第17話「タロが倒れる」
タロが、来なかった。
朝、市場の通りを全力で駆けていく、あの足音がしなかった。
◆
ネアが起きて、いつも通りに動き始めた。パンを半分、齧る音。水を一口、飲む音。戸を開けて、路地に出る。
でも、耳が、片方だけ、空いていた。
市場の雑踏が、遠くから聞こえてくる。荷車の車輪、足音、物売りの声。その中に、いつもなら混じっているはずの、タロの声がなかった。
いつもの時間に、タロの足音が、聞こえなかった。
(来てないな)
病が広がっているこの時期だ。家の用かもしれない。タロかミナかリュウの誰かが熱を出して、付きっきりになっているのかも。
——そう思おうとした。半分くらい、思えなかった。
ネアも、何も言わなかった。ただ、いつもより、少しだけ、耳を澄ましているようだった。
◆
ネアは、いつも通りに荷物運びの仕事をした。
市場の奥、乾物屋の手伝い。袋を3つ運んで、2つ戻して、空になった木箱を片付ける。
ヴェラの屋台の前を通った時、ヴェラが声をかけてきた。
「ネアちゃん」
「……うん」
「タロ、見なかったかい」
ネアが、少し、黙った。
「……見てない」
「そうかい」
ヴェラの声が、低かった。
「あの子、最近、ちょっと咳してたからね」
それだけ言って、ヴェラは次の客のほうを向いた。
◆
ネアは、午前の仕事が終わったあとも、しばらく動かなかった。
市場の端、いつも休憩する石垣のところ。腰を下ろして、パンを半分、齧った。もう半分を、ぼろ布に包んだ。
(ミナに、か)
俺はそう思った。いつものことだった。
でも今日は、違った。
ネアは、包んだパンを、いつもの方向には持って行かなかった。ミナの家じゃなかった。もう少し奥、坂を下った先——タロたちの家の方向だった。
◆
タロの家は、スラムの奥のほう、細い路地の突き当たりにあった。
路地は、普段より、静かだった。他の家からも、人の声が、聞こえなかった。みんな、咳をしているのか、それとも、ただ、外に出ていないのか。どちらにしても、廃都の奥は、いつもと違う静けさで、満ちていた。
ネアは、扉の前で、少し、止まった。
ノックの前に、中から、音が聞こえた。
咳。大人の咳じゃない。でも、子どもでもない。タロだ、と俺は一瞬で分かった。腹から出る咳が、弱っていた。息が続いていなかった。普段のタロの咳とは、違った。走っている最中の「ケッ」でもなく、笑いながらの「ガハッ」でもない。ただ、苦しそうな音だった。
(……タロ)
ネアが、扉を、叩いた。
返事が、少し遅れた。
「……はい」
リュウの声だった。少し、硬かった。
「ネアだけど」
「……ネアねえちゃん?」
リュウが、扉を開けた。
◆
中に入って、すぐ分かった。
狭い部屋の、一番奥から、タロの呼吸が、聞こえた。床すぐ近くだった。布団の上から動いていない気配だった。
息が、浅い。吸うと吐くの長さが、合っていなかった。
一瞬、吸う音が、聞こえなくなった。
——また、吸った。
布団の横に、小さい気配が、低く、止まっていた。ミナだ。水を絞る音。しずくが、布の上に落ちる音。そっと、額のあたりに、布が当てられる音。一定のリズムで、繰り返されていた。
リュウの足音が、ネアの後ろで、止まった。
「……にいちゃん、昨日の夕方から」
リュウが、そう言った。
「熱、出て」
「……うん」
「……今日、働きに行くって言ったんだけど、起き上がれなくて」
ネアは、何も言わなかった。
ただ、持ってきたパンの包みをミナの隣に、そっと置いた。水の瓢も、一緒に。
「……煮た水」
ネアが、短く、言った。
「……飲ませて」
「……うん」
ミナの気配が、一度、ネアのほうに向いた。首を動かしたらしかった。何も言わなかった。受け取ったことだけは、伝わった。
◆
ネアは、すぐには、帰らなかった。
部屋の隅で、しばらく、動かなかった。タロのほうに、意識が、向いていた。ネアの呼吸が、いつもより、小さかった。タロの呼吸を、邪魔しないようにしているのかもしれなかった。
(……苦しそうだな)
俺は、そう思った。
でも、タロは、死にそうじゃなかった。
