第31話「祈らなかった」
タロが、走ってこなかった。
◆
朝。市場の手前。
ネアが俺をポケットに入れて、家を出た。風が乾いていた。日差しが、強かった。
俺はネアのポケットの中で、地脈の振動を聞いていた。
いつもなら、市場の角から、タロの祈りの声が、聞こえてきた。「石様! 今日もよろしく頼む!」と、腹から出る声。
でも、今朝は、聞こえなかった。
タロの足音は地脈の振動の中にあった。市場の入り口の近くに、立っていた。動かなかった。祈っていなかった。
『……ネア』
「うん」
『タロ、祈ってない』
「……うん」
ネアが、ゆっくり歩いた。歩幅は、いつもどおりだった。でも、足の向きが、市場の角ではなく、タロが立っている入り口の方を、向いていた。
◆
ネアが市場の入り口に着いた。
タロが、立っていた。
胸が、上下していた。咳は、混じっていなかった。でも、呼吸が、いつもより、深かった。考えている時の、呼吸だった。
地脈の振動で、それが分かった。タロは、走ってきたわけではなかった。ずっと、同じ場所に、立っていた。何かを、待つ立ち方だった。
タロの足元に、小さな砂の山が、あった。タロが、足の先で、地面を、軽く、蹴った跡だった。何度か、蹴っていた。考えている時の、タロの癖だった。
「ネア」
タロが、低い声で、言った。腹から出る声では、なかった。
「うん」
ネアが、短く、返した。
タロが、しばらく、黙った。
地脈の振動で、タロの足が、しばらく、動かなかった。
それから、タロが、聞いてきた。
「石、盗賊団が、来たら、どうする?」
ネアの足が、止まった。
俺も、ポケットの中で、止まった。
◆
質問が、まっすぐだった。
ごまかしようが、ない種類の質問だった。
『……タロに、伝えてくれ』
俺は念話で、ネアに送った。
「うん」
『俺には、直接、戦えない』
ネアが、それを、声に出した。
「イシルが、言ってる。直接、戦えない、って」
タロが、頷いた。1回。
「それは、知ってる」
タロが、言った。
「でも、聞いてる」
ネアが、また、しばらく、黙った。
『……ネアが、危ない場所には、行かせない』
俺は念話で、続けた。
「ネアを、危ない場所には、行かせない、って」
ネアが、伝えた。
タロが、また、頷いた。1回。
それから、タロが、聞いてきた。
「それだけか?」
タロの声が、いつもより、低かった。
子どもの声では、ないように、聞こえた。
◆
俺は、しばらく、考えた。
ネアの指が、ポケットの上に、軽く添えられた。布越しに、指の温度が、伝わってきた。いつもよりほんの少しだけ、しっかりしていた。
『……それだけじゃ、ない』
俺は、念話で、送った。
ネアが、それを、声に出した。
「それだけじゃ、ない、って」
「じゃあ、何だよ」
タロが、聞き返した。
『……でも』
俺は、しばらく、止まった。
言葉を、選んだ。
『俺が、動かなくても』
ネアが、伝えた。
「俺が、動かなくても」
タロが、待った。
『お前たちが、動ける』
ネアが、伝えた。
「お前たちが、動ける、って」
タロが、止まった。
しばらく、止まった。
地脈の振動で、タロの足元の、砂が、薄く動いた。タロが、何かを、踏み直したらしかった。それから、また、止まった。
◆
タロが、何も、言わなかった。
市場の音が、いつもどおり、流れていた。客と店主のやりとり、籠を運ぶ音、誰かの咳。タロの周りだけ、空気が、止まっているような重みがあった。
ネアも、何も、言わなかった。
俺も、何も、送らなかった。
タロが、拳を、握った。地脈の振動で、それが、分かった。指の力が、強かった。
それから、タロが、息を、吐いた。長い息だった。
「……なんか」
タロが、低い声で、言った。
「悔しいな」
短く、それだけ、言った。
