第65話「イシルという名前」
グラン爺の声の続きを、俺はポケットの中で待っていた。
◆
寝床の縁の木は、まだ沈んでいた。グラン爺の手はその上にあり、指だけが少し曲がっていて、さっき机の上の地図をなぞった形を、まだ捨てきれていなかった。
外の市場は朝のままだった。タロの足音が坂の下を横切り、ヴェラの店先で粉を払う音がして、井戸の婆さんの釣瓶が水の重さで縄を鳴らしている。ここだけが別の場所みたいに静かで、扉の隙間から入ってくる音も、家の中に届く前に薄くなった。
ネアは机のそばに立っていた。指はポケットの中に戻っていて、俺の表面には触れていないのに、さっき触れた場所だけ温度が残っていた。
「……名前」
ネアの声だった。問いの形にはならなかった。
グラン爺はすぐに答えなかった。息を入れて、出して、それから胸の奥で止まった音を、咳にしないまま飲み込んだ。
「古い、言葉じゃ」
短く、それだけ言った。
机の上の地図は、もう巻かれていなかった。7つの点は薄く静まり、北の方角だけが、まだ床下の地脈と細く重なっている。俺はそれを聞けた。けれど、聞けるからといって、今ここで何かを探すことはできなかった。
念話を組み立てかけた。古い言葉とは何か、誰が使ったのか、聞けば続きが少しは早くなる。けれど、グラン爺の声は、出るたびに寝床の木を深く沈ませていた。
俺は送らなかった。動けない石が、できることを増やすより、使わないまま置いておくほうがいい時もある。
◆
ネアが、小さく息を入れた。
「……歌」
それだけだった。
グラン爺の目が、ネアの方へ向いた。目の動きは遅かったが、そこに驚きは置かれなかった。ただ、古い戸棚を開ける前みたいに、手前で一度止まった。
「お母さんが」
ネアはそこまで言って、続ける場所を探すように、机の端を見た。机には地図が広がっている。紙の端が少し反っていて、ネアの指はそこへ伸びかけて、触れないまま戻った。
「寝るとき、なんか」
声がそこで薄くなった。
外で釣瓶が井戸の縁に当たった。市場の誰かが笑いかけたが、声は坂の途中でほどけた。家の中には入ってこなかった。
「……言ってた」
ネアはそう言った。言い切ったというより、残っている小石をひとつだけ置いたみたいな声だった。
俺は、その歌を知っている。ずっと前、雨の音が屋根を叩いていた夜に、ネアが一度だけ口ずさんだ。言葉のほとんどは崩れていて、歌というより、眠る前に残った息の跡だった。
その中に、いしる、という音があった。
あの時、ネアは意味を知らなかった。母も言わなかった、とだけ言って、すぐに布団の中で黙った。俺も何も言えなかったし、言えることもなかった。
今も、同じだった。俺はポケットの中にいて、地図にも、寝床にも、ネアの喉にも触れられない。
◆
「歌にあったか」
グラン爺が言った。
ネアはうなずかなかった。けれど、ポケットの布が少し動いた。指先が俺の表面に触れ、すぐに離れ、それからまた同じ場所に戻った。
「……たぶん」
ネアの声だった。
「全部は、覚えてない」
グラン爺は目を閉じなかった。けれど、まぶたの下の動きだけが少し止まり、息が声になるまでの場所が遠くなった。
「そうか」
それだけ言って、また息を入れた。
寝床の縁の木が鳴った。きしむほどではなかった。長く使われて、何度も重さを受けてきた木が、もう一度だけ受ける音だった。
「わしは」
グラン爺の声は低かった。
「記録の中で、見た」
ネアの指が止まった。俺の表面に爪の端が当たり、すぐに力が抜けた。
「カルスが」
そこで息が切れた。咳にはならなかったが、声の続きが薄く削れた。ネアが一歩近づこうとして、やめた。
「転生させた魂を」
グラン爺は言葉を置いた。
「そう、呼んでいた」
部屋の空気が少しだけ狭くなった。外の音は変わらない。タロが誰かに短く返事をして、ヴェラの店先で粉の袋が置かれる。世界は何も知らないまま、朝を続けていた。
グラン爺の手が、寝床の縁の木を押した。押したというより、そこに体を預けた。
「イシル」
名前だけが出た。
俺は、何も返せなかった。
◆
ネアの指が、今度は離れなかった。
