第24話「念話の射程が伸びた」
朝の廃都が、近かった。
◆
ネアが戸を閉めた。
木の板がきしみ、指が離れ、鍵の金具が小さく鳴る。そこまでは、いつもと同じだった。
俺はネアのポケットの中にいた。布の暗さ。体温。歩き始める前の、短い静けさ。
その奥で、地面が広がっていた。
(……あれ)
市場の方角で、荷車の車輪が石畳を噛んだ。雑貨屋の裏で木箱が置かれた。坂の下の水場では、桶が井戸端に当たった。
全部が、近い。
ネアはまだ家の前に立っている。歩いていない。それなのに、廃都のあちこちが、俺の中に触れていた。
(いや、待て。俺、今どこまで聞いてる)
ポケットの中の石が、街の音に囲まれていた。
動いていないのに。
◆
ネアが歩き出した。
足音が地面へ落ちる。そこから、細い線が伸びるように振動が渡った。昨日までなら、ネアの周りだけで終わっていた感覚が、今日は角を曲がっても途切れない。
市場の入口。パン屋の窯。フリンの家。タロの家の前。
廃都全体の地図が、頭の中ではなく、石の奥に沈んでいた。
(……ほぼ、分かるな)
道の幅。崩れかけた壁の重さ。人がよく通る場所の、石畳の薄さ。昨日、石喰いが見ていた石垣の隙間も、まだ少しだけ分かった。
その奥で、動かない小さな重さがあった。
(まだいるのか、お前)
石喰いはたぶん寝ている。たぶん。獣の寝方に詳しい石ではないので、断言はしない。
ネアの指が、ポケットの上を一度押さえた。
「……うるさい」
『まだ何も言ってない』
「言いそう」
『読まれてる』
ネアは答えなかった。歩く音だけが返ってきた。
◆
市場に近づくにつれて、人の音が増えた。
でも、咳は少なかった。
少し前まで、朝の市場には咳が混じっていた。軽いもの、苦しそうなもの、無理に止めたもの。タロが倒れた頃は、地面の上を歩く音より、胸の奥から引っかかる音のほうが目立つ時さえあった。
今日は、違った。
フリンの家から、乳鉢を擦る音が届いていた。急いで薬草を潰す音ではない。均した粉を、確かめるような遅さだった。
水場の桶の数も落ち着いている。
市場の端で、誰かが笑った。途中で咳き込まなかった。
(……戻ってきてる)
俺の水だけじゃない。フリンの薬。寝込んだ人を運んだ手。井戸の前で順番を譲った足。街の中で、たぶん、そういう小さいものが重なった。
俺は半分だけ澄ませた。
半分だけ。
残りを、街がやった。
ネアが市場の入口で立ち止まった。
タロの声が飛んできた。
「石様! 今日もよろしく頼む!」
元気だった。
咳はなかった。
ネアはそちらを見た、たぶん。ポケットの布がほんの少し動いた。
「……元気」
『だな』
「うるさいけど」
『それは元からだな』
◆
雑貨屋の裏手で、ネアは木箱を並べた。
乾物。塩。薬草の束。小さい布袋。頼まれた分だけを、黙って仕分けていく。
俺は地脈の広がりを、少しずつ確かめていた。
念話の感覚も、違っていた。
ネアに向ける時は、今まで通り細い。短く、まっすぐ届く。けれど、周りへ広げようとすると、地面の線が勝手に声を運びそうになる。
(……どこまで届く)
思っただけだった。
思っただけのつもりだった。
『おはよう』
声が出た。
◆
「え」
雑貨屋の店主が止まった。
「えっ」
市場のおじさんも止まった。手に持っていた籠が、膝の横で揺れた。
「ん?」
パン屋のヴェラの声が、少し離れた窯の方角から返ってきた。
「石様?」
タロまで反応した。
遅れがなかった。
4つの足音が、同じように止まった。市場の流れの中で、そこだけ薄く凹んだ。
(……やった)
いや、やってしまった。
ネアの手が止まった。塩の小袋を持ったまま、しばらく動かなかった。
「誰か言ったか?」
「今、声、したよね」
「朝の挨拶じゃないの」
「誰の」
ヴェラが笑った。笑い方は軽かったが、窯の前から動かない。タロは市場の角で、何かを探すように足を踏み替えていた。
ネアが小袋を籠に入れた。
静かな音だった。
『……ネア』
「……」
『今の、俺だ』
「知ってる」
返事が短い。
かなり短い。
◆
市場のおじさんが、ゆっくり首を回した。
「今の、誰だ」
怒ってはいなかった。寝起きに戸を叩かれた時の、少しだけ間の抜けた声だった。
「あんたじゃないの」
隣の女が言った。
「俺が自分におはようって言うか」
「言いそう」
「言わねえよ」
市場の端で笑いが起きた。小さい笑いだった。すぐに野菜の値段を聞く声に紛れた。
それでも、地面は戻りきらなかった。
