第18話「守り石の噂」
噂が、広がっていた。
いつから、誰から始まったのか、分からなかった。
市場の空気が少しだけ違っていた。ネアが通ると、すれ違う人の足がほんの一瞬止まりかける。止まりそうで、また、何もなかったように、動き出す。
1度なら、気のせいだった。
2度、3度となると、気のせいではなかった。
◆
タロが、戻ってきた。
あれから、3日が経っていた。
朝、市場に出ると、いつもより遅い時間に、あの足音が聞こえた。腹の底から駆け抜ける足音——ではなかった。少しだけ軽かった。地面を蹴る音が以前より弱かった。
「ネア! お、おい、ネア!」
咳が、混じっていた。
「タロ」
ネアの声がいつもより少しだけ早かった。
「うっ、ゴホッ、ゲホッ——悪い。まだ、少し、残ってる」
タロの声も、いつもと、違った。腹から出ているつもりの「タロの声」なのに、胸の奥が少し細かった。
(……あいつ、見栄張ってんな)
俺はそう思った。
でも、口には出さなかった。ネアも出さなかった。出したら、タロが崩れる気がした。
タロ「明日から、また、走るからな!」
ネア「……うん」
タロ「石も、待っとけよ!」
(俺は石だから、待つのは得意だ)
◆
ヴェラの屋台の前を通った。
ヴェラがタロを見て少しだけ止まった。
「タロ、戻ってきたんだね」
「おばちゃん、元気——ゴホッ」
ヴェラが、ふっ、と笑った。
「帰って、寝なさい」
「大丈夫だって!」
タロが威勢のいい声を出した。でも、咳が止まらなくなって、結局、家に戻っていった。弟妹が迎えに来た気配がした。タロ「引っ張るな、リュウ」リュウ「……にいちゃん、顔、赤い」
足音が、遠ざかっていった。
ヴェラが、小さく、息を吐いた。
「あの子、走って戻ってきたんだよ」
ネアが、少し、黙った。
「……そう」
「馬鹿な子だねえ」
ヴェラの声は、低かったけど、優しかった。
それから、ヴェラは、いつものパンを、ネアに渡した。
ちょっと多めの、いつもの包み方だった。
◆
その後、ネアが荷物運びの仕事に戻った時、変なことが起きた。
市場の奥で知らないおばさんがネアを見て、何かを言いかけてやめた。
少し先で、また別の人がネアの持っている俺をちらっと見た。
さらに、乾物屋の手伝いをしている時、知らないおじさんがネアに話しかけてきた。
「嬢ちゃん、ちょっといいかい」
「……」
「その、持ってるやつ。さ、触らせてもらえんかね」
少し、近すぎる距離だった。
「ダメ」
ネアが、即答した。
おじさんは、少し驚いた顔の気配を出したが、「ああ、そりゃそうか」と言って、引き下がった。
ネアが、荷物を運び続けた。
(……なんだ、今の)
俺は思った。
触らせてくれ、だって?
◆
昼、休憩時間に、ネアが石垣に座った。
パンを齧っている最中、隣に、リコが走ってきた。
「ネアねえちゃん!」
「……リコ」
「あのね、タロお兄ちゃんが治ったの、その石のおかげだって、みんな言ってるよ!」
(……え)
「水がきれいになったのも、その石らしいって!」
「ねえちゃん、その石、すごいんだね!」
ネアが、少しだけ、黙った。
いつもの、黙り方じゃなかった。どう答えていいか、分からない、黙り方だった。
「……リコ」
「うん!」
「……誰が、そんなこと言ってる?」
「えっと……お母さんと、八百屋のおばさんと、あと、水汲みのおじさんと、あとあと——」
リコが指を折り始めた。
親指、人差し指、中指、薬指、小指。
もう片方の手に、移った。
——まだ、足りなかった。
(……)
(いっぱいじゃねえか)
ネアが、ほんの少しだけ、リコの頭に手を置いた。
「……分かった」
「えっ、何が?」
「……もう、いい」
リコが首を傾げた気配があった。でも、ネアは何も言わず、パンの残りを齧り始めた。
(ネア、お前——聞きたくなかったんだな)
(分かる)
◆
(俺、何もしてないんだが)
これは、大事なところだから、内心でも2回言っておく。
(俺、何もしてないんだが)
タロの病気は、タロが自分の体で治した。あと、フリンの薬だ。
水をきれいにしたのは、半分だけだ。全部じゃない。あの時、俺は「ただ、戻す」しかできなかった。街の人たちが水を煮て飲んで、フリンが薬を作って、みんなで凌いだ。それが、病が落ち着いた本当の理由だった。
それなのに——
(なぜ、この噂は、こんなに広がってる?)
