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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
王都編

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会釈の先


朝の光は、窓からではなく廊下の方から来た。


戸の下のすきまが細く白くなり、階段を下りる足音が何度か重なった。下では宿の女が鍋のふたを動かしているらしく、湯気の匂いと、昨日の麦の残りを温め直す匂いが床板のすきまから上がってくる。ネアは布団の端で起きあがり、しばらく袋の口を見てから、指で結び目を確かめた。


「いる?」


いる。


ネアは返事を待つ形だけ残して、袋を胸へ寄せた。夜のあいだに冷えた布が、彼女の腕の内側で少しずつぬるむ。廃都なら、朝はまず石の前を掃く音があった。誰かが戸を開け、昨日の水を替え、俺の前に落ちた砂を指で払った。ここでは、廊下の足音が俺の横を通りすぎ、誰の手も袋の口へ来ない。


下へ降りると、宿の女は帳場で木札を並べていた。ネアが階段の最後の段に足を置く前に、女は顔を上げずに言った。


「出るなら鍵。戻るなら夕方までに言いな」


ネアは小さな鍵を両手で持って、台の上へ置いた。置いてから、廃都で人の家を出るときみたいに、少しだけ頭を下げた。誰かの戸口を借りたあと、敷居の横の石へする仕草だった。


女は木札をひとつ外し、鍵に紐を通した。


「はいよ」


会釈の先には、台の角しかなかった。


   ◆


裏通りはもう動いていた。


昨日の夜に濡れていた石畳は、端だけが黒く残り、真ん中には粉の白い跡が薄く伸びている。店の前では男が箱を積み、向かいの戸口では女が水桶を二つ並べ、二階からは丸めた布が落とされる。誰も急いでいるようには見えないのに、立ち止まる場所だけが先に消えていく。


ネアは袋を抱えたまま、まず水桶の前で止まった。桶の横には木の柄杓があり、濁った水の上に細い油の筋が浮いていた。廃都では朝の水場に順番があった。古い石の欠けの手前で待ち、先に来た人が終わるまで、桶に手をかけない。ネアは戸口から一歩離れ、壁に肩を寄せて待った。


女は桶の水を捨て、空になった桶を片手で持ち上げた。ネアの方を見たが、待っている意味を受け取らなかったのか、すぐ隣の戸へ声をかける。


「次、こっち持ってって」


奥から大人の男が出てきた。ネアは袋を抱え直し、口を開きかけた。


「あの」


男は桶を受け取ったあと、ネアの足元だけを見た。


「そこ、濡れるよ」


ネアは壁から離れた。順番は、誰にも渡されなかった。


水なら、俺は触れられる。桶の底に沈んだ砂を静めることも、油の筋を端へ寄せることも、あの女がこぼした水を早く乾かすことも、地面の下へ少し広げればできる。ネアが手を出す前に、仕事の形を作ってやることもできる。


しない。


誰も石を呼んでいない。ネアのためにだけ水を澄ませれば、俺はまた守り石の場所へ戻ってしまう。ここで求められていないものを、彼女の腕の中から勝手に広げるわけにはいかない。


ネアは濡れた石を避け、通りの真ん中へ戻った。


   ◆


箱を積んでいた男の前で、ネアはもう一度止まった。


箱は小さく見えたが、男が持ち上げるたびに中で瓶の触れる音がした。店の奥から別の箱が押し出され、男は足で扉を開けたまま、肩でそれを受けようとしている。廃都であれば、ネアはこの高さの荷なら黙って片側を持った。誰かが「そこ」と言えば、言われた場所へ置き、言われなくても戸が閉まらないように石をはさんだ。


ネアの指が、袋の紐から少し離れた。


「手伝」


言い終わる前に、男の目が袋へ落ちた。


「触らないでくれ。割れ物だ」


ネアは手を戻した。


男は怒っていない。ただ、知らない子どもの手を数に入れなかった。すぐ奥へ「リュカ、早く」と呼び、店の中から背の高い少年が出てくる。少年は箱の下へ手を入れ、ネアの前を横切り、瓶の音を鳴らさずに運んでいった。


ネアは戸口の横へ寄った。邪魔にならない場所を探す動きは、昨日より早かった。けれど、寄った先の壁にも小さな棚があり、棚の上の皿がかすかに鳴る。ネアはまた半身を引き、袋を胸に押しつけた。


「……はい」


誰に向けた返事なのか、男には届かなかった。


俺は地面の奥の硬い流れを感じていた。店の柱がどこで沈み、箱の重さがどの板に乗っているか、そこへ触れればわかる。瓶が傾く前に揺れを止めることも、少年の足元の石を少しだけ乾いた方へ寄せることもできる。


でも、動けない石が、荷の行き先を決めるわけにはいかない。


ネアはしばらく箱の列を見ていた。最後の箱が店の中へ消えると、男は戸を半分閉め、吊るした札を裏返す。ネアは戸口へ小さく頭を下げた。手伝えなかった相手へ、廃都で仕事を終えたときの形だけが出た。


