第57話「地下への扉」
数日後の昼。市場の音は、ふだんの昼の音だった。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
籠の音、皿を片付ける音、子どもの足音、犬の足音。タロの足音は、市場の中央のふだんの位置だった。半歩、街道の入口の方角にずれた重さは、まだ戻っていなかった。子どもの足音が、タロの動きの周りで半歩、薄く跳ねていた。
ぐりは、雑貨屋の隅のふだんの位置だった。今朝も、何も食べていなかった。気まぐれ、らしかった。
坂の上の家の方角の地脈の重さは、まだふだんに戻っていなかった。グラン爺の咳の周期が、ふだんよりも半段、外れたままだった。今日は、ふだんよりも半呼吸ぶん、咳の音が長くなっていた。
◆
ネアの足音が、市場の角から、雑貨屋の方角に向かった。ふだんの届け物の動きでは、なかった。手には、何も持っていなかった。地脈の振動で、ネアの呼吸は、ふだんよりも半段、深かった。けれど、足音の周期は、ふだんに戻りつつあった。
雑貨屋の戸の前で、ダン爺さんの足音があった。地脈の振動で、ダン爺さんの足音は、市場の方角に半歩、ずれていた。けれど、向いている顔の方角は、雑貨屋の中の方角だった。手の重さが、戸の縁に、半歩、預けられていた。何かを待っている動きの周期だった。
ダン爺さんは、ネアの足音が来るのを、待っていた、らしかった。
「ネア」
ダン爺さんの声だった。低く、短く、ふだんのダン爺さんの声よりも半段、深かった。
「来るか」
短く、それだけ言った。
ネアは、答えなかった。地脈の振動で、ネアの足音が、雑貨屋の中の方角に半歩、向いた。それから、ダン爺さんの足音の半歩後ろを、ついていった。
◆
雑貨屋の奥の、廃材の山の根元だった。地脈の振動で、ダン爺さんの足音が止まった。床の板の重さの上に、ダン爺さんの手の動きが、半歩、降りていた。
地脈の振動で、坂の上の家の方角から、咳がひとつ、長く続いた。ダン爺さんの手の重さが、そこで半呼吸、止まった。それから、また、床の板の上に降りた。
古い、どこにでもある床の板の重さの場所だった。けれど、ダン爺さんの手は、迷わなかった。何度も、その場所に手を置いてきた動きの周期だった。
地脈の振動で、床の板が、半歩、ずれた。板の動きは、ふだんの板の動きとは違っていた。半歩横にずれて、それから半歩、上に持ち上がった。下に、空間があった。
地下に、通路があった。
地脈の振動で、その通路の重さは、ふだんの廃都の地面の重さとは、違っていた。半段、深い場所の重さだった。湿っていた。けれど、腐ってはいなかった。澄んだ重さが、半段、混じっていた。
「下、ある。昔から、ある」
ダン爺さんが、短く、それだけ言った。声の温度は、ふだんのダン爺さんよりも半段、深かった。何かを、ずっと前から知っていた声だった。けれど、それ以上の説明は、しなかった。手の重さも、戸の縁から動かなかった。地脈の振動の中で、ダン爺さんの呼吸は、ふだんよりも半段、ゆっくりだった。
ダン爺さんは、それ以上、何も言わなかった。地脈の振動で、ダン爺さんの足音が、半歩、後ろに引いた。それから、雑貨屋の戸の方角に向かった。ネアの方角に振り返らないまま、雑貨屋の外に出ていった。市場の方角に戻る、ダン爺さんの足音は、ふだんの周期に戻りはじめていた。
◆
ネアの足音が、しばらく、動かなかった。地脈の振動で、ネアの呼吸が、ふだんよりも半段、深かった。指は、ポケットの上で、止まったままだった。床の板の重さは、半歩ずれた位置で、ネアの足音を待っていた。雑貨屋の中の他の音は、ふだんの周期で、続いていた。
それから、半歩、床の板の方角に向いた。
「……行ってみる」
ネアの声だった。短く、それだけ言った。声の温度は、ふだんのネアの声よりも半段、深かった。けれど、迷いの周期は、混じっていなかった。
ネアの足音が、床の下の方角に半歩、降りた。地脈の振動で、地下の通路の重さがネアの足音の下でひと呼吸、薄く沈んだ。
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。
◆
