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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
廃都編

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第67話「廃都の見送り」


 朝になっても、地図は机の上に開かれていた。


   ◆


 北の点は、窓から入る光の端で白くなっていた。寝床の縁の木の前には、誰かが膝をついた跡があり、床のほこりだけが薄く丸く乱れている。グラン爺の手はもうそこになかったが、木の上には、指が置かれていた場所だけ、古い色が残っていた。


 ネアはその前を通りすぎ、寝床の足元に置かれていた水杯を拾った。中の水は入れ替えられていない。椀のふちに乾いた跡が細くついていて、ネアはそれを袖で拭かず、両手で持ったまま少しだけ見た。


 俺はポケットの中にいた。地脈を深く聞けば、夜のうちに誰が来て、誰が床に手をついたかぐらいは拾えたかもしれない。けれど、それをネアに渡しても、朝が戻るわけではない。


 使わなかった。俺は動けない石で、できることを増やすほど、いまの場所を崩してしまう時がある。


 外で、袋の口を結ぶ紐が鳴った。井戸の釣瓶も鳴り、誰かが粉袋を抱え直す音もした。ふだんの朝と同じ音なのに、鳴る場所だけが少しずつずれていて、市場の方へ流れるはずの音が、坂の上へ薄く寄ってきていた。


 ネアは水杯を荷物の横に置いた。荷物と言っても、布包みがひとつと、グラン爺の地図を入れた筒だけだった。昨日までこの家にあったものの方が、まだ部屋の中で場所を取っていた。


 地図の筒を結ぶ紐は、グラン爺が使っていたものではなかった。夜のうちに誰かが替えたのか、古い革紐の横に、まだ硬い麻紐が通っている。ネアは結び目を指でなぞり、ほどけないことだけを確かめてから、筒を背中の布へ入れた。


 ぐりは扉の外にいた。昨日の夜と同じ板の前に丸まり、耳だけをこちらへ向けている。ネアが近づくと、ぐりは立ち上がりかけ、前足を一度だけ板に置いて、結局そこから動かなかった。


   ◆


 扉を開けると、坂の途中にタロがいた。


 タロは何かを持っているわけではなかった。両手を空けたまま、指だけを何度も握り、すぐに開いていた。いつものように声をかけるには近すぎて、何も言わないには遠すぎる場所に立っている。


「……行くのか」


 ネアはうなずいた。声にはしなかった。水杯の入った小さな袋を持つ手が、一度だけ体の前で止まった。


 坂の下から、ヴェラが上がってきた。片腕に布包みを抱え、もう片方の腕にも別の布包みを抱え、その上に小さな袋が三つ乗っている。歩くたびに丸いパンが布の中で押し合い、ひとつが端から逃げかけて、ヴェラは顎で押さえた。


「これ、持っていきな」


 差し出された包みを、ネアは両手で受け取ろうとして、すぐに片方が崩れた。タロが慌てて支え、上に乗っていた袋を自分の腕に移す。まだ布の端から硬いパンの角が出ていて、ヴェラはそれを押し込みながら、結び目をもう一度作った。


 もう一つの包みは、ネアの足元に置かれた。置かれたというより、腕が耐えきれずに坂の石へ預けられた形だった。布の下で丸いものがごろりと動き、ネアの靴先に当たって止まる。タロがそれも拾おうとして、先に抱えていた包みが胸からずり落ちた。


「……持てない」


 ネアが言うと、ヴェラは鼻から息を抜いた。


「食べれば軽くなるよ」


 その返しに、坂の下で誰かが小さく笑った。笑いはすぐに消えたが、消えた場所に人の気配が残った。市場の角、水汲み場の陰、崩れた壁の向こうから、足音がひとつずつ近づいていた。


 フリンは遅れて来た。薬草を包んだ小さな布を、指先でつまむのではなく、手のひらの奥まで押し込むようにしてネアへ渡した。


「熱が出たら、こっち。傷なら、紐の色が薄い方」


 説明はそれだけだった。ネアは包みを見て、うなずき、パンの隙間に薬草を入れようとして、またパンに邪魔された。フリンが黙って袋の位置を変え、薬草の包みは布の奥に収まった。


「道中気をつけろ」


 ダンの声が、坂の石に落ちた。ダンは杖をついて、壁際に立っていた。声を出したあと、杖の先で地面の小石を一つだけ横へ寄せ、ネアが歩く道を空けた。


 その小石が転がった先で、誰かの靴が止まった。顔は見えなかったが、古い帽子のつばが少し下がり、手だけが胸の前に置かれている。水汲み場の方では、空の桶が地面に置かれ、縄の先が濡れたまま朝の光を受けていた。


