第2話「何もできない」
力石、と念じた。
強くなれ。温かくなれ。床板のすきまから上がってくる冷えを止めろ。
何も起きなかった。
床は床のままだった。石は石のままだった。
俺の中にあるらしい意志は、昨日たしかにネアへ届いた。届いた結果、俺は床に落ちた。
初回特典が落下事故なのは、転生ものとしても少し雑だと思う。
落ちた時の振動は、まだ芯に残っている。
痛いというほどではない。石だから割れない限り、痛みの査定も曖昧だ。ただ、床に当たった瞬間の乾いた音だけは、こちらの失敗を妙に具体的にした。
ステータス、と念じた。メニュー。ヘルプ。
どれも返事をしない。椀に話しかけて返事がないのと同じで、こちらが悪い気もするが、椀よりは力石のほうに期待していいはずだった。
部屋の中は、まだ人の動く音が少ない。ネアの呼吸だけが布の向こうで浅く続いている。
半年も床や袋やポケットで揺られていると、その呼吸が疲れた日のものだと分かる。石に睡眠はない。眠れない時間にできることがないのは、合理的ではない。
この半年で覚えたことは、役に立つようで役に立たない。
ネアの起きる前の呼吸。空腹の時に椀を置く手つき。水を飲む量が少ない日の喉の音。分かるものが増えるほど、動けないことだけが太くなる。
毛布がこすれた。椀が木の上で小さく鳴り、水が喉を通る音が細く落ちる。
靴紐を結ぶ指は急いでいるのに、結び直す回数だけ増える。急いでいる時ほど手間が増えるのは、人間も道具も同じらしい。
『仕事か』
「うん」
靴紐が引っ張られる音がした。
『どこへ』
「市場。荷物」
俺も行くのか、と聞こうとして、言葉の形が少し遅れた。
行くか行かないかを決めるのは俺ではない。俺の移動権は、だいたいネアの指先にある。
『俺も行くのか』
返事の代わりに布が離れた。体温が遠ざかり、床の冷えがじわじわ戻ってくる。
置いていかれた、という判断だけは早かった。動けないものは置かれるのが得意だ。
戸が閉まったあと、部屋の振動は薄くなった。
外の足音は何度か通り過ぎたが、俺のほうへ来るものではない。力石、ともう一度念じて、転がれ、せめて少しだけ向きを変えろ、と命じても、床は俺を律儀に支え続けた。
床板の節に触れている面だけが、ゆっくり冷えていく。
体温が消えると、部屋は急に物だけの場所になる。俺も物なので文句は言いにくいが、物扱いされるとそれはそれで腹が立つ。
かなり時間がたってから、聞き慣れた足音が戻った。
ネアは荷を持つ時だけ一拍遅れる。足を出す前に息を止め、次の板へ重さを預けるまでの間が、ほかの日より少し長い。
「まだいた」
『勝手に出歩けたら苦労しない』
指が俺を拾った。冷えた面に体温が戻り、布の奥へ落ちる。
戻ってきた、とは言わなかった。言うと負けた気がした。
市場へ向かう道は、足裏から伝わる硬さが何度も変わった。
板、土、欠けた石、踏まれた布袋。俺はそれをポケットの中で受けるだけで、ネアの腕に増えていく荷の重さを減らせない。
声は届く。
それは昨日から分かった。だが届くというのは、命令が通ることではない。届いた先で相手が動くかどうかは、相手の体と事情が決める。
木箱がぶつかる音。布袋がこすれる音。硬貨は薄く鳴った。
働いた量に比べて、返ってくる音が軽い。そういう計算だけは、石になっても嫌に残る。
別の手が荷を受け取り、別の足音が遠ざかる。
ネアは次の荷へ移るまで、いつも半呼吸だけ遅い。その半呼吸を休みと呼ぶには短すぎるし、働いていないと呼ぶには重すぎた。
ネアは荷を持つたびに息を止める。
下ろした直後だけ、肩のあたりの布がふっと沈む。疲れた、と本人が言わない分、布のほうが正直だった。
『休め』
「あとで」
ネアの足が止まらない。
『今』
「あとで」
便利な言葉だな、あとで。人を休ませない時にだけ、やけに強い。
『水を飲め』
「あとで」
水筒の中身が細く鳴った。
『今のあとでは、いつのあとだ』
「あとで」
俺が言えることは増えたのに、ネアの喉へ水を押し込む機能は追加されていない。
「うるさい」
『今のは内心だ』
荷物を持ち替える音がした。
「同じ」
同じではない。届かせたものと、届いてしまったものは違う。
ただ、ネアにとってはどちらも俺の声で、俺にとってはどちらも荷物を軽くできない声だった。
小さな足音が近くを走った。
止まる音がないまま、軽いものが地面へ落ちる。すぐ泣き声が上がり、市場のざわつきがその周りだけ少し鈍くなった。
力石、と念じた。痛みが引け。膝が無事であれ。砂が傷に入るな。
何も起きない。俺の願いは、ポケットの布を少しも押し返せなかった。
