第63話「旅という選択」
グラン爺の家の戸は、開いたままだった。
◆
外の市場の音が、細く入ってきていた。
タロの声が遠くで跳ねた。
子どもの足音が、それを追いかけた。
その途中で、ひとつ、派手に転んだ音がした。
「あいた」
子どもの声だった。
泣き声には、ならなかった。
八百屋の婆さんが、井戸の方から言った。
「最近の子は丈夫だねえ」
それだけだった。
市場は、そのまま流れた。
ネアは振り向かなかった。
ポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
廃都の地面は、まだ薄く揺れていた。
けれど、家の中の重さとは混じらなかった。
グラン爺の手は、寝床の縁に置かれていた。
木の上に、指の重さだけが残っている。
机の本は開いたまま。
火の入っていない竈は冷たいまま。
ジンの足音は、もうどこにもなかった。
なのに、戸口の外へ出る気配は、誰にもなかった。
◆
「旅をしてほしい」
さっきの言葉が、家の中に残っていた。
グラン爺は、もう一度は言わなかった。
咳も、出なかった。
ただ、息の戻りが遅かった。
ネアの指が、ポケットの布の上で止まっていた。
俺に触れる直前のところ。
触れない場所。
俺は、念話を作りかけた。
(いや、待て)
こういう時に俺が先に言うと、だいたい余計な形になる。
転生してから学んだ、数少ない実用知識だった。
石のくせに、口数で失敗する。
どういう分類の石なんだ、俺は。
念話は、戻した。
ネアの呼吸が、少しだけ低くなった。
床板が、小さく鳴った。
「……私が」
ネアの声だった。
「……行くの?」
◆
グラン爺の息が止まった。
怒った音ではなかった。
困った音でもなかった。
古い棚から、しまっていたものを出す前の音に近かった。
「選択は、お前のものだ」
グラン爺が言った。
声は短かった。
でも、机の上の本より重かった。
「わしが命じる話ではない」
ネアは答えなかった。
外で、さっき転んだ子どもが走り出した。
足音が少し乱れて、それから揃った。
誰かが笑った。
怪我を確かめる大人の声は、すぐに薄くなった。
婆さんがまた何かぼやいた。
言葉までは、入ってこなかった。
グラン爺の指が、寝床の縁を押した。
「だがな、ネア」
咳が、ひとつ混じった。
短い咳だった。
続かなかった。
「イシルは、要石だ」
ネアの指が動いた。
今度は、布越しではなく、俺の表面に触れた。
冷たくはなかった。
熱くもなかった。
決める前の手だった。
「ここに置けば、廃都は助かる」
グラン爺は言った。
「けれど、ここだけが助かっても、足りん」
そこまで言って、グラン爺は黙った。
説明は、続かなかった。
続ければ分かりやすくなったのかもしれない。
でも、その分だけ軽くなる気がした。
ネアは、指を動かさなかった。
机の上の本の横に、古い布が畳まれていた。
地図を包んでいる布だと、俺にも分かった。
前に触れた時と、同じ乾いた匂いがした。
グラン爺は、それを開かなかった。
ジンに渡さなかったもの。
ネアにも、まだ渡していないもの。
布の端だけが、机の板に引っかかっていた。
そこに指を伸ばせば、話は別の形で進んだのかもしれない。
けれど、グラン爺の手は寝床の縁にあった。
ネアの手はポケットの上にあった。
誰も、地図に触れなかった。
◆
俺は、ポケットの中で、ただ置かれていた。
要石。
呼ばれるたびに、少し遅れて俺に届く名前。
街の水が冷たくなる。
畑の土が湿る。
子どもが転んでも、泣かない。
それが俺のせいなのかは、分からない。
分からないまま、地面の下の振動だけが増えていく。
俺が何かをした、という感じはなかった。
むしろ逆だった。
何もしないから、広がっているような感覚。
(……便利な置物すぎる)
言ってから、少し違うと思った。
念話には出していない。
グラン爺の家の中では、誰も笑わなかった。
ネアの指が、俺の角を軽く押した。
痛くはない。
でも、逃げられない押し方だった。
いや、俺は元から逃げられない。
◆
「旅をすれば」
ネアが言った。
声は低かった。
問いかけの形をしていた。
