第1話「石です、はい」
石です。はい。
転生したら、石でした。
動けない。見えない。声も出ない。
できることは、たぶん、何もない。
それでも半年、わたしはある少女のポケットの中から、
この街の音と、ぬくもりと、ひとりの夜を、ずっと聞いていました。
——動けないわたしに、できることはあるのか。
よかったら、確かめにきてください。
まぶたを上げようとして、まぶたがないことに気づいた。
声を出そうとして、喉も舌もないことに気づいた。
手を動かそうとして、手足という発想がもう贅沢品になっていることに気づいた。
全方向から押されていた。土か石畳か、硬いものに半分ほど沈み、上からは熱が来て、下からは冷えが来る。
転がろうとしたが、何も起きない。たぶん俺は、誰かに蹴られた時だけ動く種類の存在だった。
石です、はい。降参が早いのは会社員時代の処世術である。
一度、誰かの靴先が当たった。
ごつん、と世界が半回転した気配だけがあり、次の瞬間にはまた同じ圧と冷えに押さえ込まれている。
自力移動ではない。交通事故の小型版だった。
前世で転生ものは百冊くらい読んだ。剣、魔法、ドラゴン、貴族、スライム、果ては鍋まであった気がする。
ただし、石になって道端に置かれる話は読んでいなかった。読んでいたとしても、その主人公には一度説教したい。
いや、無理だ。説教する口がない。
最初は考え続けた。ここはどこか、俺はなぜ石なのか、前世の最終出勤日はどうなったのか。
けれど、答えが返ってこない問いは、ゆっくり角が削れる。時間だけが体の表面を撫でて、考えるのがだんだん面倒になった。
石になるとは、哲学者になることではない。思考の保存料にされることだ。
眠ることもできなかった。
意識が沈んだ気はするのに、次の瞬間には雨粒の衝撃を数えている。休み時間の概念まで前世に置いてきたらしい。
音だけが残った。
遠くの足音。近くを擦る車輪。雨が当たる細かい衝撃。匂いはしない。味もしない。
風は表面を冷やし、日差しは背中側だけをじわじわ焼いた。季節は、名前ではなく温度差として積もっていった。
雨の日はよく話が落ちてきた。
「また壁、落ちたって」
「井戸、水が濁ってる。上のほう」
別の声が続いた。
「奥の通り、誰も通らないほうがいい」
廃都、という言葉をどこかで聞いた。都という割に、足音は軽くなかった。
朝には戸が開く音があり、昼には荷車が軋み、夜には板を打ちつける音が続いた。
人はまだいる。けれど、ここで暮らす音は、いつも少し足りないものを引きずっていた。
雨の粒が細くなる季節があり、日差しの熱が長く残る季節があり、踏まれたあとに戻ってくる冷えが鋭くなる季節があった。
名前を知らなくても、道端の石はそれなりに暦を持つ。祝日はない。
俺の意識も、足りなくなっていった。
雨が降れば冷える。日差しが続けば熱を持つ。誰かに踏まれると少しだけ位置がずれる。
それで一日が終わるなら、もう薄れてもいいのかもしれない。そういう考えまで、角の丸い石みたいになった頃だった。
手が来た。
細い指だった。冷えていて、すぐ離れなかった。
表面をこすり、向きを変え、なぞる。拾うか捨てるかの手つきではない。何かを確かめる指が、俺の硬さを何度も探った。
「……きれい」
珍しかった。石に向かってそんな声を落とす人間も、その声が少しだけ息を忘れていることも。
俺は返事をしたかったが、石に返事機能は標準搭載されていない。仕様書があるなら投げ返したい。
「なんで、ここだけ」
値踏みではなかった。高く売れるかどうかの重さではなく、失くしたものを手の中で確かめるような圧だった。
その指先が少し温まるまで、彼女は俺を離さなかった。
「持ってく」
布の内側に入れられた。
外の音が一枚遠くなり、代わりに小さな体温が来た。歩くたびに揺れ、布越しの冷えがだんだん和らぐ。
返事はできない。けれど、拾われるというのは、石にも分かるくらい単純に場所が変わることだった。
それが、ネアとの最初だった。
名前を知ったのは、荷運びの時だった。
「ネア、その箱、こっち」
「……ん」
短い返事のあと、俺のいる布が胸元で押さえられた。箱を持つ前に石を押さえる人間がいるとは思わなかった。
廃都の朝は、戸のきしみで始まる。
石敷きの上を靴底が叩き、どこかで桶が置かれ、誰かが咳をする。壊れた街というより、壊れたまま使い続けている街だった。
ネアはその中を、よく歩いた。
坂を上る日は呼吸が近くなり、下る日は布の底で俺が小さく跳ねた。
急ぐ時ほどネアは喋らない。何かを我慢する時も、だいたい喋らない。
薬草を摘む時は布が湿り、荷を運ぶ時は呼吸が浅くなり、市場に寄る時は硬貨の音が少しだけ増える。
彼女はあまり喋らない。けれど、袋の結び目を締め直す指の力で、今日は急いでいるとか、迷っているとか、そのくらいは分かるようになった。
