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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
王都編

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誰も汲まない


戸は、少し遅れて開いた。


中から出てきた宿の女は、鍋をかき混ぜていた手を布で拭き、戸口に立つネアと、胸に抱えられた袋を見た。朝の光はもう白くなく、石畳の上で薄く乾きはじめている。通りの方では車輪の音が重なり、昨日よりも人の声が近かった。


「戻ったのかい」


ネアはうなずきかけて、やめた。袋の紐を握り直し、戸の内側へ一歩だけ入る。


「……少し、外」


「昼までに戻るならいいよ。鍵は持ってな」


女はそれだけ言うと、戸を大きく開けたまま奥へ戻った。鍋のふたが鳴り、湯気の匂いが薄く流れてくる。ネアは靴の先についた砂を見て、それを払う場所を探したが、敷居の横にはすでに別の足跡がいくつも重なっていた。


「いる?」


いる。


返事の形だけを胸の中で置くと、ネアは宿を出た。青い札は風で揺れていたが、昨日より音が小さかった。


   ◆


裏通りは、朝よりも幅が狭くなったみたいに見えた。


店先に出された箱、干した布、積まれた薪、まだ洗われていない桶が、人の歩く場所を少しずつ削っている。昨日の水桶の前には別の女が立ち、箱の店では少年が戸を支え、パン屋の台には焼けたものより先に銅貨を置く手が並んでいた。ネアはそのどれにも寄らず、通りの端を選んで歩いた。


手は出さない。


袋を抱える腕が、何かの前でゆるみかけても、すぐに戻る。傾いた籠があっても、こぼれた粉があっても、戸のすきまから小さな箱が押し出されても、ネアは足を止めるだけで、そこから先へは伸ばさなかった。誰かの仕事の中に入るための場所が、最初から彼女のために空けられていないことを、もう目で覚えている。


俺は布の中で揺られていた。地面からは離れているから、下の流れは遠い。石畳の熱と、靴の重さと、桶の水がこぼれたあとの湿りが、薄い膜の向こうで混ざる。触れようとすれば触れられるが、ここではどれも人の足で先に踏まれていく。


「こっち」


ネアは誰に言うでもなく、声を落とした。通りの真ん中を横切るのではなく、布を干した縄の下をくぐり、壁と壁のあいだに残った細い影へ入る。そこは店の裏ではあったが、誰かの台所でも荷置き場でもないらしく、踏まれた跡が途中で薄くなっていた。


人の声は、すぐ後ろにあるのに届き方が変わった。鍋の音も、車輪の音も、石壁に当たって丸くなる。ネアは肩をすこし下げ、袋を抱える位置を直した。


細い影の入口には、店の名前を削った板が立てかけられていた。字の跡だけが残っていて、何の店だったのかは読めない。壁の根元には古い藁が押しつけられ、誰かが一度片づけようとして、そのままやめたみたいに、同じ向きへ寝ている。


ネアは藁を踏まないように足を置いた。踏めば音がするし、音がすれば誰かが顔を出すかもしれない。けれど、どの戸も開かなかった。開かないことを確かめてから、彼女の息が少しだけ長く出た。


   ◆


影の先に、小さな井戸があった。


井戸といっても、縁は腰より低く、石の目地には古い土が詰まっている。上には板が二枚渡され、片方の端が黒く湿ったまま反っていた。桶を吊るす柱はなく、縄もない。縁の横には割れた柄杓が伏せてあり、その内側に乾いた葉が二枚入っていた。


通りから来た人は、そこへ曲がらなかった。近くの戸は閉まり、板を打たれた窓のすきまにだけ昼の光が引っかかっている。石畳はほかの場所より低く、雨が降れば水がたまりそうなのに、今は白い粉だけが端へ寄っていた。


ネアはしばらく立っていた。


誰も声をかけない。そこに立つな、と言う声も、濡れるよ、と教える声も、触らないでくれ、と遮る声も来ない。通りの方ではまだ誰かが値段を言い、誰かが笑い、布を払う音がする。けれど、この井戸の前だけは、その音が置き忘れたものみたいに薄かった。


井戸の縁には、手が触れた跡がほとんどなかった。廃都の古い石には、触る人が少なくなっても、指の脂や布で払った跡が薄く残った。ここにはそれがない。代わりに、雨が乾いたあとにできる白い線と、板の下から落ちた細かい砂だけが、同じ場所へたまっていた。


