第68話「初めての道」
坂を下りきってから、道の色が変わった。
廃都の石畳は、割れ目に砂が溜まり、踏まれるたびに乾いた音を返していたけれど、今ネアの靴の下にあるものは、土と小さな草の根が混じった、少しだけ沈む道だった。背中の布包みが揺れるたび、パンの重さが肩紐を引き、フリンの薬草袋が腰のあたりでかすかに鳴った。
俺は、その音の違いで外を知るしかない。
見えないし、動けない。枝が伸びていようが、石が転がっていようが、俺が先に避けることはできない。できることといえば、ネアの歩幅と、足音と、背中越しに伝わる小さな揺れを拾うことくらいで、地脈を大きく探れば道の様子も少しはわかるのかもしれないが、ここでそれをやる必要はなかった。
ネアが歩いている。
なら、俺はそれを邪魔しない。
◆
草の匂いがした。
廃都にも草はあった。崩れた壁の根元や、雨の残る階段の隙間や、誰も座らなくなった広場の縁に、しぶとく伸びているものは何度もネアの指先に触れていた。それでも、いま風に混じってくる匂いは、石の粉や古い木材の湿り気を含んでいなくて、近くを何かが通り過ぎたあとに、葉の裏側だけが軽くめくれたような青さがあった。
その青さは、鼻の奥に残る前にすぐ薄くなり、代わりに土の匂いが遅れて上がってくる。廃都の土は、瓦礫の下に隠れているか、雨のあとだけ顔を出すものだったが、ここでは道そのものが土で、靴が触れるたびに、しまっていたものを少しだけ外へ出す。
ネアの足が、そこで少し遅くなった。
「……これ」
声は小さかった。問いかけというより、口の中に残ったものを確かめるみたいな音で、ネアはすぐに続きを言わず、靴底で土を一度押した。踏みしめた場所が石のように固く返らないせいか、もう一度、少しだけ角度を変えて踏む。
(……地面の確認、長いな)
俺がそう思ったところで、ネアはしゃがまなかった。しゃがめば俺ごと荷物が傾くし、パンも薬草袋もまとめて前へ落ちかねない。代わりに、右足のつま先で道の端を軽く押して、草の根が土を抱えているところを靴先でなぞった。
「……やわらかい」
廃都の外に出てから、ネアの言葉はずっと短い。
それは前からそうだ、と言えばそうなのだが、今日は短さの種類が少し違った。誰かに返すための最低限ではなく、胸の奥まで入れる前に、こぼれた分だけが先に出てしまうような短さで、俺はその差をどう扱うべきか迷い、結局なにも言わなかった。
風がまた来た。今度は前からではなく、道の左側から肩を撫でるように抜け、ネアの髪が布包みの端をかすめた。指先が背中の結び目へ伸び、パンを包む布の端を一度だけ押さえてから、離れる。
◆
道はまっすぐではなかった。
ゆるく曲がり、低い草のあいだを抜け、ところどころで古い車輪の跡みたいな窪みを残して、先へ続いている。廃都の中の通りは、崩れてもなお建物の形に沿っていて、角を曲がれば壁、壁を抜ければ広場、広場の先にはまた欠けた門というように、壊れたものが次の場所を決めていたけれど、外の道は、誰かが何度も歩いたあとを風と草が少しずつ隠しているようだった。
ネアは三度、足を止めかけた。
一度目は、道端の草が白い小さな花をつけていたとき。二度目は、風が通ったあと、草の背丈が同じ向きに倒れてすぐ戻ったとき。三度目は、雲の影が地面を横切り、ネアの靴先を覆って、そのまま先へ流れていったときだった。
「……動いた」
(影は動く。まあ、動くけど)
言わない。俺は賢い置物なので、今のところ言わないでおく。
ネアは雲の影が行った先を目で追っているらしく、首の角度が少し上がった。空を見上げたのだと思う。廃都にも空はあったが、屋根の抜けた建物のあいだや、崩れた塔の縁取り越しに見える空が多くて、こうして首を上げたまましばらく動かない空とは、たぶん見え方が違う。
「……知らない」
何を、と聞けるなら聞いたかもしれない。
けれど、聞いたところで、ネアは言葉を探して足を止める。ここはまだ道の途中で、パンは背中にあり、薬草袋は腰で揺れ、水杯はもうネアの手元にない。聞きたいことを一つ減らすくらいなら、今の俺にもできた。
