第4話「壁が崩れそうです」
——壁が、崩れそうだった。
それに気づいたのは、俺だった。石の俺。視覚もなく、動けもしない、ただ置かれているだけの俺。
しかも、その壁の下には、子どもがいた。3人分の軽い足音。砂を引っ掻きながら遊んでいる気配。
石の俺は、動けない。声も、出ない。
動けるのは、今この場では、ネアだけだった。
◆
朝、ネアが俺をポケットに入れた。いつもの朝の儀式。
「……今日、別の路地。壁の多いとこ」
独り言の延長だったが、俺への報告にも聞こえた。
『了解』
「……」
「うるさい」は今日は出なかった。
(沈黙も定番化してきたな)
ネアが歩き出した。路地を2つか3つ曲がる。行き慣れた道ではないのが、足音の迷いで分かった。
◆
ネアが俺を取り出して、路地の脇の大きい石の上に置いた。
「……ここ」
それだけだった。
(ああ。頼む)
感覚が開いた。
昨日、朝と夕方の2回、俺は地面に置かれた。慣れている——とまでは言えないが、3回目の「開け方」は昨日よりも少しだけ速かった。
広さ。足音。遠くの水路。——今日の場所は、路地が複雑に入り組んでいる一角らしかった。四方に石積みの壁がそびえている感じが、地脈越しに届いた。
(壁が多いな。そりゃそうか、ネアも「壁の多いとこ」って言ってた)
ネアの足音が遠ざかる。荷物を取りに行ったらしい。
◆
今日のネアの仕事は「運搬ルートの中継」らしかった。
荷物を担いで、路地の反対側まで運ぶ。俺のそばを何度も往復する。通るたびに「まだ立ってる」と確認するような気配があった。
(拾わずに置いてくれるな、と思ったら。ちょうどいい中継地点なのか、俺)
3度目に通った時、ネアが少し遠回りをした。足音が壁沿いに、ゆっくりと動いた。
それから、戻ってきた。
「……この壁、大丈夫かな」
独り言だった。でも、独り言の中に「……ね?」が省かれていた気がした。
俺は、ちょうどそれを感じていた。
左の壁——古い石積み。石と石の継ぎ目に、何か、走っている感触。ひび、とも言えるし、もっと根本の、「均衡のずれ」とも言えた。
地脈で感じた壁の「状態」は、明らかにまずかった。
『まずい』
「……」
『崩れる前の感触だ、これ』
ネアが少し黙った。
「……いつ?」
『分からない。でも、そんなに先じゃない』
ネアが、壁のほうに顔を向けた気配があった。
◆
で、そこに——
軽い足音が、来た。
3人分。砂を引っ掻くような音が混じっている。遊んでいるらしかった。路地の奥から走ってきて——
壁の真下で止まった。
(おい。そこ、まずいぞ)
子どもたちは気づかない。俺の念話は、ネア以外には届かない。知らない子どもに急に念話で話しかけたら、それはそれで別の騒ぎになる。
(ネア)
念じるまでもなかった。
ネアはもう動いていた。荷物を下ろす音。砂を蹴る足音。子どもたちのほうへ。
「そこ、危ない。向こう」
短い声だった。怒ってはいない。でも、有無を言わさない声だった。
「はーい」
子どもたちは、案外素直に壁から離れた。砂を蹴りながら路地の奥に走って消えた。
(……避けてくれたか)
ネアが戻ってきて、しゃがんだ気配があった。俺のそばに。
「……イシル」
『ん』
「……今の、分かったの?」
感心しているとかじゃなかった。ただ、確認の声だった。
『うん。壁の中の感じが、離れかけてた』
「……ありがと」
ネアが小さく言った。
(珍しいな。素直に言うのか)
言わなかった。言ったら、ネアは二度と言わなくなりそうだった。
◆
で、問題は、壁だった。
子どもを離しても、壁が崩れたら別の誰かが巻き込まれるかもしれない。ネアが立て札を立てるとか、そういう手段はない。ネアにできるのは、壁を避けることだけだ。
でも——
(俺なら、どうにかできるかもしれない)
一昨日の朝、部屋で散々失敗した力石スキル。「なんか力出ろ」「ステータスオープン」——全部空振りだった。
でも、一昨日は地面に触れていなかった。今は触れている。壁の「離れかけてる感じ」も、直接感じられている。
