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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
廃都編

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第62話「地図は渡さん」


 坂を下りていくジンの足音が消えても、グラン爺の家の床は、しばらく誰のものでもない音を残していた。


   ◆


 ネアのポケットの中で、俺は黙っていた。


 外にはまだ人がいた。タロが一番近く、ヴェラは少し下、ダン爺さんの椅子を引きずるような足音も坂の途中で止まっている。井戸の婆さんは家までは上がってこなかったらしく、縄のきしむ音だけが遠くで戻りかけていた。


 誰も、入ってこない。


 扉は開いていた。けれど、そこから先はグラン爺の家だった。市場の音が入ってくるには狭く、他人の足を入れるには少し重い場所だった。


「……ネア」


 グラン爺が呼んだ。


 咳はなかった。ないまま声が出たせいで、ネアの指がポケットの布を少し押した。前なら、声の前か後に必ず胸の奥の音が混じった。今日はそれが抜けていて、家の中が一つぶん足りなくなったように聞こえた。


「座りなさい」


 ネアは返事をしなかったが、言われた通りに動いた。寝床の縁ではなく、机の横に座る。そこなら、机の下の箱とグラン爺の手の間に入れる。


 あの箱だ。


 見えてはいない。けれど、箱のあたりだけ、床板の音が薄い。小さいくせに、周りの音を避けさせている。地図というものは紙のはずなのに、石より扱いが面倒そうだった。


   ◆


「あれは、根の衆だ」


 グラン爺が言った。


 ネアは黙っていた。


「根を集める者たち。そう名乗っておる」


 外で、ヴェラが誰かに低い声で何かを言った。言葉までは入ってこない。けれど、帰れ、ではなかった。待て、でもなかった。ただ、声を大きくしないための声だった。


「要石を集めれば、世界を正せる。そう信じている」


「……正せるの」


 ネアの声は小さかった。


 グラン爺はすぐに答えなかった。寝床の木が、指の重さで少しだけ鳴る。


「正す、という言葉は便利じゃ」


 短く言って、そこで息を入れた。


「壊しても、正したと言える」


 ネアの指が、俺に触れる手前で止まった。


 俺は念話を作りかけた。根の衆は敵なのか、とか、ジンはまた来るのか、とか、聞けることはいくつもあった。俺が聞けば、グラン爺はたぶん答える。答えるために、息を使う。


 だから、送らなかった。


 石にも、使わないことにした方がいい時がある。


   ◆


「800年前にも、似たことがあった」


 グラン爺の声が、少し低いところから出た。


 ネアの指が、今度は俺に触れた。強くはない。けれど、布越しではなく、指先の形が分かる触れ方だった。


「要石を集めた者たちがいた。記録に残っておる名は少ない。町の名ばかりじゃ」


 机の上で紙が鳴った。グラン爺の手が触れたのか、風が入ったのかは分からなかった。


「大陸が、ひとつ沈んだ」


 外の音が、そこで少し遠くなった。


 ネアは息を入れなかった。俺も、何かを考える形を失くした。石に肺はない。肺はないのに、ポケットの中の空気だけが急に狭くなる。


「沈んだ、って」


 ネアはそこまで言って、続けなかった。


 海にか。地面ごと沈んだのか。人は残ったのか。聞けば答えが増える。答えが増えれば、そのぶん分かった気になる。たぶん、今はそれをしてはいけない。


 グラン爺も、続きを出さなかった。


「名だけが残った」


 それだけだった。


 坂の下で、タロの足音が動いた。さっきからずっと立っていたはずなのに、走り出す時の音が軽い。いつものタロなら、ここまで坂を上がって、立って、下りかければ、少しは息が乱れる。今日はそれがない。


 タロ本人は気づいていなかった。子どもたちを押し戻すように足を鳴らし、また坂の途中で止まる。足取りだけが、朝の市場へ戻るのを急いでいる。


 俺は、その音を聞いていた。


   ◆


「地図はある」


 グラン爺が言った。


 ネアの指が、俺の表面を押したまま動かない。


「見せれば、場所は分かる。渡せば、あやつらは行く。ジンだけではない。根の衆は、そういう者たちじゃ」


 箱は、机の下にある。


 小さい。大陸を沈めるかもしれない場所へ続くものが、そんなに小さい箱に収まっている。もう少し分かりやすく、床が抜けるくらい重くなっていてほしい。俺は石なので、重いものにはそれなりに敬意がある。