さっき声が届いた場所だけ、足音が薄く残っている。店主は戸口で一度、空を見た。ヴェラは窯の前から、こちらの方角をまだ少しだけ向いていた。タロは祈る姿勢のまま、口だけ閉じている。
俺の声が、地面に引っかかったみたいだった。
(……まずいな)
声は軽い。
けれど、軽いものほど、変な場所まで転がる。
ネアが塩の小袋をもう1つ籠へ入れた。指は乱れていない。乱れていないが、ポケットに触れる時だけ、少し強かった。
『悪い』
「……あとで」
短い。
あとで怒られるやつだ。
石の身で逃げ場がないのは、こういう時に不利だった。
◆
市場はすぐに動き直した。
人は忙しい。謎の声がしても、籠は運ばないといけないし、パンは焦げるし、塩は売れる。誰かが首をかしげ、誰かが笑い、誰かが「寝不足だな」と言った。
それで終わりになりかけた。
なりかけた、だけだった。
タロが近づいてきた。
足音がまっすぐだった。迷っていない。
「ネア」
「……何」
「今の、石様?」
ネアは乾物の包みを持ち直した。
「知らない」
早い。
即答だった。
「でも、石様っぽかった」
『石様っぽい声とは』
ネアの指がポケットを押した。
「知らない」
2回目の知らないだった。強い。
タロはしばらく黙った。それから、声を少し落とした。
「元気だった」
俺は何も言えなかった。
ネアも言わなかった。
タロはそれだけで満足したらしい。走って市場の角へ戻っていった。足音の跳ね方が、前より軽かった。
遠くでまた声がした。
「石様! ありがとな!」
今度は、俺は返さなかった。
◆
昼過ぎ。
ヴェラがパンの包みをネアに渡した。
「さっきの声さ」
ネアが受け取る手を止めた。
「変だったねえ」
「……うん」
「でも、嫌な感じはしなかったよ」
ヴェラはそれ以上言わなかった。粉のついた手で、エプロンの端を払う。
「最近、変なことばっかりだ。水は澄むし、咳は減るし、石喰いは市場の隅で寝るし」
(最後のは俺のせいじゃない)
たぶん。
石垣の隙間の重さは、まだ動かなかった。寝ているのか見張っているのか、どちらでも面倒だった。
ネアがパンの包みを抱え直した。
「……変なの、嫌?」
ヴェラは少し黙った。
「困る時もあるね」
軽い声だった。
けれど、足は止まったままだった。
「知らない声が、どこからでもするようになったら、あたしは少し困る」
ネアの指が、包みの紙を押した。
「……うん」
俺は何も言わなかった。
言える範囲が広がったのに。
ヴェラはパンをもう1つ紙に包んだ。余りだよ、と言う前に、ネアの手元へ置いた。
「子どもらは喜ぶだろうけどね。声がするのは」
窯の火が小さく鳴った。
「でも、大人は、探すから」
誰が言ったか。
どこから来たか。
何に使えるか。
ヴェラはそこまでは言わなかった。言わなかったのに、足元の重さだけで十分だった。
ネアがパンを受け取った。
「……ありがと」
「うん」
ヴェラは笑った。今度の笑いは、さっきより少しだけ薄かった。
◆
夕方、帰り道。
市場の音が後ろへ離れていく。人の足音、木箱のこすれる音、ヴェラの窯の薪が爆ぜる音。タロの声も、まだ届いていた。
「石様! 明日も頼むからな!」
届く。
たぶん、返せる。
タロだけに。ヴェラだけに。市場のおじさんにも、雑貨屋の店主にも。
廃都の地図は、俺の中でほぼつながっていた。声を走らせる道も、分かる。間違えなければ、誰かの耳元にだけ置けるかもしれない。
でも、やめた。
届く道が分かるほど、置いてはいけない場所も分かる。
朝より、そこだけはっきりしていた。
たぶん、遅いくらいに。
ネアの仕事を難しくする。
ヴェラを困らせる。
タロを、もっと大きな声にする。
石は、動かない。
声まで動かさなくていい時がある。
ネアが歩きながら、小さく言った。
「……またやった」
『悪い』
「……次は」
そこで止まった。
『次は?』
「考えて」
『はい』
敬語になった。石としての反省である。
ネアの足音が少しだけ跳ねた。笑ったのかもしれない。違うかもしれない。
◆
(届くけど、送らない)
*【第24話 了】*
念話の射程の話。
「届くけど、送らない」
——広がったあと。
俺は、少し考えた。
石にしては。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「廃都が少し変わってきた」もよろしく。
だんだん、変わっているらしい。
——石より