ポケットの布越しに、指先の形が分かった。強くはない。握るでもなく、確かめるでもなく、そこにあるかどうかを、手の方が勝手に見に来たみたいだった。
「……意味」
ネアが言った。
グラン爺の呼吸が、浅くなった。浅いまま、しばらく戻らなかった。けれど、声を出すことをやめなかった。
「留まる者」
それだけだった。
地図の紙が、ほんの少し鳴った。風はなかった。俺の中で地脈の振動が細く変わり、北の点ではなく、寝床の下の古い石の方へ沈んだ。
(……留まる者)
念話にはしなかった。ネアに送れば、俺の中の形が先に決まってしまう。いま決めるのは、俺ではない。
ネアは何も言わなかった。息だけが、いつもより深く入って、それから途中で引っかかった。分かった、とは言わなかった。違う、とも言わなかった。
グラン爺も、それ以上を続けなかった。古代語の話も、カルスの考えも、記録の場所も、どれも机の上に出されなかった。ただ、名前だけが置かれていた。
◆
しばらく、誰も動かなかった。
外では市場が続いている。井戸の水が桶に落ち、タロが子どもを追い払う足音を鳴らし、ぐりがどこかで板の上を引っかいた。坂の上の家に入ってくるものは、そのどれでもなかった。
ネアが、ゆっくり口を開いた。
「……お母さんが」
声はそこで止まった。
俺はポケットの中で、ネアの指を聞いていた。指には言葉がない。けれど、言葉より先に置かれるものがある。俺の表面に残った温度は、いつもの石の冷たさを少しだけ遅らせていた。
「呼んでたのかな」
ネアはそう言った。
グラン爺は答えなかった。答えられないからではなく、答えを置く場所を選ばなかった。寝床の木に手の重さが戻り、胸の奥で止まった音が、また咳の手前で沈んだ。
「……イシルって」
ネアの声が落ちた。
確かめる声ではなかった。母の歌の中から拾ったものと、グラン爺が記録の中で見たものが、同じ机の上に置かれてしまって、どちらから触れればいいか分からないまま出た声だった。
俺は何も送らなかった。送れなかった、ではない。送らなかった。言葉を足せば、たぶんそれらしくなる。俺が何かを分かった顔で並べれば、ネアはその形に合わせてしまうかもしれない。
動けない俺にできることがあるなら、いまは、ここにいることだけだった。
◆
グラン爺の手が、寝床の縁から少しずれた。
「わしには」
声が低かった。
「そこまでは、分からん」
ネアは顔を上げなかった。指はまだ、ポケットの中にあった。
「記録にあったことだけじゃ」
短く、それだけ言って、グラン爺は息を入れた。息は戻ったが、声の方には戻らなかった。
ネアの指が、ポケットの布を少しだけ押した。俺の名前を呼ぶ時の力ではなかった。坂を下りる前に忘れ物を確かめる時の力にも似ていなかった。そこにあるものが、前と同じ重さで残っているかを、手だけで測っているようだった。
俺は、その重さを返せなかった。石は沈むことはできる。けれど、沈んだぶんだけ相手を支える、という都合のいい動きはできない。ただ、ポケットの底で、同じ場所にいた。
机の上の地図は開いたままだった。7つの点はもう揺れていない。けれど、王都の神殿の方角だけが、遠くで細く、こちらを待っているみたいに沈んでいた。
ネアは、しばらくしてから俺に触れる指を離した。離したあとも、ポケットの布は同じ形で残った。
「……分からない」
ネアの声だった。
グラン爺はうなずかなかった。ネアも、それ以上は言わなかった。
分からないまま、名前はそこにあった。母の歌にも、カルスの記録にも、ネアの手の中にも、同じ音だけが別々に残っていた。
俺はポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。どこにも行けない俺の下で、地面だけが遠くまで続いている。王都の方角も、母の歌が残った夜も、坂の上のこの家も、同じ地面の上にあった。
(留まる者。俺は——ずっとここにいる)
「イシル」という名前の回でした。
意味を知っても、ネアはまだ全部を分かっていません。分からないまま手の中に残る名前として、「留まる者」だけが置かれました。
次回もよろしくお願いします。