こういう時に発動しない力は、かなり性格が悪い。
いや、力に性格があるかは知らない。だが俺のほうには、都合のいい時だけ奇跡を期待する性格がまだ残っている。
念話なら飛ばせたかもしれない。
けれど転んだ直後の子どもの頭に、知らない石の声が入るのは怖い。俺が助けたい気分になることと、相手が助かることは同じではなかった。
ネアがしゃがんだ。荷が地面に置かれ、水筒の栓が鳴る。
布を濡らす音、砂を払う指の小さなこすれ。大げさな慰めも、急かす声もない。
泣き声はすぐには止まらなかった。
それでも呼吸の乱れが少しずつ短くなり、足が地面を探る。最初の一歩は重く、次は迷い、その次から走りかけて誰かに止められた。
ネアは最後まで、早く立てとは言わなかった。
水筒を戻し、布を絞り、荷の紐を持ち直す。その動作のどれも大きくないのに、子どもの泣き声だけが少しずつ小さくなっていく。
人間はよく転ぶ。
そして、こちらが何もできないうちに立つ。勝手に立つのではなく、誰かの手と水と布があって、それでも最後の一歩だけは本人の足だった。
市場の壁際で、ネアが座った。
休憩というには短すぎる。荷物と荷物の間に、体を一度置いただけだ。
背中が壁へ当たる鈍い音がした。
ポケットの中の俺も少し押しつぶされる。文句を言えるほど苦しくはない。むしろ、その圧でネアがまだここにいることだけが分かる。
水筒の中で、水が少なく鳴った。
『水、減った』
「うん」
俺は水を増やしたかった。
冷やしたかった。腕を軽くしたかった。せめて、次の荷を少しでも楽にしたかった。
水筒の口をこちらへ向けられても、俺は飲めない。
石が水を飲んだらそれはそれで事件だが、今ほしい事件はそれではない。ネアの喉を通る水の音が、もう一度鳴ればよかった。
だが力石の使い方を、俺は知らない。
クズ魔石が消えたばかりの石が、疲れた相手を実験台にするのは違う。発動しない力ほど危ないものはない。発動した時の責任を、俺はまだ持てない。
「……いる?」
『いる』
少し間があった。
「そう」
指がポケット越しに一度だけ俺を押さえた。
確かめたのは俺の場所か、それとも自分のほうか。どちらでも、布越しの圧はすぐ離れなかった。
別の荷が近くで動いた。子どもの咳が混じり、ネアの足がまた立つ。
『ネア』
「熱」
それだけで、ネアは行った。
止める言葉を組み立てる間に、荷の紐が鳴る。重さが腕へ移り、ポケットの底まで小さく沈んだ。
『休め』
返事はなかった。
届かなかったのではない。届いて、そのまま通り過ぎた。
返事がないほうが、重い時もある。
ネアは俺の声を切ったのではなく、返す分の息を別の荷に使っただけだ。そう分かるから、こちらも次の言葉を置き場所に困る。
休め。水を飲め。無理するな。
どれも言えば届く。届くだけだった。
何も言わないことが、できることに数えられる日もある。
その考えは、力石よりずっと控えめで、しかも発動したかどうか分かりにくい。だが少なくとも、今のネアの頭に余計な声を増やさずに済んだ。
部屋に戻った時、食事の音も水の音も少なかった。
けれど靴紐をほどく動きは、出る時より静かだった。残った分を明日のためにしまう音だけが、布や木の上を小さく渡る。
帰り道の揺れは、行きより短く感じた。
ネアの足が速くなったのではない。たぶん、余計な寄り道をするだけの力が残っていなかった。市場の音が遠ざかっても、荷紐の食い込む気配だけはポケットの底に残っていた。
椀はすぐに空になった。
水筒は振られずに置かれた。残りを確かめないのは、確かめるまでもなく少ないからだろう。こういう推測だけ当たるのは、あまり嬉しくない。
ポケットから出される。
床に落ちる冷たさを覚悟した俺は、やわらかい布の上で止まった。
枕元だった。
近くでネアが息を吐く。深くはないが、朝より少しだけ長い。
『今日は、何もできなかった』
「昨日も」
枕元の布が、わずかに動いた。
『言い方』
「本当」
本当だった。
俺はスキルを使えない。水も増やせない。荷物も軽くできない。砂も払えない。
床から自力で戻れない。
転んだ子を起こせない。
熱のある子の荷を代われない。
「でも」
少し間があいた。ネアの指が、枕元の布を直す。
「しゃべった」
少し考えた。
『それは、できたことに入るのか』
「入る」
ネアはそれ以上言わなかった。
寝息になるまで、少しかかった。俺は眠れない。力石も使えない。動けない。
枕元の布は、冷たくなかった。
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——石より