札が揺れただけだった。


   ◆


細い通りの奥に、パンの匂いがあった。


宿代を払ったあとの小袋は軽く、ネアは歩きながら何度も紐を押さえた。銅貨の音はしない。指先で数えられるものが少なくなると、彼女は店の前で足を止めるまでに時間をかけた。焼き台の上には小さな丸パンが並び、割れたところから白い湯気が出ている。


「いくつ」


店の女が先に言った。ネアは袋を抱えたまま、小袋を開いた。


「……一つ」


「黒い方なら一枚。白い方は二枚」


ネアは黒い方を見た。見てから、焼き台の端に置かれた欠けたパンへ目を移した。廃都では、割れたものや余ったものは、水汲みの帰りに子どもの手へ渡ることがあった。かわりに薪を運ぶ日もあれば、祭壇の前の砂を払う日もあった。ネアは店の横の木箱を見て、空の籠を見て、もう一度女を見た。


「籠、運ぶ」


女は銅貨を受け取るために出していた手を止めた。


「うちは頼んでないよ」


「……はい」


「パンを買うのかい」


ネアは銅貨を一枚出した。女は黒い丸パンを紙に包み、台の上へ置く。ネアがそれを受け取る前に、店の横から小さな子が出てきて、空の籠を二つ抱えた。女はその子に「奥へ」と言い、子どもは慣れた足で戸の中へ消える。


ネアの手が、包みを取るところで止まった。


「熱いよ」


女が言った。


ネアは包みを持ち替え、袋とパンを同じ腕に抱えた。頭を下げる。店の女はもう次の客へ顔を向けていた。


会釈は、湯気の向こうで薄くなった。


   ◆


通りの端に、石の段があった。


段といっても座るためのものではなく、閉まった店の前に置かれた踏み台らしい。ネアはそこへ腰を下ろさず、横にしゃがんだ。誰かの店の正面をふさがないように、戸口からずれた場所を選ぶ。袋を膝の上に置き、紙を開くと、黒いパンの皮が少しだけ割れた。


「半分」


ネアはそう言ってから、すぐ黙った。俺は食べない。廃都でも食べなかった。それでも、彼女はパンを割る手つきだけ、いつものように小さくした。石の前に置くぶんを分けるみたいに、欠けた端を袋の口のそばへ寄せる。


風が来て、紙の端が鳴った。パンのかけらは袋の布に触れず、ネアの指の上に残る。通りを行く人は、しゃがんだ子どもと袋を避けて通った。誰も止まらない。誰も、石の前に置かれた小さなものを見ない。


「……食べない」


知っている声だった。確かめるためではなく、置いた形を引き取るための声だった。


ネアはかけらを自分の口へ入れた。すぐ飲みこまず、ゆっくり噛む。紙の上の残りを見て、小袋を見て、また通りを見る。水桶の女は別の桶を洗い、箱の店の札は裏返ったままで、パン屋の籠はもう外にない。


俺は広げなかった。ネアの空腹にも、濁った水にも、重い箱にも触れないまま、袋の底でじっとしていた。できることがあるのにしない重さは、石の重さとは別に沈む。それでも、ここで俺が先に動けば、ネアが差し出した手より早く、石だけがこの通りに届いてしまう。


ネアはパンを包み直し、袋を抱えて立った。


宿へ戻る足は、来たときより遅くなかった。けれど、水桶の前を通るとき、彼女はもう壁の横で待たなかった。箱の店の前でも、戸口へ寄って頭を下げるだけだった。誰かが見ているかを確かめず、形だけが先に出て、すぐ胸の中へ戻る。


途中で、さっき籠を運んだ子どもが店の奥から出てきた。腕には空の籠が三つ重なり、いちばん上の籠が少し傾いている。ネアの足がそちらへ向きかけたが、子どもはネアを見る前に体をひねり、慣れた場所へ籠を置いた。籠の縁は一度だけ鳴り、すぐ黙る。


ネアは立ち止まったまま、手を出さなかった。


子どもは店の中へ戻る。ネアはその背中へ、小さく頭を下げた。廃都でなら、手を貸したあとに返ってくるはずのうなずきが、ここでは最初から置かれていなかった。彼女は顔を上げると、下げたことを誰にも見られていないまま、袋の紐を握り直した。結び目の下で、布だけが少し鳴った。


宿の青い札が見えたところで、ネアは袋の上から俺を押さえた。


「いる?」


いる。


戸口の前で、彼女はまた小さく頭を下げた。中からは鍋をかき混ぜる音がして、まだ誰も戸を開けていない。会釈の先で、朝の光だけが石畳に残っていた。


今回は、ネアが自分から少し動く回にしました。廃都では通じていた会釈や順番や「手伝う」の形が、王都裏通りでは受け取られない。にぎやかな場所なのに手だけが空いてしまう、その「広いのに孤独」を朝の中に置いています。

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