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転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく  作者: シラフ


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第20話「ヴェラのパン屋の話」


朝のパン屋は、まだ開ききっていなかった。


市場の入口から少し奥。石壁に掛かった木の看板が、風で小さく鳴っていた。文字は削れている。読めるかどうかは、俺には分からない。


ただ、そこにあることだけは分かった。


古い釘の軋み。

窯の奥で薪が沈む音。

粉を払う手の、乾いた音。


「ネア、おはよう」


ヴェラの声だった。


ネアが店に入ると、足元の石床が少し温かくなった。窯の熱が、床を通っている。


ポケットの中の俺にも、じんわり届いた。


(パン屋の床って、石にも優しいんだな)


言わなかった。


   ◆


「いつもの」


ネアがそう言うと、ヴェラは「あいよ」と返した。


粉のついた手が、紙を広げる。


パンが置かれた。


1個。

2個。


そこで、手が止まった。


外から、タロの声がかすかに流れてきた。


「石様! 今日もよろしく!」


(まだやってるな、あいつ)


昨日より声が軽い。咳は混じっていなかった。


ヴェラも聞こえたらしい。少しだけ笑った。


「元気そうだねえ」


「うん」


ネアは短く答えた。


ヴェラの手が、もう1度動いた。


紙の上に、パンがもう1個、置かれた。


音は小さかった。けれど、紙の沈み方が違った。ネアの手に渡る前から、包みの重さが変わった。


(……増えた)


ネアは硬貨を出した。いつもの枚数だった。


ヴェラは何も言わずに受け取った。硬貨がエプロンの内側に落ちる音がした。


ネアも何も言わなかった。


気づいていない。


たぶん。


   ◆


ネアが包みを持って出ようとした時、ヴェラが呼び止めた。


「ネア」


ネアが足を止めた。


「ちょっと聞いていくかい。焼けるまで、まだ少しあるし」


何が焼けるのかは分からなかった。店の奥では、別の生地が窯に入っているらしい。膨らむ音なんて聞こえない。ただ、熱の重さだけが床に残っていた。


ネアは戻らなかった。


でも、出ても行かなかった。


それで十分らしかった。


ヴェラは椅子に腰を下ろした。木の脚が石床をこすった。


「あたしね、若い頃は、城下町に住みたかったんだよ」


ネアは何も言わない。


「あっちは店が明るくてね。窓が大きい。パンも白い。棚も真っ直ぐ。床なんか、毎朝磨いてある」


ヴェラが笑った。


「ここは、雨が降ると入口がぬかるむし、看板は読めないし、窯は時々すねる」


窯の奥で、薪がぱち、と鳴った。


「ほらね」


ヴェラが窯の方へ顎を向けた。


ネアは見ていた。たぶん。俺には視線は分からない。でも、足が動いていない。


「1回だけ行ったんだ。城下町。若い頃にね」


ヴェラの声が、少しだけ遠くなった。


「きれいだったよ。何もかも。人まで、きれいに歩くんだ」


紙袋を整える音がした。


「でも、帰ってきた」


ネアの指が、包みを持ち直した。紙が、かすかに鳴った。


「なんでだろうね」


ヴェラは、答えを待つ声ではなかった。


店の外で荷車が通った。車輪が、割れた石畳を踏んで跳ねる。


廃都の道は、まっすぐじゃない。欠けて、沈んで、ところどころ雨水を抱えている。


それでも人の足音は、毎朝ここへ戻ってくる。


パンの匂いも。

荷車の音も。

タロの変な祈りも。


戻ってくる。


「今は、ここが一番いいよ」


ヴェラが言った。


「なんでだろうね」


同じ言葉だった。


今度は、窯の音がしなかった。


   ◆


ネアはしばらく立っていた。


包みを抱えたまま。


ヴェラも、それ以上は言わなかった。


説明する気がない人の沈黙だった。


(……聞くなよ)


俺は思った。


なぜか、そう思った。


ネアは少しだけ口を開いた気配があった。声になる前の、喉の小さな動き。


でも、出たのは短かった。


「……そっか」


ヴェラが笑った。


「そっか、だね」


それで終わった。


ヴェラはまた立ち上がり、窯の前に戻った。布巾を取って、棚の端を拭いた。もう拭かなくてもいい場所だった。


ネアは店を出た。


外の市場の音が、すぐに近くなった。


   ◆


昼前、市場。


ネアは荷物運びをしていた。パンの包みは布袋の奥に入っている。袋がいつもより少し重く揺れていた。


タロの声が遠くから来た。


「石様、今日もよろしく!」


その後に、小さい子の声が続いた。


「パンください」


(だから用途が違う)


