただ日を避けているのか分からない。


子どもも気づいた。


「あれ、祈りに来たの」


女が振り向く。


「何が」


「黒いやつ」


「影だよ」


「影も祈る?」


女は屋根の下を見た。黒い影は動かない。


「影は金を置かない」


子どもは真面目にうなずいた。


「じゃあ、祈らない」


ぐりは、そこで少しだけ尻尾みたいな形を曲げた。尻尾なのか、壁の欠けた影なのかは分からない。次にネアがまばたきした時には、もう雨樋の下にはいなかった。


(金を置かないと祈れないなら、俺も無理だな)


俺は袋の底で黙る。言ったら、ネアが困る。


ネアは困らなかった。代わりに、袋の口の青い糸を指で押さえた。糸を抜くでも、見せるでもない。ただ、そこにあるか確かめる押さえ方だった。


女がそれを見た。


「きれいな糸だね」


「もらいました」


「祠に結ぶ人もいるよ。願いを忘れないように」


ネアの指が止まった。


「これは結びません」


「そうかい」


女はそれ以上聞かなかった。青い糸のことも、袋の中身のことも。


子どもはまだ袋を見ていた。


「石は重い?」


「重いです」


「捨てないの」


「捨てません」


ネアの返事は短い。けれど、途中で切らなかった。


「願いも言わないの」


「言いません」


「じゃあ、なんで持ってるの」


ネアは袋を少し抱え直した。俺の角が布の内側で向きを変える。


「持っているからです」


「答えになってない」


「今は、それでいいです」


子どもは納得していない顔で、白い皿へ視線を戻した。


   ◆


ネアは壁龕の横で、祈る人たちが通り過ぎるのを見ていた。


パン屋の前掛けをした男。洗い桶を持った女。裸足の子ども。みんな長くは止まらない。手を合わせる。皿を見る。何も置かずに頭を下げる人もいる。


誰も、ネアには祈らない。


それは当たり前だ。


誰も、袋の中の俺にも祈らない。


それも当たり前のはずだった。


なのに、壁の前に人が増えるほど、袋の中は広くなった。廃都の広場より狭い道なのに、俺のまわりだけが遠い。手の形も、低い声も、白い皿の硬貨も、全部が外側を通っていく。


ネアは何も言わない。


言わないまま、壁の端に触れた。指先で触るのではなく、手の甲を軽く当てる。冷たさを確かめるように。俺の袋を持つ手とは反対の手だった。


俺は応えない。


石板の字を明るくしない。草の束を揺らさない。近くの桶の水を鳴らさない。


目の前で誰かが願っていても、俺は守り神の顔をしない。


女が子どもを連れて行ったあと、壁の前に短い空きができた。ネアはそこへ立たなかった。通り道の端にいる。祈る人の場所を空けている。


「宿へ帰ります」


「もう見ないの」


子どもが、女の後ろから振り返った。


「見ました」


「お願いしないまま?」


「しないまま帰ります」


「石にも?」


「石にも言いません」


ネアは自分に聞かせるように言った。


その時、壁の向こうから声がした。


「その袋の石、祠に置いていくのか」


ネアの手が、青い糸のすぐ下で止まった。


王都の裏通りにも、大神殿ではない祈りの場所がありました。イシルは守り神だった石ですが、ここでは返事をしません。青い糸はまだ結ばれず、袋の口に残っています。

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