第61話「窯の温度」
窯の火が、いつもより長く残っていた。
◆
朝の市場は、昨日と同じ音をしていた。
タロの足音が中央を走り、子どもたちの足音がその周りで跳ねる。ヴェラの店では、粉を払う布の音がした。井戸では釣瓶が下り、畑の方では土を返す鍬が短く鳴った。
ネアのポケットの中で、俺はその下にある地脈を聞いていた。
水は少し冷たい。
土は少し湿っている。
市場の床板は、昨日より軽く鳴る。
誰もそれを話題にしなかった。
ただ、ヴェラの窯だけが、少し違った。
火は落ちているはずなのに、石の腹に残る熱が、薄く続いていた。燃えているのではない。余った熱が逃げ遅れている、というのでもない。
街の下から、温度を支えている感じがした。
(……俺、窯までやってんのか)
便利な石になった覚えはない。
ネアの指が、ポケットの上を軽く押した。たぶん、俺が変なことを考えたのが伝わった。
「……うるさい」
まだ何も言ってない。
◆
街道の入口で、足音がひとつ止まった。
住民の足音ではなかった。
速くはない。荒くもない。けれど、廃都の石畳を踏むたびに、音が少しだけ余った。歩幅が合っていない。市場へ来た人間の足なら、どこかで迷いが混じる。品物を見るとか、井戸の位置を確かめるとか、誰かの声に反応するとか。
その足音には、それがなかった。
入口から市場へ入り、窯の前で止まった。
「まだ温かい」
男の声だった。
ヴェラの布の音が止まった。
「朝は、だいたいそうだよ」
声は笑っていた。布の音だけ戻らなかった。
男は答えなかった。
窯の石を叩いた。軽く、2回。音の返りを聞くための叩き方だった。
それから井戸へ向かった。
婆さんの釣瓶が、ちょうど上がるところだった。男は水を見た。飲まなかった。手もつけなかった。ただ、桶の縁に指を当てた。
「冷えるのが早い」
婆さんは、何も言わなかった。
釣瓶の縄だけが、きし、と鳴った。
(見に来たのか)
襲いに来た足音ではなかった。
けれど、ただの客でもなかった。
◆
男は市場を横切らず、坂の方へ向かった。
グラン爺の家がある方角。
ネアの足音が止まった。
『ネア』
「……うん」
短い返事だった。
ネアはすぐには走らなかった。市場の音を聞いているように、少しだけ立っていた。
ヴェラの店。
井戸。
子どもたち。
タロ。
全部、動いていた。
だからネアは、動いた。
坂を上がる足音は、いつもより静かだった。急いでいるのに、石を蹴らない。俺がポケットの中で跳ねないように、歩き方を選んでいる。
(そういうとこだぞ)
念話には出さなかった。
◆
グラン爺の家の扉は、開いていた。
「地図を渡せ」
男の声がした。
怒鳴ってはいなかった。
頼んでもいなかった。
注文した品を受け取る時の声に近かった。
「渡さん」
グラン爺の声は、枯れていた。
でも、咳は混じっていなかった。
「……ジン」
名前だけが、床に落ちた。
「礎守の家に残る地図。要石の位置。地下の線。古い街道の名。こちらは、そこまで知っている」
「なら、知らんことも知っておけ」
グラン爺の寝床が、ぎし、と鳴った。
「あれは、渡すために残したものではない」
男の足音が、床板の上で少し動いた。踏み込む音ではない。机の位置、寝床の高さ、窓の向き。部屋の中を測っている。
「あなたが持っていても、もう使えない」
その声で、ネアの足音が扉のところで止まった。
俺の表面に、ネアの指が触れた。
強い。
痛くはない。
石なので。
でも、強かった。
◆
ネアが中へ入った。
グラン爺と男の間に立った。
何も言わない。
男の呼吸が、少しだけ変わった。
「子どもを間に置くのですか」
「わしが置いたんじゃない」
グラン爺が答えた。
ネアは動かなかった。
男の視線が、ネアの顔からポケットへ落ちた。視線は分からない。けれど、服の布がほんの少し押される感じと、男の呼吸の向きで、それくらいは分かるようになっていた。
「その石も、渡してもらうことになるかもしれない」
ネアの指が、さらに強くなった。
俺は、地脈に沈んだ。
ここで押し返すことはできた。