地下の通路は、長くなかった。半歩、半歩と、ネアの足音がゆっくり進んだ。地脈の振動で、両側の壁の石の重さは、廃都の地面の石の重さとは、違っていた。古い石だった。ふだんの廃都の壁の石よりも、半段、深いところに沈んでいた重さだった。風の音も、土の匂いも、地脈の振動の中では、薄かった。
数歩、進んだところで、通路は止まった。半円の小部屋だった。
地脈の振動で、その小部屋の重さは、特別だった。
半段ではなかった。ふだんの地面の重さよりもずっと深いところに、地脈の流れが薄く、濃く揺れていた。地脈の振動の中で、その揺れは、廃都のどこの地面の振動とも違っていた。半円の中央の地面の下にだけ、別の振動の周期があった。
半円の壁の下に、古い溝があった。地脈の振動で、その溝の重さは、水の跡ではなかった。何かを囲っていた跡の重さだった。溝は、半円の中央の地面の下の振動の周期を、ぐるりと囲んでいた。
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ネアの足音が、半円の中央で、止まった。
地脈の振動で、ネアの呼吸が、ひと呼吸、深くなった。それから、戻った。指は、ポケットの上で、止まったままだった。
「……ここ」
ネアの声だった。短く、それだけ言った。
「変な、感じ」
短く、それだけ言った。それ以上は、言わなかった。
地脈の振動で、ネアの顔の向きが、半円の中央の地面の方角に半歩、下がった。何かを見ている動きでは、なかった。何かを、聞いている動きでも、なかった。半歩、その方角を向いただけだった。けれど、その半歩の向きは、ネアが他の場所で見せる半歩の向きとは、違っていた。フリンの家でも、グラン爺の家でも、こういう半歩の向き方は、しなかった。
◆
俺は、ポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。
地下の地脈の重さは、廃都の地面の重さとは、違っていた。何かが、ここに長くいた、らしかった。けれど、もう、いなかった。残っていたのは、いた、という気配の重さだけだった。
(……ここは、何か、眠っていたのかもしれない)
念話には、出さなかった。
地脈の振動の中で、廃都の地面の重さが、半段深い場所で、薄く揺れた。前世の記憶の方角でも、廃都の地脈の方角でも、はっきりしなかった。ひと呼吸、共鳴したような動きだった。
けれど、答える声は、なかった。半円の中央の地面の下からも、廃都のどこの方角からも、答える声は、なかった。揺れただけだった。
◆
ネアの足音が、半円の中央から、半歩、戻り始めた。
「……戻ろう」
短く、それだけ言った。
ネアの足音が、通路を半歩ずつ、雑貨屋の方角に戻っていった。地脈の振動で、ネアの呼吸は、ふだんよりも半段、深かった。けれど、ふだんに戻りはじめていた。半円の重さは、ネアの足音が離れていく中で、また、地下の地面の下に薄く沈んでいった。
地下の通路の床の板が、ふだんの位置に、また、戻った。雑貨屋の奥の、廃材の山の根元の、ふだんの位置だった。半歩、ずれただけの、ふだんの板の重さに戻った。地脈の振動で、何もない雑貨屋の奥の廃材の山の根元の重さに、戻っていた。
◆
市場の方角の音は、ふだんの昼の音だった。
タロの足音は、市場の中央のふだんの位置だった。子どもの足音が、タロの動きの周りで半歩、薄く跳ねていた。ぐりは、雑貨屋の隅のふだんの位置だった。
坂の上の家の方角の地脈の重さは、まだふだんに戻っていなかった。グラン爺の咳の周期が、ふだんよりも半段、外れたままだった。
ふだんに戻り切らない場所が、廃都の中にいくつか、残っていた。けれど、ふだんの場所もまた、ふだんのまま続いていた。
◆
地脈の振動で、地下の通路の重さは、雑貨屋の奥の床の板の下にまた、薄く沈んでいた。けれど、ふだんに戻り切らない場所が、廃都の中でまた、ひとつだけ増えた、らしかった。
(眠っていた場所、らしい)
ダン爺さんが、地下を、教えた。
下に、通路があった。
昔から、あったらしい。
俺は、聞いていた。
石だが。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回もよろしく。
——昔から、らしい。
——石より




