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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
王都編

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分けられない場所


箱の前を離れてからも、ネアは袋を抱える腕の位置を変えなかった。


宿へ戻る細い道は、朝よりも人が増えていた。干された布の下を荷車が通り、戸口に積まれた籠の横で、誰かが銅貨を数えている。布越しに届くものは、ネアが首を少し向けるたびに変わった。濡れた縄、削った木、煮立つ前の湯の気配。俺には選べない。ネアが運ぶ角度の分だけ、王都の裏側が袋の口へ薄く入ってくる。


「こっち」


ネアは、宿の青い札が見える前で道を折れた。戻るための道ではない。壁に沿って細く続く、店の裏と台所の裏が重なったような道だった。誰かが置いた空き瓶が石畳の端で鳴り、ネアはそれを蹴らないように足をずらした。


俺は黙っている。水差しも桶も近くない。近くないから安心するわけではなく、近ければ何かできると思うわけでもない。ただ、ネアの腕の内側で、街の大きさだけが少しずつ増えていく。


   ◆


裏道の先には、小さな広場があった。


広場というほど開けてはいない。三つの道がぶつかって、余った石畳の上に台が二つ置かれているだけの場所だった。片方の台には欠けた皿と古い釦が並び、もう片方には畳まれた布と、細い木の札が束になって置かれていた。


「通るなら端だよ」


台の前に座っていた女が、顔を上げずに言った。髪には白いものが多く、膝の上には色の抜けた布を広げている。ネアはすぐ端へ寄った。袋を胸に近づけ、台の脚に当てないように体を薄くする。


女は針を持っていた。縫っているのではなく、布の端に刺してある糸をほどいていた。ほどいた糸を小さな束にし、木の札の横へ置く。その手つきは早くない。売るためというより、手が覚えている順番を一つずつなぞっているようだった。


「買うのかい」


「……見てるだけです」


「なら見な。見るだけなら減らない」


女はそう言って、また糸をほどいた。ネアは台の前へ立たず、道の端から布を見た。布には、青い線が少し残っていた。何かの模様だったのか、店の印だったのか、途中で切れていて分からない。


   ◆


「それ、どこの布?」


ネアの声は小さかった。聞かれた女は針を止め、布の端を指で押さえた。


「どこって言っても、もう無いよ」


通りの向こうで、鍋のふたが鳴った。誰かが笑い、誰かが「銅貨を先に」と言う。女の声だけは、その中に混ざる前に台の上へ落ちた。


「南の染め場。川沿いにあった。今は倉になってる。倉も半分は空だね」


ネアは布を見たまま動かない。女は続けるつもりがなかったのか、針の先で糸を引いた。青い線が少しほどけ、指の上で細く丸まる。


「昔のものは、ほつれやすい。だから早くほどかないと、あとで売れない」


「売るの」


「残しておいても、壁にはならないからね」


女は笑わなかった。泣くわけでもない。ただほどいた糸を、ほかの糸と同じ束へ置いた。王都は大きい。大きいから、無くなった染め場の名を聞いても、通りの人は足を止めない。荷を抱えた男が台の前を通り、布の端を踏みそうになって、女が黙って引っ込めた。


ネアの指が、袋の結び目に触れた。


「いる?」


いる。


返事はできない。女にも届かない。俺は袋の中で、ほどかれた青い糸の横にある水の気配を探してしまう。染め場なら、水があったはずだ。川沿いなら、湿りは道の下に残っているかもしれない。古い水路の曲がり、石の間に詰まった泥、閉じられた樋の底。ほんの少し触れれば、ここにもその名残があると示せるかもしれない。


示さない。


同じものを失くしたのだと、石が先に合図してはいけない。青い糸を濡らせば、女は顔を上げるかもしれない。台の上の水差しを鳴らせば、ネアは俺を強く抱くかもしれない。けれどそれは、分かる、とこちらから言うことになる。動けない石が、他人の失くした場所へ手を伸ばして、自分の痛みを重ねることになる。


俺は水を動かさない。糸も、布も、台の影もそのままにしておく。


   ◆


女は布を返した。


裏側には、薄い字があった。雨でにじんだように欠けている。ネアは読めなかったのか、顔を少し近づけた。女は針を置き、指で字のところをなぞった。


「染め場の名前だよ。持ってきたやつは、こんな布じゃなくて帳面を探してた。帳面なら役人に売れるんだとさ」


「帳面」


「誰が働いて、誰が借りて、誰が払わなかったか。そういうのは値がつく。布は、ほら」


女は青い線の残った端をつまんだ。


「裂けば紐になる」


広場を、二人の子どもが走り抜けた。片方が台にぶつかりそうになり、女は布を押さえた。子どもたちは謝らず、次の角へ消える。王都では、誰かの昔の場所も、今の通り道になる。