でも、まだ誰にも渡していない声だった。
「何か、戻るの」
グラン爺は、すぐには答えなかった。
外の釣瓶が鳴った。
水の音がした。
前より少し深いところから上がってくる音に聞こえた。
「戻るものも、ある」
グラン爺が言った。
「戻らんものも、ある」
ネアは何も言わなかった。
「ただ、行かねば届かん場所がある」
グラン爺の声は、そこで止まった。
廃都の外。
俺には見えない場所。
音も、匂いも、まだ知らない場所。
そこに、要石がある。
あるらしい。
地脈の奥で、細い震えが返った。
返事ではなかった。
道でもなかった。
遠くに置かれた器が、風もないのに少し鳴ったような感じだった。
俺は、そちらへ手を伸ばさなかった。
手がないから、という理由だけではない。
根の衆。
要石を集めようとする者たち。
800年前に沈んだ大陸。
そのどれも、家の中にはなかった。
けれど、戸口の外より近いところにあった。
俺は念話を作った。
今度は戻さなかった。
『ネア』
「……うん」
返事は、すぐだった。
『俺は動けない』
短くしたつもりだった。
それでも、家の中では長かった。
ネアの呼吸が止まった。
『廃都にいたいって言えば、ここにいる』
グラン爺は何も言わなかった。
『旅に出るって言えば、たぶん、俺は運ばれる』
言い方が悪かった。
運ばれる。
完全に荷物側の言葉だった。
(もっと他にあっただろ)
でも、言い直さなかった。
『だから』
ネアの指が、俺の上で止まった。
『お前が連れていってくれるなら』
そこまでにした。
◆
ネアは黙っていた。
長い沈黙だった。
でも、空っぽではなかった。
指が一度だけ離れた。
ポケットの口が、わずかに開いた。
外の空気が入ってきた。
家の中より少し軽い空気だった。
ネアは、そのまま俺を取り出さなかった。
見せびらかすでもなく、確かめるでもなく、ただポケットの中に戻した。
使わない選択。
俺も、地脈を広げなかった。
念話で誰かを呼ばなかった。
廃都全体を動かすこともしなかった。
この前なら、できた。
集まれ、と送れば、足音はいくつも集まる。
市場の動きが揃う。
家の前に、人の気配が増える。
けれど、それをしたら、ネアの返事ではなくなる。
グラン爺の家に、廃都を連れてくることはできる。
ネアが旅を選ぶ場所まで、廃都で埋めることもできる。
しなかった。
市場は市場のまま動いていた。
子どもはまた走っていた。
タロが「そこ段差だぞ」と言って、言い終わる前に別の足音が跳ねた。
ネアの呼吸が戻った。
戻って、また止まった。
グラン爺は待っていた。
手は寝床の縁にある。
急がせる音は、混じらなかった。
◆
「……連れていく」
ネアが言った。
短かった。
けれど、家の中の重さが少し変わった。
軽くなったのではなかった。
置き場所が変わった。
グラン爺の息が、深く入った。
「そうか」
それだけだった。
ネアの指が、ポケットの上から俺を押さえた。
強くはない。
離す気のない重さだった。
俺は念話を作りかけた。
ありがとう、なのか。
ごめん、なのか。
一緒に行こう、なのか。
どれも、少し違った。
言えば、ネアの選択に俺の言葉が乗る。
それは、違う気がした。
だから、何も送らなかった。
◆
外では、さっき転んだ子どもがまた走っていた。
八百屋の婆さんが、呆れた声を出した。
タロが笑った。
釣瓶が鳴った。
廃都は、ふだんの音に戻っていく。
でも、家の中のふだんは、少しだけ戻る場所を間違えたらしかった。
ネアは戸口の方を向いた。
すぐには歩かなかった。
ポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
廃都の下の揺れと、遠い場所の揺れが、細いところで触れていた。
ネアの指は、まだ離れなかった。
◆
(この子が決めた)
旅という選択。
「……連れていく」
——決めたのは、ネアだった。
俺は、何も動いていない。
なのに、旅に出るらしい。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「グラン爺の最後の話」もよろしく。
地図が出るらしい。
——石より




