第27話「城下町の商人が来た」
朝、机の上に、昨日のものがまだ並んでいた。
白い花。小さい石。紙に包まれたパン。小瓶。
ネアはそれを片づけなかった。起きて、水を飲んで、髪を結んで、荷物紐を手に取った。それから一度だけ、机の端を指で触った。
俺には目がない。
でも、その指がどこを確かめたのかは分かった。
俺の横。
小さい石の横。
◆
市場へ向かう道は、いつもと同じ音だった。
戸板を開ける音。水桶を置く音。誰かが咳をして、すぐに止める音。タロらしい軽い足音は、まだ遠かった。
その中に、1つだけ違うものが混じっていた。
革靴。
廃都の人間の足音ではなかった。足裏が硬い。踏むたびに、石畳の上で小さく沈む。歩幅が大きいのに、進む先を何度も変えていた。
迷っている、というより、測っている。
(外から来たな)
俺は地脈を聞いた。
男は井戸のそばで止まった。市場の入口で止まった。ヴェラの屋台の前で、少し長く止まった。
住む場所を探す足ではなかった。
◆
ヴェラの屋台の前は、朝から粉の匂いがしていた。焼きたてのパンが並ぶ音。銅貨が木の皿に落ちる音。いつもの客が、いつもの文句を言う声。
そこへ、革靴の男が立った。
「おばさん、これ、いくらだい」
「3つで銅貨1枚だよ」
ヴェラの声は変わらなかった。
「へえ。安いな」
「廃都価格だからね」
「最近、廃都の水がきれいになったって聞いたんだが」
パンを取る音が止まった。
ネアは屋台の横を通り過ぎようとしていた。荷物紐を肩にかけ直す。足は止めなかった。
「水?」
ヴェラが笑った。軽い声だった。軽くしすぎた声でもあった。
「そんな噂、どこから流れるんだろうねぇ」
「城下町まで来るくらいには、流れてるよ」
男はパンを買わなかった。屋台の板を指で叩いて、横の井戸のほうを見たらしかった。地脈の上で、体の向きだけが変わった。
ネアの足が、その前を抜けた。
男の革靴が、少しだけ、ネアに向いた。
◆
昼前。
ネアは雑貨屋の裏で、荷物を分けていた。瓶は瓶。布は布。欠けた皿は別の箱。いつもの仕事だった。
昨日もらった小さい石は、家に置いてきた。
俺はポケットの中にいた。
革靴が近づいてきた。まっすぐだった。さっきまであちこちで止まっていた足音が、今度は迷わなかった。
『ネア』
「……うん」
『こっちに来る』
ネアの手は止まらなかった。皿を1枚、木箱の中に置いた。少し欠けた縁が、箱の底で小さく鳴った。
男の影が、作業台にかかった。
「ねえちゃん、ちょっといいかい」
ネアは顔を上げなかった。
「最近、廃都の水がきれいになったって噂を聞いたんだが」
「……知らない」
短い声だった。
男が笑った。口だけで笑う時の、喉に残る音がした。
「ま、そうかね。ただな、聞いた話じゃ、あんたが持ってる『お守り石』ってのがあるって言うじゃないか」
ネアの指が止まった。
皿ではなく、ポケットの上で。
布越しに、指の腹が俺に触れた。強くはなかった。隠すほどでも、握るほどでもない。そこにあるかを、確かめただけだった。
男の足が、1歩だけ寄った。
「譲ってくれたら、それなりの金は出す。あんたもこんな廃都でずっと暮らすこたねえだろ」
雑貨屋の裏で、誰かが戸を閉めた。
遠くで、桶の水が揺れた。
俺は何も送らなかった。
光らせることもできた。念話で怒鳴ることもできた。地脈を強く震わせれば、男を少しは怯ませられたかもしれない。
どれもしなかった。
ネアの指が、ポケットから離れた。
「……売らない」
それだけだった。
男はすぐには返事をしなかった。革靴の爪先が、土の上でゆっくり向きを変えた。
「そうかい」
声は軽かった。
足音は軽くなかった。
◆
男は市場のほうへ戻った。
戻りながら、独り言のように言った。
「……城下町の商会も、最近は大変でな」
ネアは皿を箱に戻した。
男の足が、もう1度止まる。
「持ってる奴が損する時代だぞ、こういうのは」
それから、革靴は遠ざかった。
足音が見えなくなるまで、ネアは作業台の前にいた。皿を分け、瓶を寄せ、布をたたんだ。動きはいつもより丁寧だった。
