第23話「石喰いその2」
市場の朝は、木箱の底が石畳をこする音から始まった。
ネアが荷物を降ろす。紐が肩から外れ、袋が腰に当たり、俺の入ったポケットが少しだけ沈む。乾いた葉の束が布の上へ移され、小皿に種が落ちた。
いつもの音だ。
その下に、小さく硬いものが混じった。
カタ。
俺はポケットの奥で黙った。黙ったところで石であることは隠せないが、気持ちの問題だった。
『ネア』
「……いる」
言う前から分かっていたらしい。できれば「いない」と言ってほしかった。
カタ。
もう一度、硬い音がした。近い。けれど、前みたいに一直線ではない。石畳を叩いて、止まって、少し横へずれる。食べたいものへ飛びつく音ではなく、置き場所を測っている音だった。
石喰いだ。
石を食う魔物。小さい。硬い。懲りない。前に会った時、俺のことを食料欄に入れたまま、たぶん帳簿を閉じていない。
ネアは薬草の束を木箱の上へ戻した。
仕事をやめた、というほど大げさではない。濡らしたくないものを先に上げただけだ。その生活に近い判断が、妙に頼もしい。
カタ。
音が近づいた瞬間、ネアの足が半歩だけ引いた。ポケットが逃げる。外で何かが空を切り、木箱の脚へ当たった。
カチン。
前なら、そこでまた跳ねてきた。
今日は違った。
木箱の反対側で、もう一つ、カタ、と鳴った。
『……増えてないか』
「二つ」
短い報告はよく刺さる。
カタ、カタ。
左右から音が寄ってくる。片方が鳴ると、もう片方が止まる。近いほうへネアの足が向くと、遠いほうが少し動く。単純な突撃ではない。明らかに手順がある。
(こいつ……頭いいのか)
石を食うためにそこまで考えないでほしい。
◆
石喰いの片方が跳ねた。
ネアの靴の先が軽く当たり、硬いものが横へ転がる。転がった先で、もう一つが待っていた。
カツン。
ぶつかった。
仲間同士で。
少し間が空いた。市場のざわめきが、その間を普通に通り過ぎていく。値切る声。荷車の車輪。誰かが木箱を引きずる音。世界は石喰いの作戦会議を待ってくれない。
『今のは作戦か』
「失敗」
ネアが淡々と言った。
石喰いはすぐ起きた。失敗を失敗として受け止める機能は薄いらしい。
カタ。
今度はまっすぐ来ない。
ひとつが木箱の下へ入った。もうひとつは遠ざかる。遠ざかる音がわざとらしく大きい。誘っている、と言っていいのかもしれない。
ネアは誘われなかった。
小皿を箱の上に置き、空いた手でポケットの口を押さえる。俺の位置が少し高くなった。布の向こうでネアの体温が近い。
木箱の下から、急に硬い音が跳ねた。
カチン。
ネアの膝がほんの少し逃げる。石喰いはポケットに届かず、箱の角に当たって落ちた。そこへ、遠ざかっていたほうが戻ってくる。
なるほど。
おとりと待ち伏せだ。
石を食う魔物のくせに、急に狩りみたいなことを始めた。こちらはただの石で、しかもポケット入りである。狩猟対象としての態度を改めてほしい。
◆
ネアは布袋の口を結んだ。
それから、欠け石を一つ取り出した。井戸の脇で拾っていた小さな石だ。俺ではない。そこは大事だ。
欠け石が石畳へ転がる。
カツン。
石喰いの音が止まった。
市場の音だけが戻る。荷車の車輪、布を広げる音、遠くの笑い声。石喰い二つ分の硬い気配が、欠け石と俺の間で迷っている。
『それでいいのか』
「石」
『俺も石だが』
「違う」
短い地位向上だった。ありがとう、と言うには外がまだ騒がしい。
石喰いの片方が欠け石へ寄った。カタ、カタ、と近づいて、止まる。もう片方は木箱の脚から離れない。そちらは俺の入ったポケットを諦めていない。
分担している。
嫌な成長だった。
ネアは二つ目の欠け石を出した。今度は足もとではなく、少し遠くへ転がす。
カツン。
遠いほうの石喰いが動いた。
近いほうは動かない。
ネアは少し考えたらしい。呼吸が一つ、ポケットの外で止まる。次に、木箱の上に置いていた空の小皿を手に取った。
小皿が石畳へ伏せられる。
カン、と薄い音がした。
木箱の下にいた石喰いが、そこへ跳ねた。皿の縁に当たり、弾かれ、転がる。ネアの靴の先がその進路を変えた。
カチン。
欠け石のほうへ。
もう一つの石喰いも戻ってきて、二つの硬い音が小皿の周りで迷子になった。食べたい石はある。けれど、俺ではない。皿が邪魔で、木箱が邪魔で、ネアの足が静かに邪魔だった。
『罠に罠を置いたのか』
「置いただけ」
勝利宣言の温度ではなかった。
ネアは薬草の束を整え、こぼれた種を拾った。石喰いが真剣に位置取りをしている横で、朝の仕事が普通に再開する。
普通のほうが強いこともある。
ただし、俺がそれを言うと少し負けた気がする。石喰いと普通を比べる日が来るとは思わなかった。
◆
しばらくして、二つの音が離れた。
カタ。
カタ。
欠け石の近くから、市場の端へ。荷車の車輪があまり通らない石畳のあたりで止まる。逃げるには遅く、近づくには遠い。そこからこちらへ向いたまま、硬い沈黙が続いた。
『勝ったのか』
「勝ってない」
ネアは木箱の位置を直した。
「追い払っただけ」
追い払われた側は、追い払われた顔をしていなかった。顔があるかは知らない。けれど音の向きが、まだこちらへ残っている。
ネアは欠け石を一つ拾い、布袋へ戻した。もう一つは地面に残す。
『それ、置いていくのか』
「おとり」
おとりと言われた欠け石は何も答えない。石だからだ。俺も石だが、俺はかなり答えているほうだと思う。
遠くで、カタ、と鳴った。
欠け石のほうではない。
こちらのほうだ。
ネアは何も言わなかった。荷物の紐を肩にかけ、ポケットの口を軽く押さえ、市場の人の流れに合わせて一歩だけ引いた。
石喰いも動いた。
近づかない。逃げない。ただ、こちらと同じ分だけ距離を保つ。前より遠く、朝より静かで、けれど音の向きは変わらない。
食べるのを諦めた音ではなかった。
俺はポケットの底で、布越しの揺れを聞いていた。
(諦めてないな)
「勝ってない」
——置いただけ。
俺は、食べ物ではない。
たぶん、まだ分かってもらえていない。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「念話の射程が伸びた」もよろしく。
声の届き方が、少し変わるらしい。
——石より




