表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
廃都編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/90

第25話「廃都が少し変わってきた」


 井戸の水が、底まで見えた。


   ◆


 朝。


 ネアが釣瓶を引いた。縄が木枠をこすり、湿った音が井戸の中から上がってくる。


 俺はポケットの中にいた。布越しの体温と、ネアの腕に移る重さ。そこへ、水の揺れが細く触れた。


(……軽いな)


 水が軽い、というのも変な話だ。


 でも、前はもっと沈んでいた。泥を混ぜたみたいに音が鈍く、桶の底に小さいざらつきが残った。今朝の水は、桶の板をたたく音がまっすぐ返ってくる。


 ネアが手を入れた。


 指先で水が割れた。冷たさが布越しに少しだけ伝わる。


「……冷たい」


『だな』


 ネアは返事をしなかった。桶を持ち上げ、いつもの道へ歩き出す。


 水は揺れた。


 こぼれなかった。


 井戸のそばでは、隣の家の女が桶を並べていた。


 2つ。


 前は4つ並んでいた気がする。朝のうちに汲んでおかないと、昼には泥が混じるからだ。今日は女が桶をのぞき込み、首をかしげ、それから1つを家の中へ戻した。


「これで足りるかね」


 独り言みたいな声だった。


 ネアは答えない。女も答えを待っていない。


 ただ、井戸の周りにできる水たまりが小さかった。こぼれた水が、汚れた跡を作らずに石の隙間へ落ちていく。


 落ちた先で、冷たさだけが残った。


   ◆


 市場へ向かう道で、低い壁に荷袋の角が当たった。


 音だけがした。


 前なら、そこから欠けた石がぱらぱら落ちた。ネアが足を止め、拾うか避けるかを少し迷う場所だった。


 今日は何も落ちない。


 ネアは振り向かなかった。ただ、次の角を曲がる時に壁の近くを歩いた。


(試したな、今)


