第19話「石礼拝」
「石様、今日もよろしく」
朝の道で、タロが言った。
◆
タロの家の前だった。
ネアは市場へ向かう途中で足を止めた。
俺はポケットの中にいた。布越しに、朝の冷たさとネアの体温だけが分かる。タロの声は扉の内側から聞こえた。まだ腹の底までは戻っていない。途中に、細い咳の気配が残っている。
「石様、今日もよろしく」
(……始めたな、こいつ)
昨日まで「俺の石だ」と言っていた男が、朝になったら俺を様付けしていた。
「ゴホ、ゴホ……石様、すいません。続けます」
(続けなくていい)
ネアは何も言わなかった。
家の中で、ミナかリュウが「にいちゃん、うるさい」と言った。タロが「これは祈りだ」と返し、直後にまた咳き込んだ。
ネアは歩き出した。
いつもの市場へ向かう足音だった。
ただ、ポケットの布が少しだけ押さえられていた。
◆
昼前、市場の端で、また聞こえた。
「石様、今日もよろしく!」
(朝だけじゃないのか)
今度はタロだけではなかった。リコがいた。もう1人、名前を知らない小さい子もいた。3人とも、石垣の前に立っている。
タロは胸を張っていた。張るたびに、咳が出そうになっていた。
「いいか。手を合わせるんだ」
「こう?」
「そうだ。で、頼む」
リコが手を合わせた。
「石さま、パンください」
(俺を何だと思ってる)
知らない子も、少し遅れて手を合わせた。
「タロが、もう走っても咳しませんように」
「俺はもう走れる」
言い切ったあと、ゴホッ、と咳が出た。
リコがタロを見た。
「まだ」
「うるさい」
ネアが荷物を肩に担いだまま、その少し後ろを通った。
リコがぱっと顔を上げた気配があった。
「ネアねえちゃんもやる?」
「……やらない」
短かった。
タロがそこで、なぜか得意そうに言った。
「ネアはいいんだよ。持ってるから」
市場の音は、そのまま流れた。
ネアは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
(……持ってるから、か)
ネアの手の中にあるものが、少し外へ出された気がした。
◆
昼の休憩の頃には、石垣の上にパンの欠片が置かれていた。
小さすぎる欠片だった。
「供え物だ」
タロが言った。
「あとで食べるの?」
「食べない」
「なんで?」
「祈りだからな」
リコが考えた。
「じゃあ、石さま食べないなら、あとで食べていい?」
「だめだ」
(便利な言葉を覚えたな)
子どもは4人になっていた。
ネアは少し離れた石段に座り、パンを齧った。いつもなら石垣の近くで休む。今日は違った。
俺はポケットの中にいる。
出せば、たぶん、話が早い。
『やめろ』
そう送れば、ネアは止めるかもしれない。タロの前へ行き、短く言うかもしれない。
でも、それをやると、祈りをやめさせたのが俺になる。
俺が、石様として返事をしたことになる。
(違うだろ)
送らなかった。
ネアも、何も言わなかった。
パンの欠片は石垣の上に残った。風で少し乾いていく音は、さすがに分からない。
でも、リコがずっと見ている気配はあった。
◆
夕方には、形式が増えていた。
「石様、今日もよろしく。みんなも頼むぞ」
(みんなを巻き込むな)
タロの後ろに、子どもが5人いた。
小さい足が同じ方を向くと、地面の伝わり方が少し変わる。ばらばらの足音が、石垣の前だけそろう。
石垣の上には、パンの欠片が2つになっていた。誰かが木の実も置いたらしい。ころん、と乾いた音がした。
「石さま、タロが咳しませんように」
「石さま、明日もパンありますように」
「石さま、リュウが泣きませんように」
「泣いてない!」
どこかでリュウが怒った。
タロが満足そうに咳をした。
(咳をするな。満足そうに)
ネアは市場の反対側を回った。
仕事は同じだった。運ぶ荷物も、向かう場所も変わらない。
石垣の前だけ、通らなかった。
その時だった。
子どもたちの後ろに、大人が立っていた。
足音が重い。タロの家の人ではない。市場で何度か聞いたことのある靴音でもない。
