第26話「ネアの誕生日(たぶん)」
タロは、朝から変だった。
◆
市場の端で、ネアは荷物を降ろしていた。
乾いた芋の袋。布に包んだ皿。どちらも軽くはない。俺はポケットの中で、ネアの体温と足の振動だけを聞いていた。
井戸のほうでは、誰かが水を汲んでいる。木枠が軋み、水が落ちる音がした。最近、その音が少し澄んで聞こえる。
気のせいかもしれない。
「ネア!」
タロの足音が、まっすぐ近づいてきた。
途中で1度つまずきかけて、踏み直す。勢いだけで走っている時の音だった。
「お前、誕生日いつだ!」
市場の人が何人か振り向いた。
ネアは振り向かなかった。
『……朝の挨拶ではないな』
「……うん」
ネアの返事は、俺にだけ届いた。
◆
タロが台の前で止まった。息が切れているのに、声だけは大きかった。
「誕生日! いつ!」
「……知らない」
「知らない?」
「聞いてない」
ネアはそれだけ言って、皿の包みを直した。
タロが黙る。
タロの黙り方は、分かりやすい。右足のかかとが石畳をこつこつ叩く。早い。浅い。考えているというより、頭の中で何かが転がっている音だった。
「親にか?」
ネアは答えなかった。
ヴェラが粉のついた手を止めた。フリンの家の方角で、乳鉢の音が1度だけ遅れた。
それだけだった。
「じゃあ今日」
「……は?」
『……は?』
俺とネアの声が重なった。
「今日にする。今決めた」
「勝手」
「知らないなら、空いてるだろ」
『理屈が雑だ』
ネアの指がポケットの布をつまんだ。
「いらない」
「いる」
「いらない」
「いる!」
タロの足先が、市場の奥へ向いた。
嫌な予感がした。
「待ってろ!」
「待たない」
「待ってろ!」
タロは走った。市場の奥へ。子どもを集めに行ったのだと思う。
ネアは追わなかった。
追えば止められたかもしれない。ネアは荷物を運ぶ足には慣れている。
でも、追わなかった。
『止めるか?』
「……仕事」
袋の口を結び直す音がした。
◆
昼前。
子どもの足音が増えた。
3つ。5つ。もっと。
軽い足音は数えづらい。跳ねる。曲がる。戻る。誰かが笑い、誰かが「急げ」と言った。
ネアの手が止まった。
「ネアー!」
タロが先頭だった。その後ろにリコと、名前を知らない子が何人か。もっと小さい子もいた。
「おめでとう!」
タロの声で、近くの木箱が少し震えた。
リコが白い花を差し出した。壁の割れ目に咲いているやつだ。茎が短い。
「これ」
ネアは受け取った。
受け取ってから、手が止まった。
別の子が、小さい石を置いた。
「きれいなやつ」
丸い石だった。川の石に似ている。廃都の近くに川はないから、誰かがずっと持っていたものだろう。
紙に包んだパンも来た。
「ヴェラさんが、余りじゃないって」
その言い方で、余りではないことだけは分かった。
小瓶も来た。中で葉が水に浸かっている。
「フリンばあちゃん。苦くないやつ、たぶん」
『たぶんは怖いな』
ネアは何も言わなかった。
白い花。丸い石。パン。小瓶。
仕分け台の端に並ぶと、誕生日というより拾得物の確認みたいだった。
◆
市場の大人たちは、近くにいるのに、少しだけ遠かった。
ヴェラは店の奥で粉を払っていた。止めるでもなく、混ざるでもなく、焼き台の前で手だけを動かしている。
「あんまり騒ぐんじゃないよ」
声だけが飛んできた。
「騒いでない!」
タロが即答した。
騒いでいた。
フリンの家の方角からは、乳鉢の音がまた戻っていた。さっきより少しゆっくりだ。聞いているのか、聞いていないのか、その中間くらいの音だった。
ネアは、白い花と丸い石を両手に分けて持った。パンと小瓶は台の上に置いたままだった。
荷物ではないものを持つ手つきだった。
いつもの仕事の手ではなかった。
◆
「おめでとう!」
タロがもう1度言った。
子どもたちも真似をした。
「おめでとう」
「ネア、おめでとう」
「今日らしいぞ」
最後のやつは間違っていないが、言い方が雑だった。
ネアは白い花を持ったまま立っていた。
市場の声が、少し遠くなる。
ヴェラが店の奥で何かを焼く音。フリンの乳鉢。井戸の水。北の道を通る、知らない男の足音。
