第29話「盗賊団の話」
朝、市場の声が低かった。
◆
ネアが俺をポケットに入れて家を出た。
戸を閉める音。鍵を回す音。石畳を踏む足の重さ。そこまでは、いつもと同じだった。
違ったのは、道の途中で聞こえてくる声の高さだった。
昨日までなら、朝の市場には、荷車の軋みと、ヴェラの店の前で子どもがパンをねだる声が混じっていた。今日は、荷車だけが目立っていた。子どもの足音が少ない。
ネアの足は止まらなかった。
ただ、ポケットの布越しに触れている指が、少しだけ動いた。
「盗賊団だってよ」
誰かの声が、市場の手前から流れてきた。
その言葉だけ、朝の空気の中で浮いていた。
◆
ヴェラの店の前に、昨日の商人とは違う男がいた。
革靴ではない。布で巻いた足。荷物を背負った歩き方。声に、砂を噛んだようなかすれがあった。たぶん行商人だ。たぶん、というのは、俺に見えているわけではないからだ。
この世界で石をやっていると、職業判定はだいたい足音と会話頼みになる。
(不便だな、石)
今さらだった。
「街道でやられた」
男が言った。
ヴェラが粉を払う音がした。
「どのあたり」
「南の分かれ道の先だ。荷を半分持っていかれた。人は殺されてねえ」
ヴェラが黙った。
殺されていない。
その言い方が、安心の形をしていなかった。
「廃都には」
「まだ入ってねえ。今のところはな」
行商人が息を吐いた。背中の荷物が、少しずれた音がした。
「でも、旅人を選んでる。金になる荷だけ持っていく。食い詰めた連中のやり方じゃねえ」
ネアが、店の前を通り過ぎた。
通り過ぎながら、少しだけ速度を落とした。聞いていないふりをする時の歩き方だった。
ヴェラが、ネアに声をかけなかった。
◆
昼前になって、噂は形を変えた。
南の街道。
3つ向こうの村。
荷車が2台。
刃物。
10人くらい。
数だけが増えていく。誰が数えたのかは分からない。市場の中で、同じ話が何度も口にされ、そのたびに少しずつ重くなった。
ネアは雑貨屋の裏手で薬草を仕分けていた。
いつもなら、葉の湿りと茎の硬さで分けていく。今日は、指が少し遅かった。間違えたわけではない。ただ、手が次の束に行く前に、遠くの声を聞く時間が挟まっていた。
地面に置かれていない俺には、遠くの地脈を直接は拾えない。
でも、ネアの呼吸は分かる。
声が低くなるたび、ネアの胸の奥が、ほんの少しだけ固くなった。
俺は何か言おうとして、やめた。
言えば、ネアは「うん」と言う。それで終わる。
盗賊団は消えない。
俺は動けない。
◆
雑貨屋の裏では、店主が木箱を積み直していた。
昨日までは、通りに出すための木箱だった。今日は、戸口の内側に寄せている。音が違う。木と木を合わせる音が、売るためではなく、塞ぐための音になっていた。
「こっちも閉めとくか」
店主が誰かに言った。
「昼だぞ」
「昼でもだ」
短い会話だった。
ネアは顔を上げなかった。薬草を分ける手を続けていた。ただ、さっきよりも少しだけ、茎を折らないように持っていた。力が入りすぎないようにしている手だった。
市場の向こうでは、ヴェラがいつもより早く焼き上がったパンを布で包んでいた。売る分と、しまう分。音の分け方で、それが分かった。
「残ったらどうすんだよ」
タロが聞いた。
「残らせるんだよ」
「は?」
「夜、誰か来たら食わせる」
タロが黙った。
たぶん、今の「誰か」は、客のことではなかった。
廃都の人間は、怖がる時でも、食べ物をしまう。誰かが来た時のために。
そういう怖がり方をする。
(ここ、変な街だな)
俺は思った。
前世の俺なら、戸締まりをして終わりだった気がする。余ったパンを、夜の誰かのために取っておく発想は、たぶんなかった。
石になってから知ったことは、だいたい、俺が動けない場所にある。
◆
「最近、辺境上がりの若いのまで巡回に出されてるらしいな」
昼過ぎ、行商人が別の客と話していた。
ネアの手が止まった。
ほんの短い停止だった。薬草の束を持ったまま、指だけが止まる。
「若いの?」
「ああ。騎士ってほど立派でもねえが、腕は立つらしい。街道を回ってるって話だ」
「こっちまで来るのかい」
「さあな。廃都のために来るかどうかは知らねえ」
最後の言葉だけ、少し軽かった。
軽いから、よけいに残った。
廃都のために。
誰かが来るかもしれない。
誰も来ないかもしれない。
その両方が、市場の土の上に置かれたままだった。
◆
子どもの声が、いつもより早く家の方へ戻っていった。
タロの声だけは、戻らなかった。
「俺は平気だって」
市場の角から聞こえた。咳が混じっていた。
