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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
王都編

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行き先になる


戸の方を見たまま、ネアは長く動かなかった。


下の部屋では椀を重ねる音がして、誰かの声が階段の下を通りすぎるたび、板のすきまから薄く上がってきた。昨日の声はもう続いていないはずなのに、「古い町」という言葉だけが、別の言葉に混ざる前の形で部屋に残っている。ネアは袋を抱え、椀の底に残った麦を見ずに、戸の木目を見ていた。


「外」


それだけ言って、すぐ立たなかった。宿の女に何か頼む声でも、俺にたずねる声でもない。口に出してから、言葉の置き場所を確かめるように、袋の結び目を親指で押した。


俺は返事をしない。できない。ただ布の中で、ネアの手の温度と、床板の下を歩く人の重さを受けていた。水差しの水は近い。桶も下にある。触れれば小さく鳴らせるものはいくつもあったが、どれも触れないまま、ネアが立つまで待った。


   ◆


朝の通りは、昨日より先に動いていた。


宿の戸口には濡れた布が掛けられ、帳場の横では宿の女が麦袋の口を縛っている。ネアが階段を下りると、女は顔だけを上げ、空いた手で外を指した。


「市場の端なら、まだ混む前だよ。昼前には戻りな」


「……はい」


返事をしても、ネアの足はすぐ外へ出なかった。下の部屋には昨日の男たちはいない。椀も片づき、柱にもたれる人もなく、古い町の話を続ける声もない。それなのに彼女は、一度だけ柱の横を見て、それから袋を抱え直した。


外へ出ると、布越しに朝の匂いが流れてきた。焼く前の粉、濡れた縄、まだ火にかけていない鍋の金気が、ネアの鼻が少し動くたびに袋の口へ薄く届く。俺にはそれを選べない。ネアが歩く速さと、抱える腕の角度で、通りのものが少しずつ入ってくるだけだった。


ぐりは、いつからいたのか分からない。宿の戸の下から黒い影が出て、ネアの靴の横を少しだけついてきた。踏まれそうになる前に壁の割れ目へ入り、また先の箱の影から出る。ネアは見たようでもあり、見ていないようでもあった。


   ◆


市場の外縁は、売る場所と通る場所の境が薄かった。


店ではない板の上に古い金具が並び、その隣で男が革紐をほどいている。荷車の横には欠けた椀、曲がった釘、油の染みた布が置かれ、まだ値段の札が付いていない。ネアは品物の前に立たず、人が足を止める前のすきまを選んで歩いた。


「昼から西門の方へ出るんだろ」


声は、荷車の向こうから来た。


ネアの足が止まった。止まった場所は通りの真ん中ではなく、壁際に積まれた空き箱の前で、誰かの邪魔にはならない。袋を抱える腕だけが少し上がり、布が俺の角に押しつけられる。


「出るだけだ。まだ決めてない」


「決めてないなら、北へ回れよ。昨日の宿で聞いたろ。動く廃墟の話」


革紐をほどいていた男が笑った。笑いは昨日ほど軽くない。椀の端を叩いて終わる声ではなく、荷の重さを測るときの声に近かった。


「ああいうのは、先に行ったやつが勝ちだ」


「勝ちって何にだよ」


「古い町なら、残り物くらいあるだろ。金具でも、石でも、井戸でも。人が戻ったなんて話が本当なら、どこかに道がある」


ネアは何も言わなかった。


昨日の「動く廃墟」は、まだ遠くに転がる話だった。誰かの知り合いの連れが見たかもしれない、という形で、椀と笑い声のあいだに置かれていた。今は違う。男たちは地名を知らないまま、そこへ向かう足の話をしている。道があるか、荷になるものがあるか、戻って売れるものがあるかを、朝の品物と同じ台に乗せている。


俺は、廃都の方へ伸びなかった。


伸びれば、遠い場所の水が返すかもしれない。返らないかもしれない。それでも俺は、どちらへ向かえばいいかを知ってしまう。街道の曲がり、乾いた川筋、砂の底に残る細い湿り。今ここでわずかにでも水を動かせば、男たちはそれを合図にするかもしれない。


導かない。


逸らさない。


廃都を守るために、誰かの足元を狂わせることもできるのかもしれない。桶を倒し、荷紐を濡らし、門へ向かう車輪の下に小さな泥を作れば、出発は少し遅れる。けれどそれは、俺が道を決めることになる。動けない石が、行くなと言うために世界を動かすことになる。


しない。


ネアの指が、袋の結び目から離れた。離れただけで、ほどかない。彼女は男たちの方を見ず、足元の石畳に落ちている細い革の切れ端を見ていた。拾えば何かの役に立つかもしれないが、拾わなかった。


