第3話「地面に置いて」
世界が、広がった。
いや、言い方が違うな。
俺が「広がれる」場所に、たまたま置かれた。それだけの話なんだが、その「置かれた瞬間」の世界の開け方が、控えめに言って、異常だった。
——話の順番を戻す。
◆
朝、ネアが俺を胸ポケットに入れた。いつもの朝だった。
「……今日、市場の端」
独り言みたいな声だった。最近、ネアはこういう報告を俺にするようになった。いや、俺にしているのか、独り言の癖なのか、正確には分からない。
『頑張れ』
「……うるさい」
(この応答、定番化しそうだな)
砂利を踏む音が歩調に乗った。ネアが歩き出す。
市場に着いた。
ポケットの中にいても分かる。声の密度が一気に増える。売り子。値段の交渉。子どもの泣き声。遠くで何かが割れる音。半年、このポケットで聞いてきたやつだ。
ネアは雑踏を抜けて奥のほうへ進んだ。声がまばらになる。市場通りの北の端、くらいだろうか。
「……あった」
仕事場所を確認する声だった。布を広げる音。木箱を下ろす重い音。乾いた何かが、ばらばらと転がる音。
(仕分け仕事か)
乾物か、薬草か、何かそういうものだろう。音の感じから、今日は量が多そうだった。
「……今日、多い」
ネアが小さく呟いた。
(やっぱりか)
返事はしなかった。仕事の邪魔はしたくない。
◆
——で、事件が起きた。
いや、事件じゃない。普通のことだった。たぶんネアにとっては、ぜんぜん普通のことだった。
でも俺にとっては、半年の石生活で一番衝撃の瞬間だった。
仕分けの途中、ネアが木箱を動かそうとした。重そうだった。踏ん張った。——で、困った。
俺を胸ポケットに入れたままじゃ、動きにくい。
ネアは1秒くらい、迷った気配があった。
それから、俺をポケットから取り出して——
近くの石段の上に、ぽんと置いた。
(ん?)
離れた。ネアの体温が消える。鼓動が遠ざかる。歩行の振動が消える。半年ポケットで感じてきた全部が、一瞬で引いた。
あ、置いていかれた、と俺は思った。
——その、直後だった。
◆
何か、別のものが、滲んできた。
最初に分かったのは「深さ」だった。
石段の下に、地面があった。地面の下に、さらに土の層があった。その下に、石が埋まっていた。水脈が遠くで流れていた。それが全部、繋がって俺のところまで伸びている。
(は?)
続いて、足音が届いた。
右、20歩くらい先。大人と子ども。歩き方の違いで分かった。大人の足は重心が踵に乗っていて、子どもは爪先寄りで軽い。
左、もう少し遠くに2人。歩幅が広い。重心の寄せ方から、肩に何かを担いでいるらしい。
遠くで、水路が流れていた。淀んでいる箇所と、澄んでいる箇所がある。それも、分かった。
(おいおい)
(地面に置かれただけで、こんなに分かるのか)
半年の間、俺はずっとポケットの中にいた。ポケットではネアの体温と鼓動しか感じなかった。俺はそれが「石の知覚の限界」だと思っていた。
違った。
ポケットの中が限界だったんじゃない。
ポケットが、遮断していたんだ。
半年、俺は気づかずに、布の向こうの世界を1度も知らずにいた。ネアしか知らなかった。ネアの声と、鼓動と、体温と、たまに震える夜の小さな震えだけ。それは確かに世界ではあったけれど——今、石段の上で俺に届いている「広さ」は、その世界の、何倍も遠くまで伸びていた。
◆
ネアの手が戻ってきた。指が俺を拾い上げる。
瞬間——
全部、消えた。
深さが消えた。足音が消えた。水路の流れも、全部。
残ったのは、ネアの指と、ポケットの布と、布の向こうの鼓動だけ。
(……なるほどな)
仕組みが、すごくはっきり分かった。
地面に触れていると、俺は「広い」。触れていないと、俺は「狭い」。ポケットの中では、ネアしか感じられない。地面の上では、街を感じられる。
半年、俺はネアとしか繋がっていなかった。それで満足していた。今日、俺は初めて、ネアの外を知った。
(使い分ければいいのか、これは)
思考の中に、小さな火が灯った感じがした。スキル「発動!」とか叫ばなくても——地面に触れればいい、というだけのことだった。
