第28話「交渉」
朝の市場に、昨日の革靴が戻ってきた。
◆
ネアは家の戸を閉めた。
鍵が回る音。乾いた風。ポケットの布越しに伝わる体温。
ここまでは、いつもの朝だった。
けれど市場の方角から、重い足音が来ていた。廃都の地面に、ひとつずつ跡を押し込むような歩き方。昨日、ネアに石を売れと言った男の足音だった。
(また来たな)
俺がそう思った時、ネアの指がポケットの上に添えられた。
力は強くなかった。ただ、そこに置かれただけだった。
俺は何も言わなかった。
言えば、たぶん、ネアは短く「うん」と返す。返して、そのまま歩く。そこまでは分かる。
分かるから、言わなかった。
市場に近づくにつれて、声が増えた。荷車の車輪。木箱を下ろす音。パンを並べる板の音。
その中で、ヴェラの屋台の前だけ、少し沈んでいた。
◆
「おばさん」
商人の声だった。
「あの子を説得してくれないかね」
ヴェラはすぐには答えなかった。粉を払う音がした。いつもの、ぱん、という軽い音ではなかった。布に粉が押しつけられるような音だった。
「金が入れば、このパン屋だってもっと良くなる。ここにいる連中にも、悪い話じゃない」
「……あの石は、ネアのもんだよ」
ヴェラの声は低かった。
短い。けれど逃げていない。
「持ってるだけで何になる。使えるものは使ったほうがいい。街のためにも、あの子のためにも」
「あの子のため、ね」
ヴェラが笑った。
笑った声なのに、笑っていなかった。
「じゃあ、本人に嫌だって言われたら終わりだろ」
「子どもは損得が分からない」
「大人が分かってるとも限らないよ」
屋台の前で、足音が止まった。
市場の音が、少しだけ薄くなった。誰かが籠を置く音。誰かがパンを選ぶ手を止める音。止まった音のほうが、よく聞こえた。
ネアは屋台に近づかなかった。
少し離れた場所で、仕事場へ向かう道をそのまま歩いた。歩幅は変わらない。けれど、指はまだポケットの上にあった。
(行かないのか)
思っただけで、送らなかった。
ネアは行かなかった。
◆
「何あのおっさん!」
タロの声が飛んだ。
市場の角から走ってきた足音が、途中で乱れた。咳が混じった。まだ身体が本調子ではないらしい。なのに、止まらなかった。
「ゲホッ……ネアの石だぞ! あっち行けよ!」
「タロ」
ヴェラが低く呼んだ。
「いいから」
「よくねえよ!」
タロの足が、商人の前に踏み出した。子どもの足音だった。軽い。軽いのに、引かなかった。
商人は怒鳴らなかった。
そこが、嫌だった。
「ずいぶん大事にされている石だな」
声が、ゆっくりだった。
「余計に、値がつく」
タロの息が詰まった。
ヴェラの手が、タロの肩に置かれた気配がした。
「帰んな」
ヴェラが言った。
「今日は、パンも売らないよ」
商人の革靴が、わずかに向きを変えた。帰る向きではなかった。市場を見る向きだった。
見物していた足音が、いくつか後ろへ下がった。
でも、全部ではなかった。
下がらない足は、地面の上で小さく向きを変えた。商人を見る足。ヴェラを見る足。タロを見る足。
最後に、ネアのいない道を見る足。
声は出ない。
出ないまま、何かを量っていた。
◆
ネアは仕事場に着いた。
雑貨屋の裏手。薬草の束。紐。空箱。木の台。
いつもの仕分けだった。
ネアは薬草をひと束取った。葉の向きをそろえて、紐をかけた。次の束に手を伸ばす。
その指が、途中で止まった。
市場の奥で、ダンの声がした。
「……あの石1つで、ここが救われるなら」
低い声だった。誰かに聞かせる声じゃない。近くの屋台の主にだけ落とした声。
けれど地面は拾った。
俺には届いた。
ダンの足は、ヴェラの店から離れたところにあった。離れているのに、商人の言葉のそばに立っていた。
屋台の主が何か答えた。聞き取れない。声よりも、足の揺れのほうが強かった。
迷いの重さだった。
昨日までの廃都は、貧しくて、騒がしくて、何となく不器用だった。誰かが咳をする。誰かが値切る。タロが走る。ヴェラが怒る。
そこに、値段が入ってきた。
石ひとつ分の値段。
