第56話「ネアの石聴き体質」
昼前の坂道は、乾いた薬草の匂いがした。
◆
ネアのポケットの中で、俺は揺れていた。
今日はフリンの家に行く日だった。
ネアは片腕に薬草の束を抱え、もう片方の手でポケットの口を押さえていた。坂の石が足裏でこすれるたび、俺の表面に小さな振動が来る。
市場の方では、タロの声が少し遠かった。
子どもたちの足音が、その周りで跳ねている。まだ慣れていない足音。けれど、逃げる足音ではなかった。
雑貨屋の方で、ぐりが床をこすった。
今日はこっちを見ていない。たぶん。
見ていないと思いたい。
坂の上では、グラン爺の咳が続いていた。
家の木組みに預けられた重さが、前より深い。寝床の縁にかかった体の重さ。杖は、手の下ではなく、脇の方に立っている。
俺は念話を組み立てかけた。
(ネア、グラン爺のところもあとで)
言いかけて、やめた。
ネアの足は、もうそちらに少し向いていた。
言われなくても、行くやつだった。
◆
フリンの家の前で、ネアは止まった。
中から乳鉢の音がした。
乾いたものを、乾いた器で擦る音。
紙をめくる音はしなかった。いつもは本を開いたまま、目だけ別の場所に置いているような音が混じる。今日は、それがない。
ネアが扉の横に薬草を置いた。
そのまま帰ろうとした足が、半分だけ戻った。
「ネア」
扉の中から、フリンの声。
「入んな」
ネアは少し黙った。
それから扉を開けた。
◆
家の中は、薬草と古い紙の音で詰まっていた。
机の上の本は閉じられていた。
乳鉢の縁に粉が薄く溜まっている。フリンの指は、その縁をなぞっていた。擦っているのに、粉の減り方が遅い。
「あんた」
フリンが言った。
「石聴きだね」
ネアの呼吸が止まった。
俺も、たぶん止まった。
石に呼吸はないが、振動の受け方が一瞬だけ変わった。
「……なに」
ネアの声は短かった。
「地脈の音を拾う体質さ。少しだけね」
フリンの指が乳鉢の縁を離れた。
「1000人に1人くらい。もっと少ないかもしれない」
ネアは答えなかった。
ポケットの上の指だけが、俺の形を押さえた。
「最近のあんた、聞いてる顔をする」
フリンの声は低かった。
「見てるんじゃない。聞いてる。足の下とか、壁の奥とか。そういうところを」
ネアは首を動かしたらしかった。
けれど、返事はなかった。
俺は念話を組み立てた。
(お前が俺を拾ったのは、偶然じゃなかったのかもしれないな)
言ってから、少し遅れて後悔した。
答えに近かった。
答えのふりをした、分からないものだった。
ネアは俺に返事をしなかった。
代わりに、ポケットを押さえる指が緩んだ。
◆
フリンは立ったまま、乳鉢を見ていた。
「強い力じゃないよ」
それだけ言った。
「魔法みたいに使えるもんでもない。分かった気になると、外す」
ネアの足が、床板の上で小さくずれた。
「……じゃあ、役に立たない」
「そういうもんの方が、長く残る」
フリンは笑わなかった。
ネアの足が、床の割れ目の上で止まった。
家の古い石組みが、床板の下にあった。俺をそこに置けば、たぶん、この家の奥まで少しは聞ける。
フリンの机。
閉じた本。
壁に掛かった乾いた草。
坂の上の家へ伸びていく、古い木と石のつながり。
俺は言いかけた。
(降ろしてくれ)
言えば、ネアは降ろす。
たぶん、何も聞かずに降ろす。
けれど、言わなかった。
今、聞きに行くものではない気がした。
フリンが止めたわけでもない。ネアが怖がったわけでもない。
ただ、床の下にある音を、こちらから掘りに行くのは違った。
ネアの足も、動かなかった。
石を出さないまま、床板の上で待っていた。
外で風が壁をこすった。
坂の上の家から、グラン爺の咳が聞こえた。遠いのに、木の継ぎ目を伝って届く咳だった。
ネアはそちらを向いた。
フリンも向いた。
咳は、途中で切れた。
それだけで、家の中の粉の音が重くなった。
◆
「昔から?」
ネアが言った。
めずらしく、続きがあった。
「私」
フリンはすぐには答えなかった。