男は、少しだけ立ち止まった。
「あの子が、噂の」
低い声だった。
すぐ歩き去った。靴底が硬い。廃都の石畳に慣れていない歩き方。
ネアは気づいていない。
タロも気づいていない。
子どもたちは、返事を待っていた。
沈黙が長くなる。
タロの声が小さくなった。
「……嫌だったか?」
ネアの指が、花の茎を握り直した。
折れないくらいの強さだった。
『ネア』
『嫌なら、嫌でいい』
ネアは少しだけ息を吸った。
それから片手を上げた。
いつもの、何でもない片手。
でも、下ろさなかった。
「いいってことか?」
「……たぶん」
子どもたちが笑った。リコが跳ねた。小さい子がつまずきかけて、タロが支えた。
「よし! じゃあネアの誕生日、今日な!」
「毎年?」
誰かが聞いた。
タロが固まった。
そこまでは考えていなかったらしい。
「……毎年は、聞け」
「分かった!」
たぶん分かっていない。
◆
午後の仕事は、いつもより遅く終わった。
ネアはもらったものを布に包み、荷物とは別に持った。白い花だけは、折れないように指で持っていた。
ヴェラの店の前を通ると、紙袋が1つ、台の端に置かれていた。
「持ってきな」
「……もらった」
「それとは別」
「……」
「誕生日なんだろ」
ネアは黙って紙袋を取った。
中身は軽かった。小さい焼き菓子が2つ。たぶん、売り物にするには形が悪い。けれど、香りはよかった。
「余りじゃないよ」
「……うん」
ネアはそう言って、紙袋を布の中に入れた。
ヴェラは何も続けなかった。
その沈黙が、少しだけあたたかかった。
帰り道、タロが途中までついてきた。
「明日も誕生日にするか?」
「しない」
「じゃあ明後日」
「しない」
「じゃあ来年」
ネアは答えなかった。
タロはそれを、たぶん許可だと思った。
「またな!」
タロの足音が市場へ戻っていく。
ネアはしばらく歩いた。
ポケットの上に、指が触れた。
『どうした』
「……誕生日」
『うん』
「増えるの?」
『何が』
「……分からない」
白い花の茎が、指の間で揺れていた。
◆
夜。
家の机に、白い花と丸い石とパンと小瓶が並んだ。
ネアは俺をいつもの場所に置こうとして、少し迷った。それから丸い石の横に置いた。
俺の隣に、知らない石。
(……同列扱いか)
まあ、石だしな。
パンは半分だけ食べた。小瓶は蓋を開けて匂いを嗅ぎ、すぐ閉めた。
「……苦くない」
『本当か?』
「たぶん」
信用できない。
ネアは花を欠けた杯に挿した。水は少しだけ。井戸の水だった。杯の底で、冷たさが静かに止まった。
白い花。丸い石。半分のパン。小瓶。形の悪い焼き菓子が2つ。俺。
ネアは3回、並べ替えた。
最後に、俺を少しだけ手前へ寄せた。
丸い石は、俺のすぐ後ろに残った。
花は倒れない位置。パンは手の届く位置。小瓶は、少し遠い位置。焼き菓子は、なぜか俺の隣だった。
(俺に食わせる気か)
もちろん食えない。
でも、動かされなかった。
『ネア』
「ん」
『これが、友達というものだ』
言ってから、少し偉そうだったかもしれないと思った。
ネアは返事をしなかった。
ランプの火が小さく揺れた。
外では、遠くの道を硬い靴底の足音が1度だけ通った。昼の男かもしれない。違うかもしれない。
ネアはそちらへ足を向けなかった。
俺も、呼ばなかった。
◆
寝る前。
ネアは布団に入ったあと、もう1度起きた。
机まで来て、花の杯を少し奥へずらした。丸い石を指で触った。俺にも触った。
同じ指だった。
それから布団に戻った。
『……イシル』
『ん』
『……ありがとう』
『何が』
ネアは答えなかった。
布団が擦れる音がした。寝息が、ゆっくり整っていく。
俺は机の上で、白い花の水の冷たさを聞いていた。
◆
(聞かなかった)
*【第26話 了】*
ネアの誕生日の話。
「……ありがとう」
——何のことかは、聞いていない。
俺は、石なので誕生日を祝われたことがない。
石だが。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「城下町の商人が来た」もよろしく。
——石より




