第21話「リコの家」
廃都の朝は、たいてい足音から始まる。
石畳を踏むネアの靴。布のこすれる音。ポケットの底で、俺はいつも通り揺られていた。移動しているのはネアで、俺は運ばれているだけだ。そこは今さら確認するまでもない。
今日は、その足音にもうひとつ混じっていた。
軽い。短い。時々、跳ねる。
ネアの後ろを、誰かがついてきている。
「ネア」
声も軽かった。
「ねえ、ネア」
ネアは返事をしない。けれど歩幅だけ少し落ちた。分かりやすい。返事をしない返事というものが、この少女にはある。
俺のいるポケットの布が、ネアの体の動きに合わせて小さく沈む。振り返ったのだろう。視界はないが、ネアが誰かを見る時の止まり方はもう覚えた。
「……リコ」
名前が出た。
リコ。
六つか七つくらいの子どもだろう。足音がまだ地面と仲良くなりきっていない。石畳の欠けたところで少し乱れ、それでもすぐ追いついてくる。
「今日、どこ行くの?」
「……水」
「わたしも行く」
「……遠い」
「遠くないよ。ネア、毎日行くもん」
それは理屈として強いのか弱いのか判断に困る。毎日行くから遠くない、ではなく、遠くても毎日行っているだけではないか。子どもの理屈は、石の俺より強引だ。
ネアはしばらく黙った。
その沈黙の間に、リコの足音が半歩近づく。ついてくる許可を待っているというより、もうついていく位置を決めている音だった。
「……転ばないで」
「うん」
許可が出た。
いや、今のは許可なのか。注意だけを渡して、結果として同行を認めた形か。ネアはそういうことをする。
路地の壁は崩れたまま、風だけが細く通っていた。地面の奥には古い水路の空洞があり、ところどころで冷えた振動が返ってくる。廃都は大きな体をまだ横たえていて、その上を小さな二人が歩いていく。
リコは黙らなかった。
「ネア、昨日のパン、かたかった?」
「……ふつう」
「ふつうって、かたい?」
「……少し」
「やっぱり」
何がやっぱりなのかは分からない。けれどリコは満足したらしい。小さな足音が一度だけ跳ねた。
俺はポケットの中で、布越しの揺れを受け止める。ネアは歩く。リコはその横に並ぼうとして、時々前に出すぎて戻る。そういう音だけで、道の狭さと二人の距離がだいたい分かった。
「ネア、それなに?」
急に声が近くなった。
ネアの手がポケットの上に降りた。布の外から、俺を守るような重さがかかる。
「……石」
「石?」
リコの息が近い。たぶん覗き込んでいる。ネアの手の隙間から、外の光が布を通して少し変わった。俺には見えない。だが、子どもが何かを見つけた時の距離の詰め方くらいは分かる。
「きれいな石」
リコの指が、ポケットの縁に触れた。
「触らない」
ネアの声は低くなかった。
叱る声でもない。強く押し返すのではなく、そこから先に入らないように線を引く声だった。
リコの指が止まる。
「だめ?」
「……だめ」
「割れる?」
割れない。たぶん。いや、石なので絶対とは言い切れない。落とされるのは普通に怖い。
ネアの手が、ポケットの上でほんの少し固くなった。
「……大事」
リコは黙った。
その黙り方だけ、少し大人びていた。子どもは大事という言葉に弱い。自分のものではないと分かるからかもしれない。
「そっか」
短く言って、リコの足音が一歩下がる。
助かった。石に手汗という概念が通用するかは知らないが、今かなりそういう気分になった。
水場へ続く道は、途中から石畳が荒くなる。ネアは欠けた段差を覚えていて、ほとんど迷わず越える。リコはそのたびに小さく遅れた。
「ネア、待って」
ネアは止まる。
「……ここ」
「うん」
リコが追いつく。近くで服がこすれ、何か小さな袋が揺れた。たぶん持ってきたのだろう。子どもなりの荷物。何が入っているかは分からないが、音は軽い。
ネアは手を貸さなかった。
ただ待つ。リコが自分の足で段差を越えるまで待つ。その待ち方に、余計な言葉はなかった。
「できた」
「……うん」
褒めない。けれど置いていかない。
リコはそれで十分らしく、またネアの横を歩き始めた。
廃都に子どもの声があると、壊れた壁の響き方が少し変わる。広すぎる場所に、まだ使い方を知らない音が入ってくる。市場の声とも、老人の咳とも違う。まっすぐで、どこか危なっかしい。
「ネア、おなかすいた?」
「……すいてない」
「ほんと?」
「……ほんと」
信じていない声だった。
リコは袋をごそごそさせた。乾いたものがこすれる音。パンか、木の実か、もっと小さい何かか。ネアの鼻が少し動いたのか、布越しに食べ物らしい気配だけが薄く流れてきた。
「食べる?」
「食べない」
ネアの返事は早かった。リコの手が止まったのも、音で分かる。
「おなか、すかない?」
「すかない」
ここで少し間が空いた。
リコは本気で考えているらしい。石には空腹がない。ネアにも今はない。子どもの中で、その二つが同じ棚に置かれた気配がした。
「いいな」
よくない。
いや、よくないと断言していいのか。食べなくてもいい体は、確かに便利だ。だが食べる喜びを失っているとも言える。前世で昼休みにコンビニの棚の前を三分さまよった俺としては、便利だけで片づけるのは少し違う。
石だが。
「リコは食べる」
「……うん」
「ネア、見てて」
「……見てる」
リコが何かをかじった。小さく硬い音がした。ネアはたぶん、本当に見ている。食べ方が危なっかしいのか、こぼさないか心配なのか、そのあたりは布越しの沈黙だけでは分からない。
ただ、歩き出すまで少し待った。
それで十分だった。