ネアの足は止まらなかった。


昨日は少し硬かった足音が、今日は市場の音に混じっていた。石畳を踏む重さも、荷物を担ぎ直す動きも、いつもの仕事の中に戻っている。


でも、戻りきってはいなかった。


ヴェラの声が残っていた。


なんでだろうね。


俺の中にではない。


廃都の音の中に。


割れた石畳の奥で、低く残っている感じがした。地面に置かれているわけじゃない。ポケットの中から遠くを聞けるはずもない。


だから、感知ではない。


ただ、同じ言葉を、あちこちの音が持っている気がした。


城下町の話を聞いた後なのに、市場のざわめきは少しも負けていなかった。


野菜を並べる音。

鍋を叩く音。

誰かが値切って、店主が雑に笑う声。


きれいではない。


でも、離れにくい。


市場の端では、壊れた桶を直している男がいた。釘を打つ音が、3回続いた。少し間が空いて、もう1回。


「まだ使えるだろ」


誰かがそう言った。


捨てるには、早い。


たぶん、この街はそういう音でできている。


欠けたものを、欠けたまま使う音。

足りないものを、誰かが少し足す音。


パンが1個多いのも、その中に混じっていた。


(……これ、引力か)


石のくせにそんなことを考えた。


まあ、石は転がるものだしな。


俺は動けないけど。


   ◆


昼過ぎ、石垣の端。


ネアは仕事の合間に座った。布袋から包みを出し、紙を開く。


パンが3個あった。


ネアは1個取った。半分齧った。


咀嚼の音が、胸の奥から伝わる。温かさはもう抜けていたが、窯の匂いは残っていた。


ネアは残りを紙に戻した。


数えなかった。


本当に、数えなかった。


(1個多いぞ)


言える。


念話なら届く。


ネアはたぶん、少し止まる。それからヴェラの店へ戻るかもしれない。返すかもしれない。礼を言うかもしれない。言わないかもしれない。


どれも、違う気がした。


だから言わなかった。


ネアは紙をたたんだ。いつものように布袋へ入れた。


袋の口を結ぶ手つきが、少しだけ丁寧だった。


気づいていないのか。


気づかないふりなのか。


俺には、分からない。


   ◆


夕方、パン屋の前。


ネアは帰り道で、もう1度そこを通った。


ヴェラは店の外にいた。椅子に座って、湯気の立つ茶碗を両手で持っている。


「おかえり」


ヴェラが言った。


ネアは足を止めなかった。ただ、片手を少し上げた。


「うん」


ヴェラはそれ以上、呼ばなかった。


煙が横に流れて、市場の方へ伸びていく。


その煙の下を、子どもたちが走った。タロの声が混じっていた。


「こら、パンは自分で買え! 石様に頼むな!」


(お前が言うな)


ヴェラが笑った。


ネアの肩も、ほんの少しだけ下がった。


笑ったのかもしれない。


違うかもしれない。


   ◆


夜。


家に戻ると、ネアは机に包みを置いた。


俺もポケットから出された。机の上。いつもの場所。


紙が開かれる。


パンは2個と半分、残っていた。


昼に半分食べたなら、合っている。


でも、朝の値段とは合っていない。


ネアはしばらく紙の上を見ていた。


指が伸びた。


1個を持ち上げる。


戻す。


もう1個に触れる。


やめる。


紙をたたんだ。


戸棚にしまった。


戸棚の扉が、少しだけ軋んだ。


『多かったな』


そう送ることはできた。


送らなかった。


ネアは水を飲んだ。木の杯を置く音がした。外では、まだ市場の片づけの音が残っている。


遠くで、タロが叫んだ。


「石様! 明日もよろしくな!」


ネアはその方向を見た。


長くはない。


それから、戸棚の方を見た。


たぶん。


俺には視線は分からない。


分かるのは、指の温度だけだ。寝る前、ネアが俺をポケットに戻した時、布越しの指が少し温かかった。


ヴェラの店の煙の匂いが、まだ袋に残っていた。


ネアは何も言わなかった。


(1個、多かった)


ヴェラのパン屋の話。「今は、ここが一番いいよ」


——なんでだろうね。


俺は、パンを食べられない。でも、重くなった袋は分かる。


☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。

ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。


次回「リコ登場」もよろしく。小さい声が増えるらしい。

——石より

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