『ネア』


「なに」


『いや、別に』


「うるさい」


 まだ何も言っていない。言っていないが、たぶん顔には出ている。石に顔はない。便利で不便だった。


 石畳の隙間では、短い草が伸びていた。踏まれても倒れきらず、ネアの足音のあとでまた起きる。根が浅い草ではなかった。


 廃都の地面が、少しだけ固くなっている。


 そんな気がした。


   ◆


 ヴェラの窯の前で、知らない男の声がした。


 歩き方は軽い。靴底が薄くない。荷車を引く者の足ではなく、荷車を待たせる者の足だった。


「ほんとに水がきれいなんだな」


「買いに来たのはパンだろ」


 ヴェラの声はいつも通りだった。粉を払う布の音が混じっている。


「いや、城下町のほうで聞いたんだよ。廃都の水が澄み始めたって」


 ネアの足が少し遅くなった。


 俺も、何も言わなかった。


「へえ」


 ヴェラが笑う。


「誰がそんなこと言ったんだろうねぇ」


 軽い笑い方だった。


 でも、窯の火を動かす棒は止まっていた。薪が小さく爆ぜ、その音だけが妙に近い。


 男には届いていないらしい。


「商人の集まりでな。最近、あっちの水よりいいんじゃないかって」


「そりゃ困るね」


「なんでだ」


「水だけ飲んで帰られたら、パンが売れない」


 男が笑った。ヴェラも笑った。


 ネアは通り過ぎた。


 ポケットの上から、指が一度だけ俺を押さえた。


   ◆


 市場の中は、少し騒がしかった。


 タロが木箱を運んでいた。前より速い。箱の中身はたぶん芋だ。ごろごろと転がる重さが、足元から伝わってくる。


「ネア! 今日これ、持てるか」


「持てる」


「やっぱりな!」


 何がやっぱりなのかは分からない。


 ネアは箱を受け取った。タロは空いた両手を腰に当て、井戸の方角を見た。


「最近さ、かあちゃんが水を汲む回数、減ったんだ」


「……そう」


「でも足りてる。なんでだろうな」


 俺は少し考えた。


 水が澄んだ。


 こぼれにくくなった。


 土が吸いすぎない。


 たぶん、そういう細かいことが重なっている。


 説明しようと思えば、できた。


 タロだけに声を届ける道も、今なら分かる。


 でも、やめた。


 タロは首をひねったまま、すぐ別の箱へ走っていった。


 知らなくても、箱は運べる。


   ◆


 昼前、ネアはフリンの家へ薬草を届けた。


 扉の前に束を置く。いつものやり方だ。フリンが作業中の時、ネアは中へ入らない。


 乳鉢の音がしていた。


 乾いた薬草を擦る音ではなかった。湿った葉を潰し、底に残った汁の重さを確かめるような音。


「置いとく」


 ネアが言った。


「助かるよ」


 中からフリンの声が返った。


 そこで、乳鉢が止まった。


「……地脈が」


 ネアの手が戸板から離れる。


 フリンは少し黙った。


「変わってきとるねぇ」


 その声は、嬉しそうではなかった。


 怖がってもいなかった。


 針の先で布目を探すみたいな声だった。


「面白いじゃないかい」


 ネアは返事をしなかった。


 俺も返事をしなかった。


 扉の内側で、フリンがもう一度乳鉢を回す。さっきより少しゆっくりだった。


 戸の下から、薬草の匂いが流れてくる。


 苦い草。


 前はこの家の前を通るたび、その匂いが濃かった。病人の家から戻る足音も、ここで何度も止まっていた。


 今日は、戸口に置かれた空の薬瓶が少ない。


 ネアがそれを見たかは分からない。


 ただ、薬草の束を置く時、紐の結び目を少しだけ直した。ほどけにくいように、指で押してから離す。


 フリンの乳鉢が、また止まりかけた。


 でも、今度は何も言わなかった。


   ◆


 午後、ネアは北の高台へ荷物を運んだ。


 坂道は乾いていた。砂が流れても、石畳の隙間にすぐ詰まる。足を滑らせるほどではない。


 ここまで来ると、市場の声は薄い。


 かわりに、廃都の外側が分かる。崩れた壁の向こう。使われていない道。人が通らないはずの斜面。


 ネアが荷物を下ろした。


 受け取りの男が礼を言い、硬貨を渡す。やり取りは短かった。


 帰ろうとした時、ネアの足が止まった。


 砂の上に、足跡があった。


 廃都の靴ではない。


 幅が少し細く、踵の跡が深い。ここで荷物を持った者の足でもない。立ち止まって、廃都を見下ろして、戻った跡。


(……誰だ)


 ネアはしゃがまなかった。


 足跡を踏まないように、少しだけ横へずれた。


『見るか?』


「見た」


『追うか?』


「仕事、終わった」


 それだけ言って、ネアは坂を下り始めた。


 追える。


 たぶん、地面に置いてもらえば少しは追える。


 でもネアは俺を出さなかった。


 俺も頼まなかった。


 風が、足跡の端を少し崩した。


 坂の下では、廃都が静かに広がっていた。


 市場の屋根。井戸の丸い縁。ヴェラの窯から上がる細い熱。フリンの家の戸口。タロが走ったあたりの、軽い足音の残り。


 見えているわけではない。


 地面が教えてくるだけだ。


 その中に、知らない重さが混じった跡があった。高台で止まり、街を見下ろし、何も買わず、何も運ばずに戻った足。


 旅人なら市場へ降りる。


 商人なら声を出す。


 物乞いなら水場へ寄る。


 その足跡は、どれでもなかった。


 ネアは坂を下りた。


 俺は、まだ少し高台に残っていた。


 石のくせに、気持ちだけ置いていかれることがある。


   ◆


 夕方の市場で、住人たちが水桶のそばに集まっていた。


「最近ここ、住みやすくなった気がする」


 誰かが言った。


「壁も落ちにくくなったしな」


「畑の端の豆、今年は育つかもしれん」


「水がいいからだろ」


「水だけで壁は直らんだろ」


 笑いが起きた。


 大きくはない。すぐに値段の話と、明日の荷の話へ混じっていく。


 ネアは水桶の横を通った。


 誰かが「ネアんとこも助かるだろ」と言った。ネアは片手を上げただけだった。


 俺は、その声の中に今朝の男の足音を探した。


 いない。


 ヴェラの窯の前にも、もういない。


 高台の足跡の主とも、たぶん違う。


 誰が話したのか。


 どこまで話したのか。


 声を飛ばせば、ヴェラには聞ける。市場のおじさんにも、タロにも。


 でも、聞かなかった。


 聞けば、ネアの仕事が増える。


 聞けば、誰かが「石様が知りたがってる」と言う。


 俺はポケットの中で黙っていた。


 市場の端で、ヴェラがパンを包んでいた。


 ネアが近づくと、いつもより紙を1枚多く重ねる音がした。


「余り」


「……買ってない」


「余りだからね」


 ヴェラはそれだけ言って、包みを置いた。


 ネアが受け取る。


 紙越しに、焼けた粉の温度が伝わる。少し硬い端のパン。子どもが喜ぶ真ん中ではない。でも、腹にはたまる。


「今朝の人」


 ネアが言った。


 ヴェラの手が止まった。


「客だよ」


「……どこの」


「城下町の方。たぶん」


 たぶん、の後ろに粉を払う音が入った。


「よく喋る人だったねぇ」


 それ以上は言わなかった。


 ネアも聞かなかった。


 俺も送らなかった。


 パンの包みだけが、ネアの手の中で少し沈んだ。


   ◆


 夜。


 ネアが俺を机の上に置いた。ランプを消す前、指先で表面を軽く拭く。


 水の匂いが少しした。


「……変だった」


『水か?』


「いろいろ」


 ネアはそれ以上言わなかった。


 布団が擦れる。寝息が、少しずつ小さくなる。


 家の外で風が流れた。


 北の方角に、古い杖の重さがあった。坂の上の家ではない。もっと離れた、壊れた石段の近く。


 グラン爺の声が、地面を通って薄く届いた。


「……そうか」


 誰に向けた声でもなかった。


「目覚め始めているか」


 杖が石を突いた。


 1回。


 それから、布の裾が風に鳴る。


「待ちわびていた」


 声はそこで切れた。


 少し遅れて、もう一つ。


「……350年」


 ネアは眠っていた。


 俺は何も送らなかった。


 北の高台では、昼の足跡が夜風に少しずつ埋まっていく。


(聞いたことに、しなかった)



廃都の話。


「聞いたことに、しなかった」


——変わっている途中。


俺は、黙れる石になってきた。

たぶん。


☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。

ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。


次回「ネアの誕生日たぶん」もよろしく。

覚えていない日もある。


——石より

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