「平気なやつは、そういう言い方しないんだよ」
ヴェラの声だった。
「でもよ、盗賊団だろ。子どもだけでも集めといた方が」
「それを大人に言いに来たなら偉い。外へ見に行くなら馬鹿だ」
「……見に行くとは言ってねえ」
「今、言う顔してた」
タロが黙った。
顔は見えない。でも、たぶん口を尖らせている。経験上。
(ヴェラさん、強いな)
俺は思った。
ネアが薬草を置いた。ほんの少しだけ、音が小さかった。
◆
夕方近く、ダンが来た。
いつもの軽い足音ではなかった。市場の裏を抜ける時の、癖を消した歩き方だった。足裏を地面に置く時間が短い。止まる時だけ、重い。
元盗賊上がり。
その肩書きを、今日ほどそのまま感じたことはなかった。
「ネア」
ダンが低く呼んだ。
「……ん」
「今日は、暗くなる前に帰れ」
ネアは答えなかった。
ダンも、返事を待たなかった。
「あいつらはただの盗賊じゃねえ」
市場の音が、少し引いた。
「誰かに使われてる」
ネアの指が、ポケットの上に触れた。
布越しに、体温が伝わってくる。
俺は念話を送らなかった。
ダンの言葉には、聞き返してはいけない場所があった。ネアも、それが分かっているみたいに黙っていた。
「……分かった」
ネアが言った。
ダンの足音が離れた。途中で一度だけ止まり、井戸の方角へ向きを変えた。誰かに何かを伝えに行く足音だった。
その後、市場は少しだけ忙しくなった。
騒がしくはならなかった。
忙しくなった。
ヴェラがパンを小分けにした。雑貨屋の店主が戸板を出した。薬草屋の婆さんが包みを3つ、ネアの近くに置いた。
「持って帰りな」
婆さんが言った。
ネアが首を振った気配があった。
「……仕事の分だけでいい」
「仕事だよ」
婆さんの声が、少しだけ硬かった。
「怪我人が出たら、あんた走るだろ」
ネアは答えなかった。
薬草の包みは、結局、ネアの籠に入った。
俺は何も言わなかった。
ネアが走る。
その言葉だけで、ポケットの中が少し冷えた。
◆
帰り道。
ネアは俺を地面に置かなかった。
置いてくれ、と言えば、俺はもう少し遠くまで聞けたかもしれない。廃都の外の足音。街道の重さ。南の方角にいる何か。
言わなかった。
ネアの仕事籠は軽くなっていた。片手が空いていた。頼めば、置けた。
それでも言わなかった。
遠くを聞いたところで、俺はそこへ行けない。
ネアを危ない方へ向ける理由にしかならない。
石としての正しさは、たぶん、黙ってポケットにいることだった。
(便利じゃないな、俺)
少しだけ、そう思った。
返事は、もちろん、なかった。
◆
夜。
ネアはランプを消さなかった。
机の上に俺を置き、水を飲み、パンを半分だけ齧った。残りを布に包む。いつもの節約の動きだった。でも、布を結ぶ指が、一度だけ緩んだ。
窓の外で、風が低く流れた。
ネアが窓に近づいた。
『ネア』
「……うん」
『何か見えるか』
「……火」
短かった。
それだけで、足りた。
俺は机の上から、床を通して地脈に触れていた。昼より少し広く、夜の振動が聞こえる。廃都の外縁。南だけではない。北にも、東にも、熱の点があった。
松明。
近くはない。
でも、遠すぎもしない。
地脈の上に、火の重さが点々と残っていた。
ネアは窓の前で動かなかった。
『近くはない』
「……うん」
『でも、見えるんだな』
「……うん」
ネアの声は小さかった。怖いとも、平気とも言わない声だった。
俺は、地脈の熱を聞いた。
火は、風で少し揺れた。
消えなかった。
ネアの手が、机の上の俺に触れた。握らない。ただ、指先を置いただけだった。
守る手ではなかった。
確かめる手でもなかった。
そこに置いておく手だった。
外では、どこかの家の戸が閉まった。
それから、別の戸も閉まった。
廃都の夜は、いつも静かだ。けれど今日は、静かになる順番が聞こえた。市場から路地へ。路地から井戸へ。井戸から、ネアの家の周りへ。
誰かが最後に水桶を置いた。乾いた音だった。
火は、まだ外にあった。
その火を、消しに行く足音はなかった。
誰も、外へ向かわなかった。
それが、今日いちばんはっきりした返事みたいだった。
火が近いのではない。
近づいてくるものを、誰もまだ迎えに行けないだけだった。
家の中には、ネアの指の温度だけが残っていた。
◆
(火が、消えなかった)
盗賊団の話。
「……火」
——廃都の外。
俺は、動けない。
でも、見えているらしい。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「石喰いその3」もよろしく。
いつものやつも来る。
——石より




