第60話「ちょっとね」
朝の井戸で、縄の音が軽かった。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
昨日の言葉が、まだ底に沈んでいた。
カルス。
普通の、ただの、人間。
その2つは、夜を越えても薄くならなかった。
ネアも、口にしなかった。
坂を下りる足音だけが、昨日より少しだけ早かった。
薬草の束が、ネアの腕の中で擦れた。
市場へ向かう朝の音。
雑貨屋の戸が開く音。
いつもの廃都だった。
それなのに、井戸の縄が軽かった。
◆
井戸端の婆さんが、桶を上げた。
「あれ」
小さな声だった。
驚いた、というより、手が先に止まった声だった。
桶の水が、縁で跳ねた。
けれど、縄の擦れる音が、昨日よりきれいだった。
井戸の底から上がってくる冷たさも、少し近かった。
「今日、楽だねえ」
婆さんはそれだけ言って、桶を置いた。
理由は探さなかった。
水を汲む人間は、水が汲めればそれでいい。
ネアは、井戸のそばを通りすぎた。
ただ、指がポケットの上で一度だけ動いた。
俺は返事をしなかった。
返事をすれば、ネアは足を止める。
足を止めれば、井戸の前に人が集まる。
人が集まれば、誰かが理由を聞く。
理由なんて、まだ俺にも言えなかった。
ただ、水が上がりやすい。
ただ、縄が引っかからない。
それだけの朝でいてほしかった。
◆
市場の土は、まだ朝の湿りを持っていた。
雨は降っていない。
夜に霧が出た様子もなかった。
それでも、土の奥が乾ききっていなかった。
ヴェラの店先で、野菜を並べる音がした。
「昨日より、葉がしゃんとしてるね」
「水、替えたのかい」
「替えてないよ。あんたが昨日、値切ったやつだ」
短い笑い声が、店先で転がった。
誰も大げさにしなかった。
少し育ちがいい。
少し水が澄んでいる。
それだけなら、朝はそういうこともある。
タロが走ってきた。
足音が、土の上で止まった。
「ネア、今日、井戸の水うまいぞ」
「……飲んだの」
「飲んだ」
「お腹、壊すよ」
「壊してねえよ」
タロの声は少し低いままだった。
弟妹の一人が、その後ろで水を入れた木椀を持っていた。
こぼれた水が、土に入った。
染みる音が、深いところまで届いた。
そこで、俺の中のどこかが、短く応えた。
畑の方でも、同じ音がした。
誰かが鍬を入れた土。
まだ細い葉の根。
壊れかけの石垣の下に残った湿り。
それらが、別々の場所から、同じ方へ沈んでいく。
市場の端で、子どもが転んだ。
泣く前に立ち上がった。
膝に土がついた。
血は出ていなかった。
タロが「走るな」と言った。
自分も走っていた。
誰も、それを不思議とは呼ばなかった。
壊れた石段の欠けた場所にも、少しだけ湿りが残っていた。
いつもなら白く乾いて、足を置くと粉が浮く場所だった。
今日は粉が立たなかった。
◆
地脈が、一本ではなくなった。
井戸の底。
市場の土。
雑貨屋の床板。
坂の上の家の柱。
別々に聞いていた音が、同じ場所へ落ちた。
耳が増えた、ではない。
俺の方が広がった、というのとも違った。
廃都が、同じ息をしていた。
その中に、俺がいた。
石のまま。
ポケットの中のまま。
けれど、井戸の冷たさも、畑の湿りも、同じところから来た。
(……繋がった)
念話には出さなかった。
言ったら、何かが決まってしまう気がした。
決めるほど、俺はまだ分かっていない。
それに、分かったと言った瞬間、俺は使い方を考え始める。
どこへ流すか。
誰を助けるか。
何を先に直すか。
そういう順番を、石が勝手に決めていいのか。
前世でなら、たぶん会議になった。
資料が出て、責任者がいて、誰かが判子を押す。
ここには、井戸と土と朝の声しかない。
判子どころか、紙もない。
だから俺は黙った。
石が急に偉くなるより、朝が朝のまま続く方が、たぶん大事だった。
◆
雑貨屋の隅で、ぐりが転がった。
今日はいつもの壁際ではなかった。
店の入口に近い、日が当たる少し手前。