ネアはまだ布を見ていた。


「名前、残ってる」


女の手が止まった。


「字が読めるのかい」


ネアは首を横に振った。読めない。けれど、指でなぞられたところだけ、布の織り目が周りより少し硬くなっている。消えた字の場所を、布がまだ覚えているみたいだった。


女はしばらくネアを見て、それから布を膝の上へ戻した。


「まあ、そうだね」


声は薄かった。受け取ったのか、聞き流したのか分からない。けれど次の糸をほどく手は、さっきより少し遅くなった。


ネアは袋を抱え直した。胸に押しつけるのではなく、両腕で底を支える。俺の角が布の内側で向きを変え、ネアの指の近くへ来た。


まだ、残ってる。


それだけを、俺は内側に置いた。女の布にも、読めない字にも、ネアが言わなかった場所にも。どれが何に残っているのかは、言葉にすると薄くなる。だからそれ以上は続けない。


   ◆


「買わないなら、向こうへ行きな」


女は急に言った。追い払う声ではない。台の前に影が落ち、別の客が立っていた。男は木の札を指でめくり、値段を聞く前に一つをつまみ上げる。


「この札、何に使ってた」


「荷札だよ。古いだけだ」


「字が残ってる方が高いか」


「読めるならね」


男は笑い、読めない札を二つ戻した。女は何も言わず、戻された札の向きをそろえた。ネアは一歩下がった。下がった先にも人がいて、さらに端へ寄る。広場は狭いのに、誰にも触れない場所を探すには広すぎた。


ぐりが、台の下を横切った。黒い影は布の端の影と重なり、すぐ別の箱の下へ入る。女は気づいたのか、気づかなかったのか、足元へ視線だけ落としてまた戻した。


「あんた」


女が、ネアを呼んだ。


ネアは止まった。男は札を選んでいる。通りの声は近い。女はほどいた青い糸を一本、台の端へ置いた。


「落ちてた」


落ちてはいなかった。さっき女が自分でほどいた糸だった。ネアは手を出しかけ、途中で止めた。もらっていいのか、買うものなのか、返すものなのか、分からない形のまま指が浮いた。


女は糸を指で押し、台の端から落ちないようにした。


「いらないなら、紐に混ぜる」


ネアは小袋を探った。銅貨はない。黒いパンの紙も、宿の鍵も、どれも違う。女はその様子を見ても急かさなかった。男が「これは」と札を持ち上げると、そちらへ顔だけ向けた。


「……いいの」


「糸一本で金は取らないよ」


ネアは青い糸を受け取った。指に巻くには短く、結ぶには細い。けれど捨てるには、色が残っていた。ネアはそれを小袋へ入れず、袋の口を縛る紐のそばに挟んだ。


俺はその糸を濡らさない。色を濃くしない。布の中から、ここにあると知らせることもしない。ただネアの指が離れたあとも、糸が袋の口に挟まっている重さだけを受けていた。


   ◆


宿へ戻る道は、さっきより騒がしかった。


ネアは広場を出る前に一度だけ台の方を向いた。女はもう別の客と話している。染め場の名前も、川沿いのことも、さっきの布の裏の字も、広場の中では次の値段に押されていた。台の端に残った糸くずだけが、風で少し寄って、また止まる。


「宿」


ネアは自分に言うみたいに呟いた。袋を抱える手が、青い糸のところを避けている。細いものなのに、そこだけ触れ方が違った。


大きな街には、何かを失くした人がたくさんいるのだと思う。けれど多いから分け合えるわけではない。みんな、自分の台と荷と昼までの用事を持っている。消えた染め場の話は、皿の値段の横に置かれ、読めない札の下に入れられ、通り過ぎる足の音に平らにされていく。


ネアはそれを誰にも言わない。女も、ネアがどこから来たのか聞かない。俺も水を鳴らさない。


道の角で、宿の青い札が見えた。風は少し強くなり、札の影が壁の上を動いた。ネアはその影を踏まずに通り、戸口の前で袋の口を見下ろした。


青い糸は、王都の昼の中で、廃都へ帰る荷物ではない顔をして結び目に挟まっていた。


今回は、誰かの「もう無い場所」が王都の裏通りにもある回でした。ネアは自分の場所を重ねきらないし、イシルも分かると示さない。糸一本だけが残ります。

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