石としては上級者である。履歴書には書けない。
「また石拾ってる」
誰かが笑った日、布越しの手が俺を押さえた。
「……いい」
それ以上は言わない。守られたのか隠されたのか、俺には分からない。ただ、その手は離れなかった。
パンを半分残した日があった。
いつもなら最後まで小さく割る音がするのに、その日は布が動かないまま、長い時間、膝の上に置かれていた。
腹が鳴る音は聞こえた。食べない理由は聞こえなかった。
夜、部屋に誰もいない時、ネアが震えていたこともある。
寒さだけなら布の内側はもっと冷える。けれどその夜の震えは、外から来るものではなく、体の奥で小さくぶつかっていた。
俺は何もできない。温めることも、聞くことも、黙っていることを選ぶことさえ、その頃はまだ選べなかった。
そうして半年が過ぎた。
顔は知らない。表情も知らない。
けれど、足音は分かる。指の冷えも、空腹をごまかす時の布の重さも、パンを半分残した日の静けさも分かる。
ある日、ネアは石を並べた。
机らしい硬い板の上に、いくつかの小さな衝撃が置かれていく。俺もその一つとして、そっと下ろされた。
隣に触れた石は、俺より軽く、内側がからっぽに近かった。
「こっちがクズ魔石」
少し間が空く。
「こっちが、イシル」
知らない名前が、俺を指していた。
イシル。三文字。イ、シ、ル。
前から呼んでいたらしいその音は、布の中で何度も聞き逃していたのかもしれない。俺が俺だと知らない間に、ネアの中ではもう置き場所ができていた。
石に名前。
だいぶ変だ。
でも、道端で薄れていくよりは、ずっと変でいい。
ネアが別の石を俺に触れさせた瞬間、内側に何かが流れ込んだ。
硬いものが硬さを失い、形だけ抜け殻にして、俺の中を通り抜ける。熱でも冷えでもない。強いて言えば、ずっと閉じていた場所に細い穴が開いた感覚だった。
名前が頭の中に直接落ちた。
文字ではない。声でもない。けれど、意味だけが避けようもなく沈んでくる。
俺は石で、石のくせに、何かを持ったらしい。
「……消えた」
ネアの指が止まる。
「食べた?」
石に食事疑惑をかけないでほしい。
ただ、否定できないのがつらい。触れていたクズ魔石は、からっぽの音だけを残していた。
世界が少し広がった。
遠くの車輪がどちらの通りを通ったのか分かる。壁の向こうで水が落ちる位置が、振動の厚みとして届く。
ネアの手の温度も、前より細かく分かる。冷たい、だけではない。指先と掌で違う。疲れた日は、熱が奥に沈む。
ネアは二個目を触れさせた。
何も起きない。
三個目も、何も起きない。
「便利じゃない」
短い評価だった。
俺も同意した。便利だったらたぶん怖い。何でも食べる石は、さすがに家に置かないほうがいい。
それに、力が増えたからといって、今すぐ何かをする理由にはならなかった。
今は、使わない。
そう決めた。
しばらくして、ネアが俺を両手で包んだ。
机の上ではなく、膝の上でもなく、胸の近く。呼吸が布を通さずに届く距離だった。
指は少し震えている。怖がっているのか、確かめているのか、どちらにも触れている震えだった。
「……ねえ。意識、ある?」
考えたことが全部流れそうになった。
半年分の雨、足音、パン、震え、拾われた時の冷たい指。全部を押し出したら、たぶんネアを傷つける。
だから一つだけ選んだ。
『ある。半年前から』
落ちた。
ネアの手から俺が滑り、硬い床に当たった。衝撃が体の全部で鳴る。
ネアは動かなかった。呼吸が遠くなり、部屋の中の小さな音まで間延びする。
初念話、落下事故。記念日にしては最悪である。
やがて、両手ですくい上げられた。
拾われた日より、少し温かい手だった。
震えはまだ残っているのに、今度は落とさないよう、指が俺の周りで慎重に閉じる。
「……今の、イシル?」
『そう』
ネアの息が止まった。
「石なのに」
『石だな』
少し間があった。
「……ずっと、いた?」
全部、聞いてた。
それは問いではなかった。ネアの声は、もう答えを持っている場所から落ちてきた。
『見えてはいない。でも、聞こえてた』
ネアの息が止まり、すぐ戻った。
その短い間に、言うべき言葉はひとつだけになった。半年かけても、増えなかった言葉だ。
『拾ってくれてありがとう。半年間』
外を荷車が通った。
車輪が石敷きを噛み、遠ざかる。廃都は今日も、足りない音を足りないまま鳴らしている。
ネアの指が、俺の表面を一度だけ撫でた。
「……よろしく、イシル」
『よろしく、ネア』
俺はポケットへ戻された。
布の内側は、もうただの入れ物ではなかった。歩き出す前の小さな沈黙があり、次の揺れを待つ場所になっていた。
ネアが歩く。
今日も、そのぶんだけ俺は揺れる。
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——石より