そこに丸くなっていた。
腐った石の匂いは薄かった。
ぐりが食べたのか、土が飲んだのかは分からない。
ネアが雑貨屋の前で足を止めた。
ぐりが、こちらを向いた。
目だけが、じっとポケットの方に向く。
相変わらず、食べる気配があった。
(お前、今それどころじゃないだろ)
もちろん答えはなかった。
ぐりは半分だけ転がって、また止まった。
床板が、短く鳴った。
その音が、井戸の底と同じ場所に落ちた。
廃都の地脈網が、そこで閉じた。
閉じた、というより、ほどけていた糸が、急に1枚の布になった。
俺の中に、力が通った。
光も、音もなかった。
その全部の下で、廃都の底が起きた。
遠くで、古い石が鳴った。
市場の端ではない。
坂の上でもない。
もっと外側。
昔の門があったらしい方角。
そこに、廃都ではない重さが一瞬だけ触れた。
誰かの足音ではなかった。
荷車でもない。
風が運んだ音でもなかった。
見られた、というほどはっきりしない。
でも、外のどこかが、こちらを測ろうとしていた。
俺は、そこへ伸びなかった。
伸びれば届くかもしれない。
届けば、相手の形が分かるかもしれない。
けれど、分かったところで、ネアの朝は止まる。
市場の朝も止まる。
それは、まだ違う気がした。
◆
できることが、増えた。
たぶん。
井戸の底へもっと深く入れる。
畑の乾いたところへ水を回せる。
弱った壁の内側も聞ける。
グラン爺の咳が、坂の上で短く鳴った。
昨日より軽い。
でも、消えてはいない。
そこに触れれば、何かできるかもしれなかった。
寝床の縁に残る重さを、支えられるかもしれない。
俺は、その先を聞かなかった。
聞けば、やってしまう。
俺は石だ。
医者ではない。
神でもない。
ましてや、人の終わり方を決めるものでもない。
グラン爺は、昨日、続きを話した。
話して、それ以上は言わなかった。
言わないところまで、あのじいさんのものだった。
俺が勝手に支えたら、あの沈黙まで変わってしまう。
それは、たぶん違う。
坂の上の咳は、もう一度だけ鳴った。
それから静かになった。
市場の音が戻った。
俺は何もしなかった。
◆
ネアが、ポケットの上から俺を押さえた。
強くはなかった。
落とさないように、という力でもなかった。
そこにいるか確かめる手だった。
「……イシル」
声が低かった。
タロは少し離れたところで弟妹に何か言っていた。
婆さんがまた井戸へ戻ってきた。
ネアだけが、立ち止まっていた。
「今なんか、すごかった」
短く、それだけ。
何が、とは言わなかった。
言葉を持てないのではなく、持たないまま渡してきた声だった。
俺は、念話を組み立てた。
(ん。ちょっとね)
それ以上は、出さなかった。
要石①。
地脈網。
目覚め。
どれも、ここで言うには大きすぎた。
ネアの指が、動かなかった。
「……よかった」
小さな声だった。
喜ぶ声ではなかった。
ただ、落ちた。
井戸の水が土に染みるみたいに。
その声だけで、十分だった。
カルスが呼んだ理由も。
普通の、ただの、人間だったことも。
要石①がどういうものかも。
全部、朝の市場には大きすぎる。
ネアが「よかった」と言った。
それだけで、今は足りた。
◆
市場は、朝のままだった。
タロが木椀を取り落として、弟妹に怒られていた。
ヴェラが、値段を1つ言い直した。
ぐりは入口に近い場所で寝ている。
廃都は一段、豊かになった。
たぶん、誰も分からない。
分からないまま、水を飲む。
分からないまま、土を踏む。
分からないまま、葉を売る。
それでいい気がした。
ネアが歩き出した。
ポケットの中で、俺は揺れた。
地脈は、もう離れなかった。
「ちょっとね」
——水と土と空気の話。
俺は、たぶん少しだけ大げさな石になった。石だが。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「窯の温度」もよろしく。また来るらしい。
——石より