指先で乳鉢を1度だけ押した。
「子どものころからそういう子はいる。けど、自分じゃ分からない。大人になっても、勘がいいだけで終わるのが多い」
「……そう」
「あんたは石を持ってる」
その言葉で、ネアの指がまた俺に触れた。
「だから、音が戻ってくる」
戻ってくる。
その言い方が、部屋の中で少しだけ残った。
俺は何も言わなかった。
地脈に触れているわけではない。ポケットの中だ。分かるのは、ネアの指の温度と、布越しの振動だけ。
それでも、部屋の奥にある何かが、こちらを向いた気がした。
ネアが小さく息を吸った。
「……拾った時も?」
フリンの手が止まりかけた。
止まりかけて、動いた。
「さあね」
短い返事だった。
「それは、あんたの手が知ってる」
ネアは自分の手を見たらしかった。
俺には見えない。
けれど、ポケットの布が少し引かれて、指の重さが変わった。
水たまりの横。
泥の匂い。
誰かの足が何度も通って、俺だけがなぜか踏まれずに残っていた場所。
俺が覚えているのは、ネアの指が冷たかったことだけだった。
拾った理由は、聞いていない。
今さら聞くには、少し遅かった。
◆
ネアは長く黙っていた。
フリンは急かさなかった。
乳鉢の音が戻った。さっきより細い。粉を擦るというより、音だけを続けているような動きだった。
「……名前」
ネアが言った。
声は机の方に落ちた。
「名前?」
「お母さん」
そこで止まった。
フリンの乳鉢が止まった。
「歌ってた」
ネアの指がポケットから離れた。
離れて、また戻った。
「いしる、って」
家の中の音が消えた。
粉が沈む音だけがした。
フリンは動かなかった。
息も、たぶんしていなかった。
坂の上の家でも、グラン爺の咳が止まっていた。
寝床の縁に預けられた重さが、そのまま固まっている。杖の木も、床板のきしみも、何も動かなかった。
ネアだけが、その止まりに触れていなかった。
「……変な歌」
短く、それだけ足した。
フリンは返事をしなかった。
◆
俺は、ネアの母親を知らない。
声も、手の温度も、歩き方も知らない。
知っているのは、ネアが時々、古い布を畳む時だけ手を遅くすることくらいだった。
イシル。
その音は、俺の名前だった。
ネアがくれた名前だった。
水たまりの横で拾われて、クズ魔石扱いの俺についた名前。
なのに、今は違う場所から来た音に聞こえた。
前からあったのか。
後から届いたのか。
分からなかった。
分からないまま、ポケットの布が少しだけ温かくなった。
念話は、出さなかった。
◆
先に動いたのはフリンだった。
乳鉢の棒が、器の縁に当たった。
乾いた音が、遅れて部屋に戻る。
「……そうかい」
フリンはそれだけ言った。
声はいつもより掠れていた。
ネアは頷いたらしかった。
足が扉の方を向く。
「グラン爺のところ、行く」
「ああ」
フリンは短く答えた。
それから、もう1つ言いかけて止まった。
ネアが扉を開ける。
外の風が、薬草の匂いを少し薄めた。
「ネア」
呼び止めたフリンの声は小さかった。
「聞こえたものを、全部信じなくていい」
ネアは振り返らなかった。
「……うん」
扉が閉まった。
◆
坂道に出ると、昼の音が戻ってきた。
市場の方で子どもが笑った。
タロが何か短く叱った。叱ったというより、転ぶなと言っただけの声だった。
ぐりが床をこすり、誰かが「またそこか」と言った。
ネアは坂を上った。
薬草の束は、もう持っていない。
両手が空いたまま、片方の指だけがポケットの上に置かれている。
グラン爺の家が近づいた。
咳はまだ戻らない。
ネアは扉の前で止まった。
何かを聞いている足だった。
俺は何も言わなかった。
(呼ばれた、らしかった)
*【第56話 了】*
石聴き。
「いしる、って」
——名前の、前。
俺は、よく分からない。
でも、黙った。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「地下への扉」もよろしく。
開くらしい。
——石より