吐く息の音が、途切れていなかった。熱は高そうだけど、気配は、まだ、生きていた。タロだ。あいつは、こんなもんじゃ、崩れない。
(……と、思いたい)
俺の中で、そう言い直した。
ネアは、たぶん、同じことを、考えていた。
◆
帰り道、ネアは、いつもより、ゆっくり歩いた。
喋らなかった。
俺も、何も言わなかった。
坂の途中で、ネアが、一度、立ち止まった。
身体の向きが坂の下、タロの家のほうに少しだけ戻った気配があった。そして、また、歩き始めた。
ネアは俺をポケットの奥に深く仕舞い直した。いつもより、強く、布越しに握った気配があった。
(……言葉を、持ってない、か。こいつは)
俺は、そう思った。
ネアは、タロのことを、「心配だ」と、口にしない。たぶん、これからも、しない。その代わりに、こいつは、明日も、タロの家に行く。そういうやつだった。
◆
夕方、ネアはフリンの家にも寄った。
扉の前で、フリンの乳鉢の音を、少しだけ、聞いていた。昨日よりも、ずっと、速かった。忙しない、というよりは、追いつかない、という音だった。
中からは、子どもの咳。大人の、疲れた声。重なって聞こえてきた。
ネアは、扉の前で、手を、上げた。
叩こうとした。
でも、止まった。
入らずに、踵を返した。
(……邪魔にしない、か)
フリンは、今、タロどころじゃない数の人を、相手にしている。それが、扉の向こうの音から、ネアにも、分かったらしかった。
ネアがタロの名前を出しても、今のフリンには、何もできない。それも、分かっていたんだと思う。
◆
夜。
ネアが家に戻って、水を飲んだ。パンは齧らなかった。
灯りも点けずに、壁にもたれて、座っていた。
俺は、ネアのポケットの中で、揺れていなかった。ネアが、俺を、手のひらに握ったまま、座っていたからだ。
指先は、冷たくなかった。でも、温かくもなかった。いつもの、ネアの手だった。
外から、遠くの咳が時々、風に乗って聞こえてきた。1人。しばらくして、また、別の誰かの。廃都の夜が、普段より、重かった。
何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
念話を送れば、届くのは分かっていた。でも、今、何を言っていいのか、分からなかった。
「大丈夫だ」と言えば、嘘になる。
「タロは死なない」と言えば、もっと嘘になる。
俺に言えるのは、たぶん、ひとつだけだった。
『明日も、行くか』
「……うん」
『俺も、連れていけ』
「……分かった」
それだけだった。
ネアは、俺を握ったまま、少しだけ、目を閉じた。
◆
夜中、何度か、ネアが身じろぎした。
眠っていないらしかった。でも、起きて何かをするわけでもなかった。ただ、座ったまま、壁にもたれて、呼吸をしていた。
俺は、ネアの手のひらの温度を、ずっと、感じていた。
温度が、少しずつ、上がったり、下がったり、していた。手のひらの動きじゃない。握る強さの変化だった。
何を考えているのかは、分からなかった。
ただ、考えている、ということだけが、手のひらから、伝わってきた。
◆
朝が来る前、ネアが、小さく、呟いた。
「……タロ」
それだけ、だった。
ネアが、もう一度、口を、開きかけた。
でも、呼ばなかった。
名前を、呼んだだけ。
でも、その呼び方が、いつもと、違った。からかう時の「タロ」でも、怒る時の「タロ」でもなかった。
ただ、名前を、呼んだだけだった。
それが、どういう意味なのか、俺には、全部は、分からなかった。
◆
タロが倒れた。
廃都の中で、また、1人。
その事実が、夜の重さに、もう1つ、加わっただけだった。
明日、ネアと一緒に、タロの家に、行く。
俺に、できるのは、そのくらいだった。
タロが、倒れた。
いつも腹の底から走ってる、あいつが。
俺は石なので、治せない。たぶん、何もしてやれない。
でも、ネアが明日も行くなら、俺も、ついていく。
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……俺、祀られるのか? 石なのに?
——石より