丁寧すぎた。
俺は、ポケットの中で黙っていた。
◆
昼過ぎ、ヴェラがネアを呼んだ。
「ネア」
粉を払う手が、いつもより遅かった。
「あんたにも来たかい」
ネアが頷いた。
「何か言った?」
「……知らないって」
「それでいい」
ヴェラはそう言って、パンを1つ紙に包んだ。銅貨の皿を見なかった。
ネアが受け取らずにいると、ヴェラは紙包みを荷物箱の上に置いた。
「食べな。こういう日は腹に入れといたほうがいい」
「……仕事中」
「じゃあ後で」
ネアは紙包みを見た。
昨日のパンとは違う匂いがした。焼き色の濃い、硬めのパンだった。長く置けるやつだ。
ネアはそれを、荷物の端に入れた。
「ありがとう」
小さかった。
ヴェラは何も言わなかった。
◆
市場は、そのあとも続いた。
籠が運ばれ、布が畳まれ、誰かが値切って、誰かが笑った。井戸の縁では、女の人が桶を引き上げていた。水が桶の内側を叩く音は、前より少しだけ澄んで聞こえた。
その音を、俺は聞かないふりをした。
聞こえてしまうから、困る。
タロが角から走ってきた。昨日みたいな勢いではなかった。途中で足をゆるめ、ネアの前で止まった。
「さっきのおっさん、何?」
「……知らない」
「また知らないかよ」
タロは文句を言ったが、声は小さかった。市場の入口のほうを一度見て、すぐに戻した。
「俺、あいつ嫌い」
「まだ何もしてない」
「してなくても、嫌な奴は嫌だろ」
ネアは答えなかった。
タロは箱の上に残っていた紐を拾い、ぐるぐる巻いて戻した。仕事を手伝った、というほどではない。邪魔にならない場所に置いただけだった。
「何かあったら呼べよ」
「呼ばない」
「呼べよ」
「……うるさい」
タロは少しだけ笑った。それから、走らずに市場のほうへ戻っていった。
子どもの足音まで、今日は少しだけ低かった。
◆
夕方、男の革靴は廃都から出ていった。
それは地脈で分かった。
市場の入口を越え、崩れた門の横を通り、城下町へ続く道へ消えた。最後まで足音は乱れなかった。
ただ、通った場所が残っていた。
井戸。屋台。雑貨屋の裏。子どもたちがよく集まる角。水桶が並ぶ壁際。
男は、商品を見るより、場所を見ていた。
どこに人が集まるか。
どこで水を使うか。
どこにネアが立つか。
(俺が浄化した水)
(それが、廃都の外に話題を作ってしまった)
言葉にすると、少し間抜けだった。
俺は石だ。水をきれいにしようとして、町おこしを始めたわけじゃない。だいたい俺は動いていない。
なのに、外から足音が来た。
水の音をたどって。
ネアのポケットまで。
◆
夜。
家の中は静かだった。ネアはヴェラのパンを半分だけ食べた。残りを布に包んで、机の端に置いた。
昨日の白い花は少ししおれていた。小さい石は、そのままだった。小瓶の中の葉が、ランプの光で薄く揺れた。
ネアは俺を机の上に置かなかった。
今日は、ポケットに入れたままだった。
布団に入ってからも、指が時々ポケットに触れた。眠るための動きではない。なくなっていないか、確かめる動きだった。
『……ネア』
「……ん」
『俺は売り物じゃないからな』
「知ってる」
返事が早かった。
それから、少し遅れて、ネアが布団の中で体の向きを変えた。
「……石だし」
『そこか』
ネアは何も言わなかった。
俺も、笑わなかった。石だから、ということにしておく。
地脈を聞いた。
廃都の外。崩れた門の向こう。昼に革靴が消えた道の、もう少し手前。
そこに、薄い足音があった。
男のものではなかった。もっと軽い。長く歩いてきた足ではない。待つために止まった足だった。
風が戸の隙間を撫でた。
ネアの指が、ポケットの上で止まった。
俺は何も送らなかった。
◆
(誰かが、見ていた)
城下町の商人の話。「売らない」
俺は、石なので値札を貼られたことはない。石だが。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「交渉」もよろしく。また来るらしい。
——石より




