噂のまま
にぎやかな声の手前で止まった足は、長くは止まれなかった。
後ろには、誰も汲まない井戸がある。前には、宿へ戻る通りがある。どちらもネアを呼ばないまま、片方は静かで、片方は大きかった。ネアは袋を抱え直し、井戸の方を振り返らずに、声のする方へ入った。
通りは昼の熱で少し重くなっていた。焼いた粉の匂いと、濡れた布が乾ききる前の匂いと、鍋の底をこすったような匂いが、ネアの動きに合わせて布越しに流れてくる。俺は袋の中で、底の水の冷えをまだ遠くに置いたまま、その上に人の足音がいくつも重なるのを聞いていた。
「戻る」
ネアは小さく言ったが、すぐには歩き出さなかった。宿の青い札は、見える場所にある。けれどそこへまっすぐ行くには、湯を捨てる女の横と、籠を抱えた子どもの前と、空の樽を転がす男の後ろを抜けなければならない。
彼女は一度、袋の上へ指を置いた。
「いる?」
いる。
返事はできない。ネアは待つ形だけを作り、それから通りの流れのすきまへ足を入れた。
◆
宿の戸は開いていた。
帳場の横では、宿の女が洗った椀を伏せている。奥の部屋からは麦を煮る匂いがして、階段の下には濡れた靴が二足、壁に寄せられていた。ネアが戸口に立つと、女は椀を置き、袋とネアの顔を順に見た。
「戻ったね。昼は残りでいいかい」
「……はい」
「なら、そこに座りな。今よそうよ」
ネアは昨日と同じ腰掛けの端に座った。足元にはまだ泥の跡があり、俺を下ろすには近すぎる。彼女は袋を膝に置いたまま、片手で布の口を押さえ、もう片方の手を小袋の上に乗せた。
下の部屋には、朝にいなかった客が二人いた。ひとりは荷紐をほどきながら壁際に座り、もうひとりは帳場の柱にもたれて、宿の女が椀をよそうのを待っている。どちらもネアを長くは見なかった。石の入った袋も、濡れた靴や空の桶と同じように、そこにあるものの一つとして目の端を通っただけだった。
「東から来たのかい」
柱の男が、荷紐の男へ言った。
「東ってほどでもない。街道を二つ戻っただけだ」
「じゃあ聞いてないか。古い廃都の話」
ネアの指が、袋の口で止まった。
俺は何もしなかった。床下には水場へ向かう細い湿りがある。壁の向こうには桶があり、外の通りにはさっきの井戸へ戻る低い冷えがある。どれも触れられる距離にあったが、まだ触れなかった。
荷紐の男は紐を歯で引き、ほどけた端を膝に落とした。
「ああ、動く廃墟だろ」
宿の女が椀をひとつ置いた。木の底が台に当たり、その音で少しだけ会話が切れた。
ネアは顔を上げなかった。見ていないのではなく、どこを見ればいいのか決めていないみたいに、膝の上の布を見ていた。廃都、という言葉は俺の中では場所を持っている。砂の白さ、割れた壁、古い市場の石、井戸の底の湿り、グラン爺の手が置いた机の重さ。けれど男の口から出ると、それは皿の端についた焦げみたいに、すぐ笑いの方へ押しやられた。
「動くってなんだよ。家が歩くのか」
「そう言ってたやつもいた。夜に石が向きを変える、とかな」
「誰が見たんだ」
「誰かの知り合いの行商の、連れだとさ」
柱の男はそこで笑った。大きい笑いではない。湯がこぼれたときに出る声と同じくらいで、すぐ椀の湯気に混ざった。
ネアはまだ何も言わない。
◆
宿の女はネアの前に薄い汁を置いた。
「熱いよ」
「……はい」
ネアは匙を持った。持ってから、汁をすくわずに、椀の縁に匙の先を置いた。男たちの声は近いのに、ネアへ向かっていない。廃都のことを話しているのに、廃都から来た子どもが膝に石を抱えていることは、誰の中でもつながらなかった。
「でもまあ、あそこは昔から変な話が多いだろ」
「人が戻ったとか、水が戻ったとか、前にも聞いたな」
「戻るなら税の話も戻る。領主様が喜ぶだけだ」
荷紐の男はそう言って、自分で少し笑った。宿の女は「食べるなら話より先に口を動かしな」とだけ返し、鍋のふたを閉める。誰も怒っていない。誰も信じていない。信じないために強く否定するほどの重さも、そこにはなかった。
俺は、廃都の方へ伸びなかった。
伸びれば、何かは返るかもしれない。古い市場の下に残った水の線、リコの家の壁の熱、グラン爺の机が置かれた部屋の床。遠すぎて届かないとしても、俺は届こうとしてしまう。ここで水が震え、椀の表面が動き、誰かが袋を見れば、男たちの笑いは止まるかもしれない。
それは、証すことになる。