ネアは縁に触れなかった。手のひらを浮かせたまま、石の欠けを見て、板の反った端を見て、それから井戸の横にしゃがんだ。


袋が、地面に近づく。


そのとき、下の感覚が急に濃くなった。石畳の下、固い土の下、古い水の道が一度曲がって、そこで細く途切れている。完全に乾いているわけではない。底の方に、冷えた線がひとつ、錆びた針みたいに残っていた。


まだ、わずかに残っている。


俺はそれを知ってしまった。廃都で、砂に埋まった水の跡へ触れたときと、よく似た手応えだった。ここでも、深く沈めば拾える。曲がったところを少し開き、詰まった土をゆるめ、水の逃げ道を覚え直させれば、たぶん底は鳴る。板の下から湿りが上がり、誰かが気づき、桶と縄が戻ってくる。


井戸は、まだ直せる。


ネアは何も知らずに、膝の上の袋を少し横へずらした。紙に包んで残していた黒いパンを出し、昨日より小さく割る。かけらの粉が指につき、彼女はそれを払わず、井戸の縁ではなく自分の膝の上で受けた。


「ここなら」


続きは出なかった。出なくても、腕の力が少し抜けたのはわかった。袋を胸に押しつけるのではなく、膝と腹のあいだに置いて、片手で支える。石を落とさないための手つきではあるが、誰かから隠すための固さが少し減っていた。


通りで何度も引っこめた手が、ここでは行き先を探さなかった。パンを持つ手と、袋を支える手と、自分の膝に置く手だけで足りている。ネアは井戸を直そうともしないし、板をどけようともしない。ただ横に座って、そこにある使われなさの分だけ、体を小さくしなくてよかった。


俺は水へ伸びなかった。


伸びれば、ここは人の場所に戻る。桶を持つ手が来て、順番ができ、縁の横に立つ子どもは横へ退く。ネアが見つけた、誰にも用のない場所は、俺が水を戻した瞬間に、誰かの用がある場所になる。守り石がまた先に働き、彼女の足元を埋めてしまう。


だから、沈めない。呼ばない。底の冷えを、そこにあるものとして触れたまま、広げずに戻す。


板の下で、小さな虫が動いた。黒い影が縁の内側を横切り、暗いところへ消える。ぐりかもしれないし、ただの影かもしれない。ネアは気づかなかった。


   ◆


昼の光は、井戸の前までまっすぐ入ってこなかった。


壁の上で白くなったものが、細い帯になって石畳へ落ち、ネアの靴の横で止まる。通りから風が来るたび、割れた柄杓の中の葉がこすれた。ネアはパンを食べ終えてもすぐ立たず、紙を畳んで、小袋の内側へ入れた。


しばらくして、通りの入口を男の影が通った。影は細い道をのぞく前に曲がり、すぐ消える。誰かがこの井戸を思い出したわけではなかった。ネアはその足音が遠ざかるまで、紙を入れた小袋の口を押さえていた。


「宿、戻る」


言ってから、彼女は動かなかった。戻ればまた、戸口と台と階段がある。外へ出れば、人の流れがある。ここには、使われない井戸と、閉じた窓と、板の反った音しかない。けれど、そのどれもネアを押し返さなかった。


俺は袋の中で、底の水を遠くに置いたままにした。水は呼べる。たぶん、今すぐでも。だが動けない石が、その手応えだけで場所の意味を変えてはいけない。直せるものを全部直せば、ネアの座れる隙間まで直されてしまう。


ネアは最後に、井戸の縁ではなく、地面についた自分の指の粉を見た。指先をこすり合わせると、黒いパンの粉が落ち、石畳の白い粉と混ざって見えなくなる。


袋を持ち上げる前、彼女は膝のあとを手でならした。座っていた印を消すほど強くはなく、立ったあとに誰かが見つけるほど残すのでもない。粉の色だけが少し変わり、すぐ周りの石と同じになった。


「いる?」


いる。


彼女は袋を抱え直し、立ち上がった。通りへ戻る前に一度だけ振り返ったが、井戸は何も返さない。板は反ったままで、割れた柄杓の葉もそのままだった。


にぎやかな声の手前で、ネアの足が少し止まる。


その後ろで、誰も汲まない底の水だけが、板の下で音を立てず、通りの声から外れたまま、昼の熱にも触れず、置かれたまま、まだ細く冷えていた。


今回は、ネアが通りへ参加しにいくのをやめて、誰も使わない場所に座る回にしました。水はまだ、残ってる。けれど戻せばそこは居場所ではなくなるので、イシルは直しませんでした。

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