第25話「廃都が少し変わってきた」
井戸の水が、底まで見えた。
◆
朝。
ネアが釣瓶を引いた。縄が木枠をこすり、湿った音が井戸の中から上がってくる。
俺はポケットの中にいた。布越しの体温と、ネアの腕に移る重さ。そこへ、水の揺れが細く触れた。
(……軽いな)
水が軽い、というのも変な話だ。
でも、前はもっと沈んでいた。泥を混ぜたみたいに音が鈍く、桶の底に小さいざらつきが残った。今朝の水は、桶の板をたたく音がまっすぐ返ってくる。
ネアが手を入れた。
指先で水が割れた。冷たさが布越しに少しだけ伝わる。
「……冷たい」
『だな』
ネアは返事をしなかった。桶を持ち上げ、いつもの道へ歩き出す。
水は揺れた。
こぼれなかった。
井戸のそばでは、隣の家の女が桶を並べていた。
2つ。
前は4つ並んでいた気がする。朝のうちに汲んでおかないと、昼には泥が混じるからだ。今日は女が桶をのぞき込み、首をかしげ、それから1つを家の中へ戻した。
「これで足りるかね」
独り言みたいな声だった。
ネアは答えない。女も答えを待っていない。
ただ、井戸の周りにできる水たまりが小さかった。こぼれた水が、汚れた跡を作らずに石の隙間へ落ちていく。
落ちた先で、冷たさだけが残った。
◆
市場へ向かう道で、低い壁に荷袋の角が当たった。
音だけがした。
前なら、そこから欠けた石がぱらぱら落ちた。ネアが足を止め、拾うか避けるかを少し迷う場所だった。
今日は何も落ちない。
ネアは振り向かなかった。ただ、次の角を曲がる時に壁の近くを歩いた。
(試したな、今)
『ネア』
「なに」
『いや、別に』
「うるさい」
まだ何も言っていない。言っていないが、たぶん顔には出ている。石に顔はない。便利で不便だった。
石畳の隙間では、短い草が伸びていた。踏まれても倒れきらず、ネアの足音のあとでまた起きる。根が浅い草ではなかった。
廃都の地面が、少しだけ固くなっている。
そんな気がした。
◆
ヴェラの窯の前で、知らない男の声がした。
歩き方は軽い。靴底が薄くない。荷車を引く者の足ではなく、荷車を待たせる者の足だった。
「ほんとに水がきれいなんだな」
「買いに来たのはパンだろ」
ヴェラの声はいつも通りだった。粉を払う布の音が混じっている。
「いや、城下町のほうで聞いたんだよ。廃都の水が澄み始めたって」
ネアの足が少し遅くなった。
俺も、何も言わなかった。
「へえ」
ヴェラが笑う。
「誰がそんなこと言ったんだろうねぇ」
軽い笑い方だった。
でも、窯の火を動かす棒は止まっていた。薪が小さく爆ぜ、その音だけが妙に近い。
男には届いていないらしい。
「商人の集まりでな。最近、あっちの水よりいいんじゃないかって」
「そりゃ困るね」
「なんでだ」
「水だけ飲んで帰られたら、パンが売れない」
男が笑った。ヴェラも笑った。
ネアは通り過ぎた。
ポケットの上から、指が一度だけ俺を押さえた。
◆
市場の中は、少し騒がしかった。
タロが木箱を運んでいた。前より速い。箱の中身はたぶん芋だ。ごろごろと転がる重さが、足元から伝わってくる。
「ネア! 今日これ、持てるか」
「持てる」
「やっぱりな!」
何がやっぱりなのかは分からない。
ネアは箱を受け取った。タロは空いた両手を腰に当て、井戸の方角を見た。
「最近さ、かあちゃんが水を汲む回数、減ったんだ」
「……そう」
「でも足りてる。なんでだろうな」
俺は少し考えた。
水が澄んだ。
こぼれにくくなった。
土が吸いすぎない。
たぶん、そういう細かいことが重なっている。
説明しようと思えば、できた。
タロだけに声を届ける道も、今なら分かる。
でも、やめた。
タロは首をひねったまま、すぐ別の箱へ走っていった。
知らなくても、箱は運べる。
◆
昼前、ネアはフリンの家へ薬草を届けた。
扉の前に束を置く。いつものやり方だ。フリンが作業中の時、ネアは中へ入らない。
乳鉢の音がしていた。
乾いた薬草を擦る音ではなかった。湿った葉を潰し、底に残った汁の重さを確かめるような音。
「置いとく」
ネアが言った。
「助かるよ」
中からフリンの声が返った。
そこで、乳鉢が止まった。
「……地脈が」
ネアの手が戸板から離れる。
フリンは少し黙った。
「変わってきとるねぇ」
その声は、嬉しそうではなかった。
怖がってもいなかった。
針の先で布目を探すみたいな声だった。
「面白いじゃないかい」
ネアは返事をしなかった。
俺も返事をしなかった。
扉の内側で、フリンがもう一度乳鉢を回す。さっきより少しゆっくりだった。
戸の下から、薬草の匂いが流れてくる。
苦い草。
前はこの家の前を通るたび、その匂いが濃かった。病人の家から戻る足音も、ここで何度も止まっていた。
