第66話「グラン爺の死」
朝の市場は、ふだんより早く始まっていた。
◆
坂の下で、タロが木箱を運ぶ音がした。ヴェラの店先では袋の口を結ぶ紐が鳴り、井戸の婆さんの釣瓶が水の重さで縄をきしませている。昨日と同じ朝だった。誰かが短く笑い、子どもの足音がそれを追いかけ、音だけなら、廃都は昨日の続きにいた。
けれど、坂の上の家へ届く手前で、その音は薄くなった。扉の隙間から入ったはずの声が、寝床のある部屋まで来る前にほどけて、机の上の地図だけが、開いたまま朝の光を受けていた。
7つの点はもう揺れていなかった。北の方角だけが床下の地脈と細く重なり、紙の端は昨日のまま少し反っている。寝床の縁の木の上には、グラン爺の手があった。指は曲がったままで、地図をなぞった形を、まだ捨てていなかった。
ネアは、しばらく入口に立っていた。
「……グラン爺」
声は小さかった。返事を待つには近すぎて、触れるには遠すぎる場所で、ネアの足は止まっていた。ポケットの中の俺は、布越しにネアの体の動きを聞いていたが、いつものように俺を確かめる指は下りてこなかった。
寝床の布の端が、朝の光で少しだけ白く見えた。昨日、咳の手前で沈んだ音は、もう部屋の中に残っていない。胸の上下を探すように、ネアの呼吸が一度だけ深く入って、それから戻る場所を見つけないまま、細く出ていった。
「……グラン爺」
二度目の声は、扉の木に近かった。呼ぶというより、そこに置いて、落ちるかどうかを見ている声だった。寝床の縁の木は鳴らず、手の指も動かなかった。
◆
ネアは近づかなかった。
机の上には地図があり、寝床のそばには杖があり、昨日から動いたものはほとんどなかった。水の入った椀だけが、寝床の足元で少し傾いている。中の水は減っていなかった。
ネアは椅子を引かなかった。寝床の横の床に膝をつけ、両手を膝の上に置いた。ポケットの中で俺は、ネアの指が布に触れるのを待ったが、指は来なかった。呼ばれれば答えた。聞かれれば、分かる範囲で返した。けれど、ネアは俺の名を呼ばなかった。
俺の方からも送らなかった。地脈を深く聞けば、体の奥に残っている熱の細さや、家の下で沈む石の重さぐらいは拾えたかもしれない。けれど、それを拾ったところで、ネアの前に置く言葉にはならない。
使わなかった。動けない石ができることを、ここで増やしてはいけない時がある。
外では、タロの足音が坂の途中まで上がってきて、また下りていった。誰かがグラン爺の家を見上げたのか、声が一度だけ途切れたが、そのあと市場はまた同じように動いた。家の中だけが、同じではなかった。
ネアは膝の上で手を握らなかった。開いた指を、そのまま置いていた。指先に力が入るたび、膝の布が少しだけ沈み、すぐに戻った。俺はその動きを聞きながら、何度も念話を組み立てかけて、ほどいた。
どれくらい待ったのか、俺には分からなかった。朝の光が机の端から地図の中央へ移り、北の点をいったん白くして、また薄く外れた。ネアはまだ座っていた。
(ネア?)