廃都がただの作り話ではないと、俺が先に言うことになる。ネアの口より早く、彼女の沈黙より強く、石が場所を取り返すことになる。
しない。
ネアは匙を動かした。汁を少しだけすくい、口へ運ぶ。熱かったのか、飲み込むまでに時間がかかった。袋を押さえる指は、さっきより深く布に沈んでいる。けれど彼女は顔を上げず、「そこ」とも「知ってる」とも言わない。
自分のものだと言わないまま、椀の中だけを見ていた。
◆
男たちの話は、別の荷の話へ移った。
街道の橋が狭いとか、南門の検めが遅いとか、雨が降る前に布を売り切りたいとか、そういう言葉が順に台の上へ置かれる。廃都は、その合間に一度だけ戻ってきた。柱の男が思い出したみたいに、匙を持ったまま言った。
「まあ、ああいう話は遠い方が面白いんだよ」
「近いと困るからな」
それで終わった。
遠い場所なら、笑っても椀は冷めない。明日の荷も変わらないし、宿代も上がらない。男たちにとって廃都は、歩いた道の端に落ちていた石ころみたいなもので、拾って重さを確かめるほどではなく、蹴って音がすれば少し見る。そのくらいのものとして、台の上を転がっていた。
ネアの椀の湯気は、そのあいだに薄くなった。
匙の影だけが、椀の底で少し揺れた。
ネアは椀を空にしなかった。底に麦が少し残っている。宿の女が近づいてくる前に、ネアは匙を置き、椀を両手で持って台の端へ寄せた。食べ残しを見られたくない動きではなく、置き場所を間違えないようにする動きだった。
「残すのかい」
「……あとで」
「じゃあ部屋へ持って行きな。こぼさないで」
ネアはうなずいた。椀を片手で持つには熱く、袋もあるから、立つまでに時間がかかった。宿の女は手を貸さず、ただ通り道に置いてあった桶を少しずらした。
俺はその桶の水にも触れなかった。表面は濁っていて、底には小さな黒いものが沈んでいる。澄ませることはできる。床の湿りを押し戻すことも、ネアの椀の湯気を長く残すことも、たぶんできる。けれど今、いちばん簡単にできることは、いちばんしてはいけないことに近かった。
噂を、噂のまま置いておく。
ネアは椀を持ち、袋を抱え、階段の一段目へ足をかけた。後ろで男たちがまた笑ったが、もう何の話かは聞き取れない。笑い声の形だけが、床板を通って布の底へ届いた。
◆
部屋の中は、昼でも暗かった。
窓の外に隣の壁が近く、光は上から薄く落ちるだけだった。ネアは椀を水差しの横に置き、袋を布団の端へ下ろす。下ろしてから、すぐ膝の上へ戻した。床の冷たさが嫌だったのか、下で聞いた言葉がまだ残っていたのかはわからない。
「……食べる?」
俺は食べない。
ネアは知っている。それでも、残った麦を一粒、匙の先で椀の端へ寄せた。廃都で石の前に置くものとは違う。ここでは皿もなく、祭壇もなく、誰かが見ているわけでもない。彼女は麦をしばらく見て、それから自分の口へ入れた。
外の通りで、荷車が軋んだ。隣の壁の向こうで誰かが咳をし、下では宿の女が椀を重ねる音を立てている。どの音も廃都とは違うのに、さっきの男たちの声だけが、知っている場所の上へ知らない布をかけたみたいに残っていた。
ネアは袋の結び目をほどかなかった。石を出して確かめることもしない。ただ布の上から俺の位置を押さえ、親指で同じところをゆっくりなぞった。
「あそこ」
そこから先は続かなかった。
廃都、と言うには、下の部屋の笑い声が近すぎた。家、と言うには、ここが遠すぎた。自分の場所、と言うには、誰にもたずねられていなかった。
俺は返事をしない。できない。できたとしても、言うことは選ばなければならない。廃都はある。作り話ではない。ネアが座った石も、誰も汲まない井戸も、動かない俺を置いた市場の端も、全部ある。だがここで俺がそれを証したら、彼女が言わなかったものまで俺が奪う。
袋の外で、ネアの指が止まった。
「いる」
問いではなかった。答えを先に置く声だった。
いる。
俺はその場所から動かない。水も鳴らさない。廃都の方へ手応えを伸ばさない。下の部屋でまた誰かが「古い町」と言いかけ、すぐ別の声に重なって消えた。
ネアは椀を水差しの横へ戻し、袋を抱えたまま、戸の方を見た。
廊下の向こうで、噂はまだ笑い声の高さをしていた。
今回は、廃都がネアの知らないところで「話の種」になっている回です。言い返さない、見せつけない、噂を噂のままにしておく。その沈黙の方へ寄せました。