今日は、戸口に置かれた空の薬瓶が少ない。
ネアがそれを見たかは分からない。
ただ、薬草の束を置く時、紐の結び目を少しだけ直した。ほどけにくいように、指で押してから離す。
フリンの乳鉢が、また止まりかけた。
でも、今度は何も言わなかった。
◆
午後、ネアは北の高台へ荷物を運んだ。
坂道は乾いていた。砂が流れても、石畳の隙間にすぐ詰まる。足を滑らせるほどではない。
ここまで来ると、市場の声は薄い。
かわりに、廃都の外側が分かる。崩れた壁の向こう。使われていない道。人が通らないはずの斜面。
ネアが荷物を下ろした。
受け取りの男が礼を言い、硬貨を渡す。やり取りは短かった。
帰ろうとした時、ネアの足が止まった。
砂の上に、足跡があった。
廃都の靴ではない。
幅が少し細く、踵の跡が深い。ここで荷物を持った者の足でもない。立ち止まって、廃都を見下ろして、戻った跡。
(……誰だ)
ネアはしゃがまなかった。
足跡を踏まないように、少しだけ横へずれた。
『見るか?』
「見た」
『追うか?』
「仕事、終わった」
それだけ言って、ネアは坂を下り始めた。
追える。
たぶん、地面に置いてもらえば少しは追える。
でもネアは俺を出さなかった。
俺も頼まなかった。
風が、足跡の端を少し崩した。
坂の下では、廃都が静かに広がっていた。
市場の屋根。井戸の丸い縁。ヴェラの窯から上がる細い熱。フリンの家の戸口。タロが走ったあたりの、軽い足音の残り。
見えているわけではない。
地面が教えてくるだけだ。
その中に、知らない重さが混じった跡があった。高台で止まり、街を見下ろし、何も買わず、何も運ばずに戻った足。
旅人なら市場へ降りる。
商人なら声を出す。
物乞いなら水場へ寄る。
その足跡は、どれでもなかった。
ネアは坂を下りた。
俺は、まだ少し高台に残っていた。
石のくせに、気持ちだけ置いていかれることがある。
◆
夕方の市場で、住人たちが水桶のそばに集まっていた。
「最近ここ、住みやすくなった気がする」
誰かが言った。
「壁も落ちにくくなったしな」
「畑の端の豆、今年は育つかもしれん」
「水がいいからだろ」
「水だけで壁は直らんだろ」
笑いが起きた。
大きくはない。すぐに値段の話と、明日の荷の話へ混じっていく。
ネアは水桶の横を通った。
誰かが「ネアんとこも助かるだろ」と言った。ネアは片手を上げただけだった。
俺は、その声の中に今朝の男の足音を探した。
いない。
ヴェラの窯の前にも、もういない。
高台の足跡の主とも、たぶん違う。
誰が話したのか。
どこまで話したのか。
声を飛ばせば、ヴェラには聞ける。市場のおじさんにも、タロにも。
でも、聞かなかった。
聞けば、ネアの仕事が増える。
聞けば、誰かが「石様が知りたがってる」と言う。
俺はポケットの中で黙っていた。
市場の端で、ヴェラがパンを包んでいた。
ネアが近づくと、いつもより紙を1枚多く重ねる音がした。
「余り」
「……買ってない」
「余りだからね」
ヴェラはそれだけ言って、包みを置いた。
ネアが受け取る。
紙越しに、焼けた粉の温度が伝わる。少し硬い端のパン。子どもが喜ぶ真ん中ではない。でも、腹にはたまる。
「今朝の人」
ネアが言った。
ヴェラの手が止まった。
「客だよ」
「……どこの」
「城下町の方。たぶん」
たぶん、の後ろに粉を払う音が入った。
「よく喋る人だったねぇ」
それ以上は言わなかった。
ネアも聞かなかった。
俺も送らなかった。
パンの包みだけが、ネアの手の中で少し沈んだ。
◆
夜。
ネアが俺を机の上に置いた。ランプを消す前、指先で表面を軽く拭く。
水の匂いが少しした。
「……変だった」
『水か?』
「いろいろ」
ネアはそれ以上言わなかった。
布団が擦れる。寝息が、少しずつ小さくなる。
家の外で風が流れた。
北の方角に、古い杖の重さがあった。坂の上の家ではない。もっと離れた、壊れた石段の近く。
グラン爺の声が、地面を通って薄く届いた。
「……そうか」
誰に向けた声でもなかった。
「目覚め始めているか」
杖が石を突いた。
1回。
それから、布の裾が風に鳴る。
「待ちわびていた」
声はそこで切れた。
少し遅れて、もう一つ。
「……350年」
ネアは眠っていた。
俺は何も送らなかった。
北の高台では、昼の足跡が夜風に少しずつ埋まっていく。
(聞いたことに、しなかった)
廃都の話。
「聞いたことに、しなかった」
——変わっている途中。
俺は、黙れる石になってきた。
たぶん。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「ネアの誕生日」もよろしく。
覚えていない日もある。
——石より