たぶん。
男の足元の石を少し鳴らすことも、床の下の地脈を震わせることも、やろうと思えばできた。
でも、それをしたら、男は確かめる。
何が鳴ったのか。
どこから鳴ったのか。
誰が鳴らしたのか。
だから、鳴らさなかった。
俺は、別のものを選んだ。
『集まれ』
短く、それだけ。
命令というより、転がした小石みたいな念話だった。
地脈の中を、薄く広がる。
市場へ。
井戸へ。
窯へ。
畑へ。
誰の名前も呼ばなかった。
◆
最初に止まったのは、タロだった。
市場の中央で、走る足音が途切れた。
「……ネア?」
次に、ヴェラの布の音が止まった。
井戸の縄が、途中で止まった。
ダンの椅子が引かれる音がした。
子どもたちの足音は、少し遅れて静かになった。完全には止まらない。こそこそ動いている。そういうところは子どもだった。
誰かが叫んだわけではない。
誰かが説明したわけでもない。
足音が、坂へ向いた。
ひとつずつ。
ばらばらの音のまま、同じ方角へ。
廃都が、急に強くなったわけではなかった。
ただ、誰も逃げなかった。
◆
男が、扉の外を向いた。
タロの足音が、いちばん近かった。
ヴェラの足音が、その後ろ。
ダンの重い足音。
井戸の婆さん。
子どもが2人。
誰も、扉の中へは入らなかった。
外に立っただけだった。
男の呼吸が、浅くなった。
「……これは、あなたの仕込みですか」
グラン爺は答えなかった。
咳もしなかった。
ネアも答えなかった。
俺も、もう何も送らなかった。
窯の熱が、遠くでまだ残っていた。
男は、小さく息を吐いた。
「今日は、確認だけにします」
床板が鳴った。
男の足音が、扉へ向かう。
ネアは半分だけ身をずらした。通れるだけ。逃げ道ではなく、通路だけを開ける動きだった。
男は外へ出た。
外の足音は、少しだけ左右へずれた。
道を空けた。
でも、広くは空けなかった。
「また来ます」
声は最後まで、日常の会話の温度だった。
◆
男の足音が坂を下りた。
市場を通らず、街道へ戻っていく。
井戸の横で、一度だけ止まった。
水には触れなかった。
窯の前でも止まった。
石を叩かなかった。
そのまま、入口を抜けた。
足音が遠くなるまで、誰も動かなかった。
それから、ヴェラの布の音が戻った。
井戸の縄が下りた。
タロが、子どもを追い払うように足を鳴らした。
市場は、朝に戻った。
少し遅れて。
ただ、窯の前だけは遅かった。
ヴェラが火口の蓋を開けた。熱が、地脈の上を薄くなでた。
「……今日は、よく焼けるね」
誰に言ったのか分からない声だった。
タロが、少し離れた場所で「得じゃん」と言いかけて、やめた。子どもの足音も、そこで止まった。
よく焼ける。
それは、良いことのはずだった。
パンが固くならず、煮炊きの薪も少なくて済む。廃都で暮らす人間には、たぶん助かる変化だった。
けれど、今それを喜ぶ声はなかった。
男が見たものを、みんなも少しだけ見てしまった。
◆
グラン爺が、寝床の上で息を吐いた。
「……悪かったな」
ネアは答えなかった。
指だけが、俺を握っていた。
「地図は」
短い声。
「ある」
「渡すの」
「渡さん」
そこで、グラン爺は少しだけ笑った。
咳は出なかった。
出なかったことの方が、変だった。
ネアは、何も言わない。
ただ、俺を握る力を少し緩めた。
◆
坂を下りる時、タロが横に並んだ。
「あいつ、何なんだよ」
「知らない」
ネアが答えた。
「また来るって言ったぞ」
「……うん」
「いいのかよ」
ネアは少しだけ止まった。
それから、ポケットの上を押した。
「いる」
誰が、とは言わなかった。
タロも、それ以上聞かなかった。
市場の窯は、まだ少し温かかった。
俺は、何も言わなかった。
*【第61話 了】*
窯の温度。
「また来ます」
俺は、集まれ、と言っただけだった。熱いのは窯か街か、よく分からない。石だが。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「地図は渡さん」もよろしく。——石より