   ◆


「でも、場所は?」


荷車の男が、革紐を束ねながら言った。


「知らん。東へ出て古い街道を探す。井戸が戻ったって話なら、水の跡を追えばいい」


「水の跡なんか、どこにでもあるだろ」


「だから探すんだよ。誰かが先に見つける前に」


その言い方で、廃都は少し狭くなった。広い砂も、割れた市場も、ネアが小さな手で払った石の前も、男の言葉の中では探すものの箱に入る。ふたを開け、底を覗き、使えるものを選ぶ場所になる。


ネアは袋を抱え直した。布の中で俺が少し傾き、彼女の胸の骨に当たる。痛いほどではない。けれど、そのまま元に戻されず、角だけが同じ場所に当たり続けた。


「いる?」


声は、男たちには届かない。通りの音に混ざる前に、袋の口のところで止まった。


いる。


俺はここにいる。廃都にもいた。けれど、ここから廃都を取り返す言葉は持たない。男たちの算段を断つための手も持たない。持っているのは、水を鳴らさないこと、空気を変えないこと、ネアより先に何かを証さないことだけだった。


荷車のそばで、別の女が古い金具をつまみ上げた。


「これ、いくら」


「二つで銅貨一枚」


廃都の話は、その声で一度切れた。男たちはすぐ商いの顔に戻り、革紐を結び、金具を布に包み、釣り銭を探した。行くかもしれない場所の話は、まだ誰の荷にも入っていない。けれど、台の下にはもう空の袋が一つ置かれていた。


ぐりが、その袋の影に入った。黒い影は口のところで止まり、すぐ出てこない。ネアはそれを見て、何か言いかけたが、口を閉じた。


「子ども、そこに立つなら買うのか」


金具を売る男が、急にネアの方を見た。怒った声ではない。荷車の前をふさぐものをどかすときの、ふだんの声だった。ネアは一度だけ首を横に振り、空き箱の側へ半身を寄せる。袋は胸から離さない。男の目は袋のふくらみに触れたが、中身をたずねるほど長くは止まらなかった。


「なら、そっち。昼から荷を積む」


「……はい」


ネアは動いた。言われた通りに一歩ずれると、足元に古い釘が一本落ちていた。踏めば靴の底に当たる。拾えば、男の品物に混ざるかもしれない。彼女は釘の横へ靴を置き、誰かの荷の邪魔にならない場所で、また止まった。


そのあいだにも、男たちは廃都の話へ戻らなかった。戻らないまま、さっきの言葉だけが次の作業に混ざっていく。軽い荷、昼まで、西門、古い街道。ひとつずつ別の用事の顔をして、同じ方を向く。ネアの知っている場所は、誰かの会話の中で名前のない荷札を付けられていった。


   ◆


市場の外縁を抜けると、通りは宿へ戻る道と、西門へ続く道に分かれた。


西門の方は朝の光が強く、人の背と荷車の箱が重なっている。誰かが縄を肩にかけ、誰かが水袋を振り、車輪の軸に油を差している。ネアはその方へ行かず、宿へ戻る細い道の入口で止まった。


後ろで、さっきの男の声がした。


「昼までに決める。行くなら軽い荷だけだ」


「戻れなかったら?」


「戻る道を探しに行くんだろ」


軽い笑いが続いた。今度の笑いは短く、すぐ荷車のきしみに負けた。けれど「行くなら」という言葉だけは、車輪が動く前の軸みたいに、通りの端へ残った。


ネアは振り返らなかった。


その代わり、袋を抱える腕を少し上げ、俺の位置を胸の真ん中へ寄せた。昨日は戸の方を見た。今日は門の方を見ない。見ないまま、足を宿の細い道へ入れる。石畳の継ぎ目に靴の先が引っかかり、彼女は転ばないように箱の角へ手を置いた。


箱の上には、粗い地図が広げられていた。


誰かが忘れたものではない。地図の端には小さな石が置かれ、風でめくれないようにしてある。王都の門と街道だけが太く描かれ、その先の空いたところに、誰かの指でつけた黒い点があった。名前はない。ただ、行き先にするための余白だけがあった。


ネアは箱から手を離した。


地図の石は、俺とは違う。ただ紙を押さえるために置かれている。誰も話しかけないし、誰もいるかと確かめない。それでも今は、その小さな重さの方が、遠い場所へ向かう線を押さえていた。


俺はその点を濡らさない。線を歪めない。石を落として紙を飛ばすこともしない。男たちの足はまだここにあり、廃都はまだ遠い。遠いままなのに、朝の通りの中で、誰かの指がそこへ印をつけていた。名前のない点なのに、もう向きだけは持っていた。


ネアは袋を抱えたまま、その地図を見なかった。


行き先になる、という回でした。


俺は案内しないし、邪魔もしない。石だから、というより、先に決めてはいけないものがある。


たぶんネアは、地図を見なかった。

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