◆
帰り道。ネアの足取りが、朝より少し軽かった。仕事を片付けた後の、微かな余裕の歩き方だった。
『ネア』
「ん」
『気づいたことがある』
「……何」
ネアがほんの少し、歩く速さを緩めた。聞く体勢になったらしい。
『地面に置かれてる時だけ、周りが分かる。足音とか、水の流れとか、地面の下とか』
「……ほんと?」
『ほんと』
言ってから、俺は少し迷った。
続けて言うか、言わないか。
俺は石だ。動けないし、基本的に「何かしたい」と主張するものがない。今までは、ネアに運ばれるだけだった。
でも。
(言ってみるか)
『だから——たまに。置いてほしい』
ネアが、止まった。
砂利を踏む音が、ぴたりと消えた。
「……なんで」
疑問の声じゃなかった。理由を求める、確認の声だった。
俺は少し考えた。かっこつけるつもりはなかった。かっこつけようにも、石にかっこをつける手段がない。
『お前の役に、立てるかもしれない。少しだけ』
それが、俺の正直な答えだった。
広くなれるのは、俺。でも、広くなって何かを知れるのは、ネアの役に立つときだけ意味がある。動けない石が1人で広くなっても、それはただの感覚の押し付けだ。
ネアは、少しの間、黙っていた。
それから——
「……分かった」
それだけだった。
何も聞かれなかった。なぜかも、いつかも、どうやるかも。ネアは俺の言葉を、聞いたとおりに受け取った。それだけだった。半年一緒にいた俺には、そのシンプルさが、妙に嬉しかった。
ネアが数歩歩いて、路地の途中の井戸の縁石の上に——ぽんと、俺を置いた。
◆
また、感覚が開いた。
今度は朝よりも広かった。井戸は地面の深いところまで掘られている。その縦の深さと、路地の横の広さが、同時に届いた。
そして——
『ネア』
「ん」
『路地の向こう、子どもが転んだ』
足音の重心が崩れた直後、小さい体が地面に当たる振動が、地脈越しに届いた。
「……」
ネアは、返事をしなかった。
代わりに、歩き出した。
砂を蹴る音。数歩先に進んで、しゃがむ気配。子どもに何か短く声をかけて、布を裂く音が聞こえた。手拭いを使ったらしい。
何もしゃべらない。相手が泣き止むまで、黙って手を動かす。それが、ネアの対応らしかった。
少しして、子どもの足音が、軽く走り去った。
ネアが戻ってきて、俺を拾い上げた。
感覚が、また消えた。
でも、今日の消え方は、少しだけ違った。
ポケットに戻された俺の下で、ネアの鼓動がいつもより少し早かった。動いた後の呼吸の乱れが、布越しに伝わってきた。
『役に立ったか』
「……うるさい」
ネアは、そう言った。
でも、俺を握り直す指が、いつもより、ほんの少しだけ、丁寧だった。
◆
夜。
ネアが毛布に入った。寝息が安定するまで、時間はかからなかった。
俺は起きている。石に睡眠はいらない。
昼間のことを、もう1度なぞった。
広さ。深さ。足音。転ぶ子ども。ネアの歩み。
全部、地面に置かれた時だけ届いた。ポケットの中では、分からなかったこと。
(これが、俺の目だ)
(地面にいる時だけ、見える)
見えるという言い方は、正しくないかもしれない。目はない。
でも、他に、この感じを表す言葉を、俺は知らない。
ネアの寝息が、ポケット越しに、ゆっくりと、ゆっくりと続いていた。
明日も、ネアは仕事に出る。
そしてきっと——どこかの、石の上に、俺を、置いてくれる。
(その時だけでいい)
(その時だけ、俺は、ここにいる)
今日、地面に置かれた。
ポケットの中より、ずっと広かった。
半年間、俺は「石の限界はポケットの中まで」だと思っていた。
違った。ポケットが狭かっただけだった。
……少し、悔しい。
半年前に気づいていれば、もっとネアを知れたのに。
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地面に置かれてる間しか世界が広がらないので、お前の声も、俺の世界だ。
次回「壁が崩れそうです」もよろしく。
俺のせいじゃない。たぶん。
——石より