ようやく、それだけ送った。
ネアの肩が、ほんの少し動いた。驚いた動きではなかった。そこに俺がいることを、今になって思い出したような動きだった。
「……寝てる」
返ってきた声は、ポケットの外に落ちた。俺へ向けたはずなのに、部屋の床へ置かれたまま動かなかった。
(……そうか)
俺はそれ以上を言わなかった。言えなかった、ではない。言えば、ネアは顔を上げる。顔を上げたら、次のことを選ばなくてはいけなくなる。
今は、待った。
◆
最初に来たのは、タロだった。
坂の上で足音が止まり、扉の前で一度迷って、それから木を軽く叩いた。返事はなかった。ネアが立ち上がるまで、床板が長く沈んでいた。
「……ネア?」
扉の外の声は、いつもの大きさより小さかった。市場で誰かを呼ぶ時のタロではなく、家の中に入っていいかを、扉の木に聞いている声だった。
ネアは、すぐに開けなかった。寝床を見て、机の地図を見て、それからポケットの上に指を置いた。握らなかった。ただ、俺がそこにいる場所を、短く押した。
「……来て」
扉が開いた。タロの足音が一歩入って、そこで止まった。
部屋の中に、外の朝が少しだけ入った。粉の匂い、水の匂い、坂の下で動く人の気配。それらは寝床の手前まで来て、そこから先には進まなかった。
タロは何も言わなかった。喉の奥で音がつかえて、出る前に切れた。大きな手が腰のあたりで行き場をなくし、指が何度か開いて、また閉じた。肩が一度だけ上がり、下りるまでに時間がかかった。
ネアはタロの方を見なかった。見ないまま、寝床の布の端を少し整えた。布の端は、さっきよりまっすぐになった。グラン爺の指は、寝床の縁の木の上で、同じ形のままだった。
「……みんなに」
ネアの声は、途中で止まった。
タロがうなずいた音はしなかった。けれど、足が少しだけ後ろへ下がり、扉の外で誰かに短く声をかける気配があった。言葉は聞こえなかった。聞こえないまま、坂の下の音が少しずつ変わっていった。
◆
人は、すぐには集まらなかった。
最初に扉の前で足を止めた者は、中へ入らず、帽子を胸の前で持った。次に来た者は、入口の土を払うだけで、しばらく顔を上げなかった。誰かが小さく息を吸い、誰かが市場の方へ戻って、残りの声を連れてきた。
ヴェラは、手についた粉を拭ききらないまま来た。指の白さが扉の木に残り、彼女はそれに気づいて、袖で一度だけこすった。粉は消えず、薄く広がった。
「……ここにいたのね」
それが誰に向けた言葉か、俺には分からなかった。グラン爺にか、ネアにか、地図にか、この家そのものにか。ネアは答えなかった。
タロは部屋の隅に立っていた。背中を丸め、顔を下げ、声を出そうとするたびに喉が小さく動いた。大きな体の影が床に落ちて、その影の端が、机の地図にかからないように少しずれていた。
住民たちは、長く話さなかった。誰かが寝床のそばへ水を置き、誰かが扉を開けたままにし、誰かが外の子どもを坂の下へ連れていった。ひとつずつの動きが、音を小さくしていく。廃都の朝は、まだ終わっていないのに、朝の方が家を避けて通っているようだった。
ネアは、グラン爺の手に触れなかった。触れれば、何かが変わってしまうと分かっているように、寝床の縁の木だけを見ていた。そこには昨日から同じ手があり、同じ指があり、同じ地図の続きだけがなかった。
俺は、その手を見ていた。朝ごとに扉を開け、坂の音を聞き、ネアの持ってくる薬草に文句を言いながら受け取っていた手だった。お前は、ここにいたな、と言葉にすれば、それで足りてしまうのが嫌で、俺は何も送らなかった。
◆
夜になるまで、家の中の物はほとんど動かなかった。
地図は机の上に開かれたままだった。北の点は夜の中で見えにくくなったが、地脈の細い重なりは消えなかった。寝床の縁の木は、昼より軽くなっているはずなのに、俺にはまだ同じ重さを受けているように聞こえた。
ネアは自分の寝床に入らなかった。グラン爺の家の壁際に座り、膝を抱えないまま、背中だけを壁につけていた。ポケットの中の俺は、いつもの場所にいた。ネアの指は何度か俺に触れかけて、そのたびに布の手前で止まった。
外の市場は閉じていた。遠くで誰かが戸を下ろす音がして、井戸の縄が最後に一度だけ鳴り、それから廃都は夜の音に戻った。ぐりが扉の外で板を引っかいたが、入ってこなかった。
灯りは小さかった。油の匂いが壁際に溜まり、机の上の地図の端だけを黄色くしている。ネアはその光を見ていなかった。見ていないのに、北の点がそこにあることだけは、たぶん分かっていた。
「……イシル」
ネアの声は、かすれていた。泣いている、とは言えない。けれど、言葉の端が濡れていて、いつものように形を保てないまま、俺の方へ落ちてきた。
(……うん)
俺は短く返した。
ネアは少し黙った。喉の奥で息が止まり、また動き、言葉が出るまでに何度か細く揺れた。
「……行かなきゃいけないの」
(……うん)
「……帰れるのかな」
(帰る。必ず)
(——本当に帰れるのか。俺には、自信がない)
夜の中で、ネアの息が、いつもの寝息に近づくまで、長かった。
グラン爺の回でした。
「帰る。必ず」と言えることと、その言葉を自分で信じきれないことは、同じ場所に置けると思って書きました。
次回もよろしくお願いします。