——なら、逆ができる。
壁に向かって、意識を向けた。
具体的に言葉にするのは難しい。「強くなれ」でも「戻れ」でもなかった。もっと近いのは、「今あるそれを、思い出せ」だった。
石と石の継ぎ目に、元々あった噛み合わせ。乾きかけた目地の、元々あった密度。それが、今、緩んでいる。なら——思い出せ。元の形を。
答えが、来た。
壁の、どこか深いところで、小さい何かが頷いた気がした。
継ぎ目が、ほんのわずかに、締まった。
(……応えた)
派手な音はしなかった。光も出なかった。誰にも気づかれないような、静かな応え方だった。
でも、壁の状態は、確かに変わった。離れかけていた継ぎ目が、離れるのをやめた。
◆
「……イシル」
ネアの声がした。
『ん』
「……何した」
『壁、戻した。少し』
「……」
『「作った」んじゃない。元の強さを、思い出させただけ』
「……石が、壁に思い出させた」
『そういうことだ』
ネアは、少し黙った。それから——
「……わかんない」
ぼそっと言った。
『俺も、わかんない』
ネアが小さく、ふっと、息を吐いた。
笑ったのかもしれなかった。分からなかった。でも、鼓動が、少しだけ軽くなった気がした。半年ネアのポケットにいた俺は、この「鼓動の軽さ」が、ネアが笑ったときの合図だと、うっすら知っている。声に出して笑うことは、ほとんどない子だった。でも体は、ちゃんと笑い方を知っていた。
◆
帰り道、ネアが水場に寄った。
廃都の共同水場は、井戸から水を引いた古い石の槽。最近は濁りが強くて、ネアは汲んだ水を布で濾してから飲んでいた。俺はポケット越しに、その手順を何度も聞いてきた。
(水も、いけるかな)
試してみた。ポケットからは直接地脈に触れてはいない——けど、足元の石畳を通せば、届かないこともない。水の濁り具合が、遠く薄く、感じ取れた。
元々、澄んでいる流れが奥にある。それが上のほうの淀みに押さえつけられている。押さえつけを、ちょっとだけ、ずらす。
何かが、水の中を通り抜けた。
近くを通った女の人が、ぽつりと独り言を言った。
「……今日、水、軽いね」
誰かに同意を求める声じゃなかった。通りすがりの一言だった。でも、それを言う人がいる街だった。
『ネア』
「……また勝手にやった」
『いいじゃないか』
「……」
ネアは、少しの沈黙のあと、小さく言った。
「……誰か気づくかな」
その言葉が、俺の中で、やけに長く残った。
自分がやったことじゃなくて、街の人が気づくかどうかを気にする。それが、ネアの物差しだった。
(——気づかなくても、いいんだけどな)
俺は、声に出さずにそう思った。
ネアが1人で気づいていてくれたら、それで、もう、十分な気がした。気づいてくれる人が、この世界に、あと1人だけいる。俺にとっては、それは、半年前に比べれば、計算が合わないくらい多い数字だった。
◆
夜。
ネアが眠った後。俺はまた、眠れない夜を過ごしていた。
昼間のことを、もう1度なぞった。壁の継ぎ目が締まる感じ。水の淀みが押しのけられる感じ。どっちも、ネアの「わかんない」に回収されて、それで終わった。
大したことじゃなかった。たぶん。
でも、石の俺にしかできないことが、今日、あった。
(動けない。しゃべれない。目も見えない)
(でも、たまに、役に立つ)
それが、今日の答えだった。
ネアの寝息が、ポケット越しに、ゆっくりと続いていた。半年ずっと聞いてきた寝息だった。でも今夜は、いつもより少しだけ、近くに聞こえた気がした。
今日、俺は初めて「役に立った」。
壁1枚、水1回。
それだけのことなのに、ちょっと、嬉しかった。
ネアには「わかんない」と言われた。
俺にも、よくわかってない。
でも、石なりに、できることがあるらしい。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
気づいてくれるのは、やっぱり、嬉しい。
次回「石、子どもに説教する」もよろしく。
うっかり説教してしまった。
——石より