知らない重さだった。
男は何も言わずに見ていた。
子どもたちが帰っても、まだそこにいた。
(あの人)
男はパンの欠片を持っていかなかった。
手も合わせなかった。
ただ、そこに立っていた。
しばらくして、いなくなった。
ネアはそちらを見なかった。
◆
片づけの時間になっても、石垣の上には欠片が残っていた。
タロは帰ったらしい。子どもたちの足音もない。市場の端で、木箱を引きずる音と、布を畳む音だけがしている。
ヴェラが近くを通った。
「誰だい、こんなところにパン置いたのは」
声は呆れていた。
でも、怒ってはいなかった。
ヴェラは欠片を拾わなかった。足で払うこともしなかった。ただ、少しだけ離れたところに、布を掛けた。
「鳥にでもやりな」
そう言って、仕事に戻った。
(鳥向けになった)
祈りの行き先が、急に現実的になった。
ネアの肩がほんの少し動いた。笑ったのかもしれない。顔は見えない。
そのあと、ぐりが石垣の下を通った。
小さな体が、石と石の間をこする音。いつもの、ゆっくりした音。
ぐりはパンの欠片へ向かっているようで、途中で向きを変えた。
俺の入っているポケットの方へ、少しだけ寄った。
(来るな)
ぐりは止まった。
そして、何もなかったように石垣の下を通り過ぎた。
パンは残った。
祈りも、たぶん残った。
誰かが片づけたわけでも、誰かが許したわけでもない。
ただ、生活の端に置かれたまま、夕方になった。
小さな影が、そこを避けて通った。
◆
家に戻る道は、いつもの道ではなかった。
タロの声はもう聞こえない。
かわりに、鍋を置く音がした。誰かが水を汲む音。遠くで、まだ少し残っている咳。
生活は続いていた。
その中に、今日だけ変なものが混ざっている。
石垣の上のパン。
手を合わせる子ども。
見ていた大人。
ネアの指が、ポケットの上から俺に触れた。
(俺はここにいる)
そう送ることはできた。
送らなかった。
言わなくても、指は離れなかった。
◆
夜、ネアは俺を机の上に置いた。
地面ではない。だから、街の広い気配は分からない。分かるのは、木の冷たさと、ネアの指が近くにあることくらいだった。
ネアは水を飲んだ。パンを少しだけ齧った。残りを布の上に戻した。
しばらく、何も言わなかった。
外で誰かが通り過ぎた。足音は家の前で止まらず、そのまま遠ざかった。
『……やめさせるか?』
送ってから、少しだけ早かったかと思った。
ネアの呼吸が止まった。
長く、止まったわけじゃない。
ただ、答える前に、机の端を指でなぞった。
「……別に」
いつもの言葉だった。
声は少し硬かった。
『タロは、たぶん明日もやるぞ』
「……うん」
『子どもも増える』
「……うん」
『大人も見てた』
ネアの指が止まった。
「……知ってる」
それだけだった。
知っていて、何も言わなかった。
止めることはできた。
俺も、ネアも。
けれど、止めなかった。
タロの咳がまだ残っていること。
リコがパンをほしがったこと。
小さい子が、タロの咳が止まるようにと言ったこと。
その全部を、ひとまとめに踏みつけるほど、俺は偉くない。
石様ではないので。
ネアが俺に触れた。
拾う時とも、しまう時とも違う。確かめるような触り方だった。
「……祈らない」
『うん』
答えると、ネアはそれ以上言わなかった。
窓の外で、犬が1度だけ鳴いた。
◆
寝る前、ネアは俺をポケットに戻した。
いつもの場所だった。
ただ、布の上から1度だけ、形を確かめた。
遠くでタロの声がした。
「石様! 明日も頼むからな!」
(タロ。俺はそこまで偉くない)
でも、咳は途中で出なかった。
ネアは、祈らなかった。
*【第19話 了】*
石垣の上のパン。
「石様、今日もよろしく」
俺は、神じゃない。石だ。
でも、パンの欠片は少し困る。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「ヴェラのパン屋の話」もよろしく。
パン屋のおばさんは、たぶん祈らない。
——石より