『ネア』
俺は念話で呼んだ。
ネアの指が、ポケットの上で一度止まる。外には聞こえない。リコはまだ何かをもぐもぐしている。
『お前、子ども好きだろ』
「……別に」
声に出た。
リコがすぐ反応する。
「なにが別に?」
「……なんでもない」
「ネア、たまに一人でしゃべるよね」
一人ではない。ここに石がいる。
ただし説明はできない。リコに聞こえない念話の相手を紹介する方法など、今のところ存在しない。ポケットの中から「こんにちは、石です」と出ていけたら、それはそれで別の事件だ。
ネアは歩き出した。
「……水、汲む」
「うん。わたし、持てるよ」
「……重い」
「ちょっとなら」
「……ちょっとだけ」
リコの足音がまた跳ねた。任された量がほんの少しでも、子どもには仕事になる。仕事になると、歩き方が変わる。足の裏が、地面に自分の場所を作ろうとする。
水場につくと、地面の奥から湿った振動が返ってきた。まだ細い。けれど止まってはいない。廃都の底で、水は今日もかすかに動いている。
ネアが桶を下ろす。木が石に触れ、乾いた音を立てた。
リコはすぐ近くにしゃがんだらしい。膝が石に当たる小さな音がした。
「ネア、その石、いつから持ってるの?」
「……前から」
「前って、どのくらい?」
「……前」
説明する気がない返事だった。
リコはそれでも困らない。子どもは答えが半分でも次の質問に行ける。大人なら引っかかる隙間を、軽々とまたいでくる。
「名前ある?」
ネアの手が止まった。
桶の中で水が少し揺れた。その振動が地面から伝わってくる。
「……ある」
「なんていうの?」
「……イシル」
名前が外に出た。
ネアの口から出る俺の名前は、いつも少しだけ重い。石の俺には重さを受け止める体もないのに、なぜかそこだけ沈む。
リコはその名を一度、小さく繰り返した。
「いしる」
発音はまだ丸い。
「石だから?」
違う。いや、かなり近い。名前の由来を俺も正確には知らないが、子どもの雑な推理が妙に当たっていると、反論の置き場がない。
「……ちがう」
ネアが否定した。
その否定は短いが、少しだけ早かった。
リコは気にしていない。
「じゃあ、イシル」
呼ばれた。
返事はできない。できないのに、呼ばれると妙なところが動く。石なので動かないが。
「イシル、食べないの?」
『食べない』
つい返した。もちろんリコには届かない。
ネアの指がポケットを軽く押さえる。黙っていろ、ではない。たぶん、笑いをこらえたわけでもない。ネアの手はただそこにあった。
「……食べない」
ネアが代わりに答える。
「そっか。石だもんね」
理解が早い。
さっきまで石に空腹を確認していた気がするが、子どもの中ではもう片づいたらしい。世界の整理棚が柔らかすぎる。
リコは袋の中身をまたかじった。
「でも、きれいだから、何か食べそう」
美しさと食欲の関係について、今すぐ誰かに説明してほしい。
ネアは何も言わない。桶に水を汲み、片方を自分の近くへ引いた。もう片方の小さな器だけ、リコの前に置く。
「……これ」
「わたしの?」
「……持つ」
「うん」
リコが両手で器を持ち上げる。水が揺れ、半分ほどこぼれた。石畳に落ちた分が地面へしみて、冷たい振動が広がる。
「あ」
「……少しでいい」
「うん。少し」
リコは今度こそ慎重に持った。足音が急に遅くなる。大事なものを持つと、人は歩き方を変える。小さくても同じらしい。
帰り道、ネアはリコの速度に合わせた。
合わせているとは言わない。ネアはただ、いつもより少し遅く歩くだけだ。リコが水をこぼすたびに止まり、また歩く。注意は短い。
「……前」
「うん」
「……段」
「ここ?」
「……うん」
それだけで進む。
廃都の路地は、子ども用にできていない。割れた石、傾いた壁、急に深くなる影。危ない場所ばかりだ。それでもリコは楽しそうに歩く。危なさを知らないのではなく、ネアがいるから道になるのだろう。
「ネア、明日も水?」
「……たぶん」
「じゃあ、わたしも来る」
「……起きたら」
「起きるよ」
その自信はどこから来るのか。朝に弱い大人を何人も見てきた身としては、なかなか眩しい宣言だった。
リコの家は、壁の半分が残った小さな部屋だった。
家と呼ぶには欠けている。けれど入口に布がかかり、脇に小さな器が並び、床の隅に乾いた草がまとめてある。誰かがここを家にしようとしている気配があった。
リコは器を置いた。
水はだいぶ減っていたが、残っている。それだけで本人は胸を張ったようだった。
「できた」
「……うん」
ネアは短く返し、空いた手でポケットを押さえ直した。
リコの気配がまた近づく。
「ネア、石、また見せてね」
「……触らないなら」
「触らない」
すぐ言った。たぶん今だけは本気だ。明日も同じかは分からない。
「石のおじさんも、また来てね」
時間が止まった。
少なくとも俺の中では止まった。
『おじさん?』
ネアの指がポケットの上で止まる。
『石だが?』
リコは満足げに家の奥へ引っ込んでいく。返事を待っていない。命名とは、こんなに一方的なものだったか。
ネアは何も言わなかった。
ただ、歩き出す前にポケットを一度だけ軽く押した。慰めではない。訂正でもない。たぶん、笑ってもいない。
たぶん。
廃都の路地に、リコの声がまだ少し残っていた。きれいな石。イシル。石のおじさん。
名前ではないものが、また増えたらしかった。
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——石より




