第21話「リコの家」
「きれい」
下から声がした。
◆
朝の市場は、まだ木箱の音が多かった。
ネアが荷物を下ろす。野菜の入った籠を受け取り、別の店先まで運ぶ。戻って、また別の荷物を持つ。
俺はポケットの中で揺れていた。
足音。車輪。布を払う音。遠くでタロの声。
「石様! 今日もよろしく!」
(続いてるな)
俺は何もしていない。
その声の周りに、子どもの足音が増えていた。
その中の一つが、ネアの近くまで来た。砂を踏むたび横へずれる、まだ少し下手な足音。
ネアが振り向いた。
小さい子が立っていた。
6つか、7つくらい。髪はところどころ跳ねていて、頬に乾いた土がついていた。服の裾が片方だけ長い。直した跡はあるが、糸が出ていた。
リコ。
最近、タロのお祈りの後ろに混ざるようになった子だった。
リコはネアを見ていなかった。
ネアのポケットを見ていた。
「きれいな石」
そう言って、手を伸ばした。
◆
「触らない」
ネアが言った。
声は短かった。
でも低くなかった。
リコの手が止まった。指先が、ポケットの少し手前で宙に残った。
(……お前)
俺は思った。
(今の声、どこにしまってたんだ)
ネアは答えなかった。念話でも何も返さない。
リコが手を引いた。怒られた顔ではなかった。むしろ、少しだけ目が丸くなっていた。
「これ、ネアの?」
「そう」
「しゃべる?」
「しゃべらない」
(おい)
即答だった。
市場の人混みが横を流れていく。魚の匂いと、焼けたパンの匂いが混じっていた。
リコはまだポケットを見ていた。俺の何がきれいなのかは分からない。
ネアが荷物を持ち直した。
「ばあちゃんは」
「寝てる」
リコがすぐ答えた。
ネアの手が、一度だけ止まった。
「ごはんは」
「あとで」
「……そう」
それ以上、聞かなかった。
リコは、ネアの服の端をつまんだ。
ほんの少しだけ。
ネアは振り払わなかった。
◆
仕事が始まった。
ネアが荷を運ぶ。リコがついてくる。
近すぎると、ネアが立ち止まる。リコも止まる。少し離れる。ネアが歩き出す。リコも歩く。
面倒な歩き方だった。
ネアは何も言わない。
ただ、角を曲がる前に、いつもより少しだけ遅くなる。荷車が通る時、リコが道の内側へ入るまで、足を止める。
(ネア)
『なに』
(お前、子ども好きだろ)
『……別に』
早い返事だった。
早すぎた。
ネアが木箱を2つ重ねて運ぶ。リコが後ろから「すごい」と言った。
次に持つ箱は、1つだった。
(好きだろ)
『うるさい』
念話の音が、少しだけ尖った。
リコが石畳の欠けたところでつまずいた。
ネアが振り返る。手を出しかけて、出さなかった。
リコは自分で立ち直り、少し得意そうにした。
ネアがまた歩いた。
(今、助けようとしたな)
『してない』
リコがその横で、ネアの歩幅に合わせようとしていた。何度も小走りになって、また遅れる。
市場の声は大きい。
けれど、その小さい足音だけが、ずっと近くに残っていた。
◆
昼になった。
ネアは市場の端の石垣に腰を下ろした。
日が壁に当たって、石が少し温まっていた。
リコは隣に座ろうとして、少しよじ登った。ネアは見ていた。手は出さなかった。
ネアは布の袋を開けた。
ヴェラのパン。
昨日より、袋の重さが少し違っていた。ネアが気づいているのかは分からない。
パンを一つ出して、半分齧る。
残りを紙に戻そうとして、止まった。
リコは見ていた。
欲しいとは言わなかった。
ただ、口を少し開けて、パンを見ていた。
ネアが紙ごと差し出した。
「いる?」
リコが頷いた。
両手で受け取った。大きく齧った。頬がふくらんだ。
パン屑が一つ、膝に落ちた。リコはそれを拾って、また口に入れた。
ネアの食べる速度が遅くなった。
リコがパンを噛み終えて、ネアのポケットをまた指差した。
「石、食べる?」
(食べない)
ネアの口元が、ほんの少し動いた。
「食べない」
「おなか、すかない?」
「すかない」
「いいな」
リコが本気の声で言った。
ネアは何も言わなかった。
紙をたたむ音だけがした。
◆
午後、リコはまだついてきた。
タロたちの声が遠くでしていた。
「こっち来いよ、リコ!」
リコはそちらを見た。
でも行かなかった。
ネアの服の端をまたつまむ。今度は少し強かった。
ネアの肩の位置がいつもと違う。歩き出して、止まって、また歩き出す。荷物を持つ時も、片側を少し空ける。
(ネア)
『なに』
(リコが俺に懐くの、本当はどう思ってる?)