ネアが、頷きも、何も、しなかった。
ただ、待った。
タロが、もう一度、息を吐いた。
地脈の振動で、タロの拳が、ゆっくりと開いた。指の力が、抜けた。
それから、
「……でも、分かった」
タロが、言った。
声に、悔しさは、まだ、混じっていた。でも、迷いは、消えていた。
「分かった」
もう一度、繰り返した。
タロが、踵を、返した。歩き出した。市場の角の方へ、戻っていった。地脈の振動で、それが、分かった。
いつもより、足音が、しっかりしていた。歩幅も、広かった。子どもの足音、ではなかった。
今日は、振り返らなかった。
いつもなら、ネアに「またな」と、声をかけていた。
今日は、なかった。
◆
昼。
タロの祈りの声は、聞こえなかった。
市場の角に、いなかった。
地脈の振動で、タロの足音が、あちこちに、動いていた。家のほう、井戸のほう、ヴェラの店のほう。何かを、確認しているような、歩き方だった。誰かに、声をかけている足音でも、あった。
ネアが、いつもの仕事を、いつもどおりにした。指の動きは、いつもどおり。呼吸も、いつもどおり。
でも、ネアの足音が、いつもより、ゆっくりだった。仕分けの台に向かうたびに、少しだけ、間が、長かった。
ヴェラがネアの所に来て、パンを1つ、握らせた。お金は受け取らなかった。パンは、まだ、温かかった。窯から出したばかりらしかった。
「タロ、来た?」
ヴェラが、低い声で、聞いた。
ネアが、頷いた。
「あんたとこ、にも」
ネアが、もう一度、頷いた。
「そう」
ヴェラが、それだけ言って、店に戻った。粉のついた手で、エプロンを、軽く払った。粉が薄く落ちた。
◆
夕方。
帰り道。
タロが、市場の角で、また、祈っていた。
「石様! 明日も頼むからな!」
声が、戻っていた。腹から出る声。元気な声。
でも、いつもより、ほんの少しだけ、長かった。
ネアが、その方を、ちらと見た。短く見た。
それから、目を、戻した。歩いた。
◆
夜。家。
ネアが俺を机の上に置いた。水を飲んだ。パンを齧った。ランプを消した。
月の光が、窓から入ってきた。少し、青かった。
俺は地脈の振動を聞いていた。範囲が、いつもより広かった。
廃都の北の端の方角に、別の足音が、まだ、いた。動かなかった。
でも、それは、今夜の話じゃ、なかった。
今夜の話は、もっと近くにあった。
◆
タロの家の方角。
子どもの声が、地脈の振動に乗って、薄く、届いた。
タロの声だった。
弟と妹に、向けて、話している声。
タロの声が、いつもより、低かった。腹から出る声、でも、なかった。でも、迷いも、なかった。
「……俺がいれば、大丈夫だ」
タロが、弟妹に、それだけ、言った。
弟が、何か、答えた。妹も、何か、答えた。声は、地脈の振動でも、はっきり聞こえなかった。
でも、タロの声は、もう一度、聞こえた。
「俺が、いる」
短く、繰り返した。
俺は、ポケットの中で、それを、聞いていた。
ネアの寝息が、隣で、整いつつあった。今夜は、いつもより、少し、早かった。
タロの声は、それから、聞こえなかった。家の中で、何かを、片付ける音がした。木の椅子を引く音、棚に物を置く音。寝る前の準備の音だった。
子どもの寝息も、薄く、混じり始めていた。タロの弟妹が、先に眠りに入ったらしかった。
タロは、まだ、起きていた。
地脈の振動で、それが、分かった。座っているらしかった。動かなかった。長く、座ったまま、何かを、考えていた。
◆
(タロが、決めたらしい)
街を守るとは、の話。
——タロが、決めたらしい。
俺は、よく分からない。
石だが。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回もよろしく。
——石より