これが、今日、俺の中に残った、違和感だった。
◆
夕方、ネアが家に戻る途中、タロの家の前を通った。
タロの咳がまだ聞こえた。でも、昨日よりずっと軽かった。
ネアが扉を叩かなかった。中にフリンの声がしていたからだった。フリンがタロを診ているらしかった。
ネアが、通り過ぎた。
道の途中で、タロの声が聞こえた。家の中からだった。
「——だから、違うって! あれは、俺の石だって言ってるだろ!」
ネアが、立ち止まった。
「だれかが言ってんの? お守り石? 違うって! あれはな、俺の——ゴホッ、ゲホッ——うるせえ、リュウ、水くれ」
ネアが、ほんの少しだけ、笑った気配があった。
(……タロ、同じこと、街で言ってんだな)
笑ったのか、呆れたのか、分からなかった。でも、ネアの足が、さっきより、少しだけ、軽くなった気がした。
◆
夜。
家に戻って、ネアが水を飲んだ。パンも、半分、齧った。ep17と、違った。
俺をポケットから机の上に置いた。
ネアが俺をじっと見ていた。気配で分かった。いつもなら、そのまま戸棚にしまう。今日は、しまわなかった。
「……イシル」
『ん』
「……噂、なんで」
ネアの声が、少し、困っていた。ネアらしくない。
(分からない)と言うのが、正直だった。
でも、それだと、たぶん、ネアは納得しない。
『さあ』
それだけ、言った。
ネアが、少し、黙った。
「……あんた、すごくないのに」
『うん』
「……水は、半分だけだった」
『うん』
「……タロは、自分で治った」
『そうだな』
ネア「……」
ネアが、また黙った。そして、小さく言った。
「……なんで、みんな、勝手に決めるんだろ」
(……それは、俺も、知りたい)
でも、これは、内心にとどめた。
ネアの手が、机の上の俺を、指先で、そっと、撫でた。
いつもと、違う触り方だった。
拾った時の、持ち方じゃない。ポケットに仕舞う時の、持ち方でもない。
——自分のもの、を、確かめる手だった。
(……ネア)
(お前、何か、言いたそうだな)
でも、ネアは、言わなかった。
撫でて、止めた。
◆
ネアが、寝る前、俺を、ポケットに戻した。
いつもと、同じ位置だった。
——のはずだった。
でも、ほんの少しだけ、指で、布越しに、俺の形を、確かめた気配があった。
(……ネア?)
ネアは、何も言わなかった。
ただ、握っていた指を、離した。
それだけだった。
◆
(噂が、広がっている)
(俺は、何もしていないのに)
(タロは、俺の石だと、家で叫んでいる)
(ネアは、分からないと、迷っている)
(そして、誰かが——知らない誰かが、俺を、触らせてくれと、言ってきた)
(この街は、少しだけ、ずれ始めた)
どこで、何が、ずれたのか、俺には、まだ、分からなかった。
明日も、ネアがポケットに俺を入れて、市場に出る。それは、変わらない。
でも——今日、俺は、初めて、不安になった。
廃都の中で、俺が、少しだけ、別のものに、なり始めている気がした。
——誰のものでもないはずの石が。
ネアが、それに、気づいているのか、いないのか。
俺には、まだ、分からなかった。
俺に分かっているのは、ひとつだけだった。
ネアの指が、今日、俺を、いつもと違う触り方で、撫でた。
他のことは、何も、分からなかった。
それだけ、だった。
俺の話が、街で広がっている。
タロが治ったのは俺のおかげらしい。水がきれいになったのも俺らしい。
知らないおじさんが「触らせてくれ」と言ってきた。
違う。
タロは自分で治った。水は、半分しか戻してない。
でも、噂は、止まらない。
おじさんは、明日も来るらしい。
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触らせてくれと言われても困る。遠くから、よろしく。
次回「石礼拝」もよろしく。
……タロ、お祈り、始めるらしい。俺、神じゃない。石だ。
——石より