返事はなかった。
ネアは荷物を店先に置いた。店主が礼を言う。
リコが俺を見たまま、小さく笑った。
「きれい」
また言った。
ネアがリコを見た。
それから、ポケットの上から俺を軽く押さえた。
そこにいるか確かめるみたいな触り方だった。
(……今のは何だ)
『別に』
返事が少し遅かった。
◆
夕方。
市場の木箱が片づき始めた。
ネアの仕事も終わった。リコはまだいた。
「帰りな」
ネアが言った。
「ばあちゃん、寝てる」
「起きてるかも」
「寝てる」
リコは首を横に振った。
タロたちはもう別の路地に消えていた。祈りの声も、今は聞こえない。
「家、どっち」
リコが指差した。
古い壁の影が続くほうだった。
ネアが小さく息を吐いた。
「行く」
リコが笑った。
ネアは手をつながなかった。
リコも、つなごうとはしなかった。
ただ、服の端をつまんだまま、後ろを歩いた。
◆
ヴェラの店の前を通った。
窯の火は落ちかけていた。ヴェラが椅子に座り、ネアとリコを見た。
目尻に皺が寄った。
「あいよ」
何に対する「あいよ」なのかは分からなかった。
ネアが片手を上げた。
リコは振らない。口元に、まだ小さい粉が残っていた。
ヴェラは何も言わなかった。店の奥へ目をやって、また2人を見た。
ネアは振り返らなかった。
路地に入ると、市場の音が少し薄くなった。
石畳の隙間に砂がたまっている。壁の下のほうが割れていた。
リコの足音が近い。
近すぎる。
ネアが少しだけ横へずれた。道の穴を避ける位置だった。
リコも同じようにずれた。
リコはネアの歩き方を真似していた。
小さな家の前で、リコが止まった。
屋根が傾いている。窓の布は閉じていた。中の音は少ない。
寝息のようなものが、奥でかすかに聞こえた。
ネアが戸を見た。
「ばあちゃん」
リコが言った。
「うん」
ネアはそれだけ返した。
戸を叩かなかった。
中へ声もかけなかった。
リコの頭に手を置く。
本当に短く。
置いたというより、触れて、すぐ離した。
「また明日」
リコが何度も頷いた。
それから、ネアのポケットを指差した。
「石のおじさんも」
(……は?)
ネアがポケットの上から俺を見た。
それからリコを見た。
口角が、少し上がった。
「うん」
リコが笑った。
「石のおじさん」
(おじさん?)
(石だが?)
ネアは何も返さなかった。
リコは家の中へ入った。戸が閉まる。薄い木の音だった。
ネアはしばらく戸を見ていた。
俺をポケットの上から、もう一度だけ押さえた。
何も言わなかった。
◆
夜。
家に戻ってから、ネアは俺を机の上に置いた。
水を飲んだ。杯の底に少し残した。
パンを出す。紙を開く。残りは、いつもより少なかった。
ネアはそれを見ていた。
足りないとは言わなかった。
パンを半分に割り、片方を戸棚にしまった。もう片方を食べた。
ランプの火が小さく揺れる。
(ネア)
『なに』
(俺、おじさんらしい)
『うん』
(否定しろ)
『石のおじさん』
(おい)
ネアは少しだけ口元を緩めた。
声には出さなかった。
外で、戸の閉まる音がした。遠くからタロの声が一度だけ聞こえた。
ネアがランプを消す。
部屋が暗くなる。
ポケットに戻される前、ネアの指が少しだけ止まった。
それから俺を拾った。
(きれいな石)
(石のおじさん)
名前ではないものが、また増えたらしかった。
*【第21話 了】*
リコ登場。
「石のおじさん」
——おじさん。
俺は、まだ納得していない。石だが。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「ダン爺さん」もよろしく。また変な呼び方が増えるかもしれない。
——石より