   ◆


 リコは、水汲み場の方から走ってきた。


 途中で一度つまずき、転びはしなかったが、片足だけ大きく前に出た。手に何かを持っているわけでもないのに、両手を胸の前で握っていて、ネアの前まで来ると、その手を背中に隠した。


「ネア、いつ帰ってくる?」


 ネアは答えなかった。


 水杯の袋が、ネアの手の中で少し下がった。パンの包みを抱えたタロが横で息を止め、ヴェラの指が布の結び目をつまんだまま動かなくなった。


「……帰ったら教えて」


 リコはそう言って、靴の先で坂の小石を押した。小石は転がらず、土に少し埋まった。


 ネアは荷物の中から水杯を出した。寝床の足元にあった椀は、朝の光を受けても光らず、ただ薄い水の線だけを内側に残している。ネアは水杯をリコの手に置いた。


「……持ってて」


 リコは両手で受け取った。椀は子どもの手には少し大きく、指がふちに届ききらない。リコは胸の前に抱え直し、こぼれない水をこぼさないように、ゆっくり息をした。


 タロがそこで口を開いた。最初の形は別の言葉だった。唇が動いて、喉の奥で音が止まり、息だけが一度前へ出る。タロはパンの包みを抱え直し、ネアではなく、俺のいるポケットのあたりを見た。


「石ちゃんと守れよ」


(……そこは俺に言うのか)


 思わず返しそうになって、送らなかった。ネアの指がポケットの上に触れていたからだ。軽く押すだけで、握りもしない。その指の下で、俺はただそこにいた。


「……うん」


 ネアが返事をした。俺の代わりではなく、自分の返事としてそこに置いた声だった。


   ◆


 坂を下りるころには、道の両側に人がいた。


 名前を呼ぶ声は少なかった。古い市場の屋根の下で誰かが手を上げ、水汲み場の婆さんが釣瓶の縄を握ったまま立ち、子どもがリコの後ろから水杯をのぞこうとして、リコに肘で押し返されていた。ヴェラのパンは結局タロが半分持ち、残りはネアの背中で布ごと揺れている。


 市場の台には、まだ開いていない布がかかっていた。野菜の籠は並べられているのに、値を呼ぶ声がない。粉袋の口は結ばれたままで、朝一番に買いに来るはずの男が、袋を持たずに壁のそばへ立っていた。


 坂の石の割れ目には、昨日より濃い苔があった。まだ朝の水を含んでいた。ネアの靴がその横を踏み、湿った土が少しだけ靴底についた。タロが何か言いかけて、パンの包みを持ち直す音に紛れた。


 俺には見えない。ポケットの内側は暗く、布とネアの体温しかない。けれど、ネアが立ち止まるたびに体の向きが変わり、見えたものの重さだけが、呼吸の入り方に混じった。


 ネアは誰かに頭を下げなかった。礼を言わないのではなく、言えば荷物がそこでほどけてしまうように、口を閉じたまま歩いた。代わりに、ポケットの上の指が一度だけ押される。俺は返事を作り、すぐにほどいた。


 街の出口の手前で、ネアは一度振り返った。


 坂の上に、人が並んでいた。タロはパンの包みをまだ抱えたまま片手を上げ、ヴェラは腕を組んだまま指だけを動かし、フリンは薬草袋を入れていた空の手を胸の前で止めていた。ダンの杖は地面に立ち、リコは水杯を抱えたまま、空いた指を小さく振っていた。


 ぐりは坂の石の上にいた。前足をそろえ、尻尾を振るわけでもなく、ただこちらへ鼻先を向けている。タロが片手を振るたび、抱えた包みの布がずれ、ヴェラが横からそれを直していた。


 ネアは何も言わず、また歩いた。


 廃都の外の道は、土の色が少し明るかった。道端の苔は石の割れ目から濃く出ていて、昨日まで街の中だけにあった湿りが、境目を少しだけ越えている。誰もそれを見なかった。ネアも足を止めなかった。


 距離が開いても、背中の方で布が鳴った。ネアがまた振り返る。坂の上は小さくなっていたが、まだ手が動いていた。タロの腕は大きく、リコの指は水杯のふちから少しだけ離れ、ヴェラの布包みの端が風で揺れている。


(——見えてはいないが、聞こえはする。坂の上の風が、人の数だけ揺れていた)


 俺はそれをネアに送らなかった。送れば、ネアはもう一度振り返るかもしれない。振り返ったら、戻る道がまだそこにあると、足が覚えてしまうかもしれない。


 廃都の壁が、崩れた門ごと坂の向こうに沈んでいった。最後に見えたのは水杯を抱えたリコの白い指で、それも道の曲がり角に隠れた。


 ネアは立ち止まらず、パンの重さを背中で受けたまま歩き続けた。


水杯は、置いていくものにしました。


手を振る側にも、持っている重さが残る回です。次回もよろしくお願いします。

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