ネアの指が、薬草の茎を折りかけた。
折らなかった。
ゆっくり戻して、束の中に入れ直した。
(街が、揺れてる)
それだけ思った。
念話は使わなかった。
◆
昼を過ぎても、商人はすぐには帰らなかった。
市場の端を歩き、井戸の近くで止まり、ヴェラの屋台から少し離れた場所でまた止まった。買い物の足ではなかった。道の幅、人の流れ、井戸までの距離。そういうものを、足で測っているようだった。
ネアは仕事を続けた。
話しかけてくる者はいなかった。
それが、逆にうるさかった。
タロは何度か雑貨屋の裏手を見に来た。近づきかけて、ヴェラに呼ばれて戻った。咳を隠そうとして、失敗していた。
ヴェラは商人ともう話さなかった。
ダンは昼過ぎに市場を離れた。足音は重かった。悪いことをした足音ではない。ただ、何かを置いていけなかった足音だった。
俺はポケットの中で、地脈を聞いていた。
使おうと思えば、少しはできることがあるのかもしれない。地面に置かれれば、井戸の水や石畳の流れを聞ける。街の重さの変化も、もう少し深く探れる。
でも、ネアは俺を置かなかった。
俺も頼まなかった。
今、地面に広がっているのは、濁りではなかった。
人の迷いだった。
石で押すものじゃない。
◆
夕方、商人の革靴は廃都の外へ向かった。
完全に遠ざかったわけではない。門の先で一度止まり、誰かと短く話した。それから、城下町の方角へ消えた。
ネアは最後まで何も言わなかった。
帰り道、ポケットの中が少し冷えていた。日が落ちると、布越しの空気が変わる。ネアの歩き方はいつもと同じだった。けれど、同じ歩き方を保とうとしている感じがあった。
(大丈夫か)
送らなかった。
送れば、ネアはたぶん「別に」と言う。
それで終わる気がした。
家に着くと、ネアは俺を机の上に置いた。水を飲んだ。パンを少しだけ齧った。残りを布に包んだ。
ランプは消さなかった。
小さな火が、部屋の隅で揺れていた。
◆
ネアは机の前に座った。
いつもの無口ではなかった。
黙っている、というより、声がどこかで引っかかっている感じだった。椅子の脚が床を小さく鳴らした。手が膝の上で、一度だけ握られた。
「……イシル」
『ん』
「……私が持ってるの」
そこで止まった。
窓の外で、風が壁を撫でた。遠くで戸が閉まる音がした。廃都の夜の音だった。
「迷惑かな」
声は小さかった。
弱い、とは少し違った。
置き場所を探している声だった。
俺は、すぐには返さなかった。
言えることはいくつかあった。迷惑じゃない。気にするな。お前のせいじゃない。どれも、少し違った。
ネアが聞いたのは、俺の正解じゃなかった。
『ネア』
「……ん」
『俺は、お前のポケットにいる』
ネアは黙っていた。
『それだけだ』
それ以上は言わなかった。
街のことも、商人のことも、ダンの迷いのことも。
俺が言えば、ネアは背負う。
だから言わなかった。
ネアの指が、机の端に触れた。俺には触れなかった。触れそうな距離で、止まった。
「……分かった」
完全に分かった声ではなかった。
でも、立ち上がる音がした。
◆
ネアが布団に入ってからも、ランプの匂いが少し残っていた。
寝息が整うまで、時間がかかった。
俺は地脈を聞いた。
市場の音はもうない。井戸の水音が細く続いている。ヴェラの店の奥で、板戸が鳴った。タロの家の方角で、小さな咳がした。
それから、廃都の端。
昨日の軽い足音が、まだいた。
商人の革靴ではない。もっと浅い。地脈に馴染まない足音。立っているだけで、地面の上に薄い傷をつけるような重さ。
その足音は、動かなかった。
夜になっても、帰らなかった。
向きだけが、変わっていた。
ネアの家の方角。
俺は何も言わなかった。
*【第28話 了】*
交渉の話。
「迷惑かな」
——値段のつかないもの。
俺は、石だ。
売り場には向いていないと思う。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「ライン・いや違う、盗賊団の話」もよろしく。
足音が増えるらしい。
——石より