 けれど、箱は軽かった。


 軽いから、持てる。


 持てるから、運べる。


 運べるから、誰かが欲しがる。


「要石は、離れておるから支えになる」


 グラン爺は、箱を開けなかった。


「集めれば強くなる、というものではない。ひとつ抜けば、その土地の支えが抜ける。二つ抜けば、二つぶん抜ける。それを重ねれば、地面の方がもたん」


 ネアは何も言わなかった。


 俺は、地脈の奥へ耳を伸ばしかけて、やめた。


 今なら、もっと遠くまで聞けるかもしれない。800年前の音の残りや、箱の中の紙が向いている先や、ジンが下りていった方角の地面の癖まで、少しは拾えるかもしれない。


 でも、それをすれば、俺は知ろうとする。


 知ったら、ネアに言いたくなる。


 言えば、ネアは動く。


 俺は動けない。だからといって、ネアを俺の足にしてはいけない。


 地脈から、手を離すように意識を戻した。


   ◆


「地図は渡さん」


 グラン爺が言った。


 ジンに向けた時と同じ言葉だった。けれど、今度は声の向きが違った。扉の外ではない。机の下の箱へでもない。部屋の中にいる全員の足元へ置く声だった。


「根の衆にも、廃都にも、誰にも渡さん」


「……廃都にも?」


 ネアが聞いた。


「今は、な」


 グラン爺の答えは短かった。


「持てば、使いたくなる。守るためだと思えば、なおさらじゃ」


 その言い方で、俺の内側に昨日のことが戻った。


 集まれ、と送った。市場から人が来た。誰も逃げなかった。あれはたぶん、助かった出来事だった。


 でも、何度もやれば違う。


 呼べば来ると思うようになる。来てくれる人を、守るための壁として数えるようになる。そうなったら、俺は動けない石ではなく、動かないまま人を動かす何かになる。


 それは、違う。


 ネアの指が、ほんの少しだけ緩んだ。俺が黙ったことに気づいたのかもしれない。たぶん、でしかない。


 それでも、ネアは俺に聞かなかった。


   ◆


 しばらく、家の中には市場の音だけが入ってきた。


 井戸の桶に水が落ちる。ヴェラの店で布が畳まれる。ダン爺さんが坂を下りる時、膝をかばう足音がする。タロはまだ子どもたちを散らしていて、さっきより少し遠くを走っていた。


「おい、そっちは行くなって。ほら、戻れ」


 声が軽い。


 誰も、それを変だとは言わなかった。


 今日の違いは、いい違いに見える。疲れにくいなら助かる。坂を何度も上がれるなら、廃都では得だ。けれど、ジンはそれを見た。窯を見て、井戸を見て、足音もたぶん聞いていた。


 いい変化は、隠れにくい。


 グラン爺の手が、箱から離れた。


「……ネア」


 声が、少し深くなった。


 ネアは返事をしない。指だけが俺に触れている。


「お前には」


 そこで息が止まった。


 咳は出なかった。


 咳がないまま、止まる時間だけが伸びた。


「旅を、してほしい」


 ネアの指は、動かなかった。


 俺も、何も送らなかった。


 動けない石に旅をしてほしい、という話ではない。たぶん。いや、俺も連れて行かれるのだろうから、かなりそういう話ではある。


 けれど、グラン爺の声が向いていたのは、俺ではなかった。


   ◆


 その時、坂の下でタロが笑った。


 大きな笑いではない。子どもを追い払う途中で、転びかけた誰かを支えたのだろう。足が二つもつれて、すぐにほどける音がした。タロは怒る声を出し、次の瞬間にはもう別の場所へ走っていた。


 速い。


 その一語を念話にしそうになって、俺は止めた。


 ネアも、たぶん聞いていた。ポケットの上の指が、少しだけ向きを変えたからだ。けれど、ネアは外を見ない。立ち上がらない。タロに声もかけない。今それを言葉にすれば、良いこととして拾われる。良いこととして拾われたものは、すぐ誰かの目印になる。


 ジンは、もう見ていた。


 窯の熱も、井戸の水も、坂を何度も上がれる足も。根の衆が欲しがるものは地図だけではないのだと、グラン爺は言わなかった。言わなくても、机の下の箱が黙っていることで足りていた。


 ネアは立たなかった。


 グラン爺も、次の言葉を足さなかった。机の下の箱は開かず、地図は紙の音さえ立てない。坂の下では、タロがまた走っている。走れることを、まだ誰にも見られていないと思っている足音だった。


 ネアの指が、俺を包んだ。強くはない。けれど、離すための形でもない。旅という言葉だけが、まだポケットの外に置かれたままだった。


 街は、いつもの音に戻ろうとしていた。誰も急がせていないのに。


 戻ろうとしている音ほど、遠くまで聞こえた。


地図は出ませんでした。

「旅を、してほしい」

俺は動けないので、今のところ旅の担当者ではないはずです。石だが。

☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。

ネアが黙っているぶん、タロの足音が少し忙しい回でした。

次回「旅という選択」もよろしく。——石より

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