ネアは歩き出した。二歩進んで、また少し速度を落とし、道端の葉が靴に触れるのを避けずに通る。葉先についた水か何かが足首の布に移ったらしく、指先がそちらへ伸びかけて、途中で止まった。
(ネアが素直に驚いてる。珍しい)
そう思った瞬間、背中のパンが小さく揺れた。
ネアが何かを振り払ったわけではない。ただ歩幅がほんの少し変わっただけで、荷物はそれに合わせて遅れて揺れた。その重さがあるから、昨日の坂の上に並んだ人たちまでがここに付いてきているようで、それでも道の匂いは廃都のものではなく、俺の中で二つの場所が重ならずに並んだ。
◆
昼が少し傾くころ、道の脇に低い木が増えた。
葉は厚く、風が通ると表と裏で音が違い、ネアはそれを聞くたびにほんの少し肩を動かした。ぐりがいるなら後ろのどこかだろう、と思ったが、足音ははっきりしない。ついて来ているのか、離れて見ているのか、それとも別の道を選んだのか、俺にはわからなかった。
「……廃都の木と、違う」
ネアが言った。
廃都の木、と呼べるものがどれのことなのか、俺にはいくつか候補があった。中庭の痩せた木か、井戸の近くで片側だけ葉を残していた木か、あるいはタロが勝手に枝を支柱にしていた、あの曲がったやつかもしれない。どれにしても、たぶん今の木とは違う。
「……綺麗」
言葉は、葉の音に混じってすぐ消えた。
ネアはそれ以上なにも足さず、言ったあとで少しだけ口を閉じ直したようだった。自分で出した音を拾い直すみたいな沈黙があり、俺はうっかり何か言いそうになって、やめる。ここで「そうだな」と返したところで、俺には見えていないし、見えていないものに頷くのは、今のネアの横に立つこととは違う気がした。
だから俺は、地脈にも手を伸ばしすぎない。
道の下には細い流れがあった。廃都の石の下で感じていたものより遠く、土を通して薄まり、ところどころで根に触れて形を変えながら、ゆっくり先へ伸びている。追えばもっと知れる。道の先、木の向こう、夜に身を置けそうな場所まで、たぶん探れないことはない。
でも、今日はネアの足が先でいい。
俺が全部を先に知ってしまうと、ネアが立ち止まる理由まで奪ってしまいそうで、そういう便利さは、この旅の最初に置くものではなかった。
◆
少し先で、道が開けた。
木が途切れ、風がまとまって流れ、ネアの前髪が額から離れた。足元の土は乾いているのに、奥のほうから水の匂いだけが薄く届いて、どこかに小さな流れがあるのだと知れる。ネアはその匂いに反応したのか、足を止めずに顔だけをそちらへ向けた。
水杯は、ない。
そのことを俺が思ったのと、ネアの指が何も持っていない手のひらを軽く閉じたのは、ほとんど同じだった。けれどネアは、その手をすぐに下ろし、薬草袋の紐を確かめるように触ってから、また歩いた。
日差しが傾き、背中の布包みが少し温かくなったころ、ネアの足音が止まった。
今度は、地面を確かめる止まり方ではなかった。靴底が土を押したあと、次の音が続かず、息だけが浅く入って、ゆっくり出ていく。ネアの肩がわずかに動き、俺ごと体の向きが変わった。
振り返ったのだとわかった。
廃都が見えるのか、もう見えないのか、俺にはわからない。坂の向こうに沈んだ壁も、崩れた門も、曲がり角に隠れた白い指も、ここから見えるものではないのかもしれない。それでもネアは、道の先ではないどこかへ顔を向けたまま、しばらく動かなかった。
「……うん」
それだけ言って、ネアは向き直った。
足が前へ出る。パンが背中で揺れ、薬草袋が腰に当たり、空いた手が一度だけ布の端を押さえた。俺はその揺れに合わせて、地脈の奥へ少しだけ意識を沈めた。
廃都の気配は、遠かった。
けれど、消えてはいなかった。石の下に残っていた細い温度が、道の下の流れと完全には離れず、ふだんより薄く、ふだんより遠く、それでもこちらへ届いている。
(繋がってる。切れてない)
ネアは何も言わず、夕方へ向かう道をもう一度歩き始めた。
ネアが景色に言葉を少しだけ落としていく、その少なさを書きました。
離れたものが、すぐ途切れるとは限らないようです。
次回もよろしくお願いします。




