第16話「廃都に病が広まる」
市場の音が、少し、変わった。
最初は、気づかなかった。半年ポケットで市場を聞いてきて、いつもとほぼ同じ、と俺は思っていた。
でも、2、3日経ったあたりで、分かってきた。
咳が、増えていた。
◆
ネアが朝、いつもの仕事に出る。荷物運びの日だった。
市場通りの奥に向かって歩く途中、咳が聞こえた。1人。しばらくして、また1人。
午前の間に、5人くらい、数えた。
(咳き込む人、多いな)
それだけなら、春先の乾いた空気のせいかもしれない、と思った。前世の感覚でも、季節の変わり目は咳が増えた。
でも、午後になって、荷物の受取人が言った。
「ネア、今日で悪いけど、うちの荷運びは2、3日休ませてもらえる? うち、下の子が熱出しててさ」
ネアは答えなかった。うん、でもなく、はい、でもなく、ただ頷いた気配。
「ありがとな。治ったらまた頼む」
足音が家の奥に戻っていった。
◆
その日の午後、ネアはヴェラの屋台にも寄った。いつものパンを受け取る流れ。
屋台の前の、いつもの人だかりが、少なかった。2人、3人。他の客の声も、どこか、短い。
でも、ヴェラの声が、いつもより低かった。
「ネアちゃん」
「……うん」
「あんた、手ぇ洗ってから食べな。ちゃんと」
「……」
「あと、水、生で飲むんじゃないよ。煮てから」
ネアが、少しだけ、黙った。
「……なんで」
「みんな、体調悪いからね。最近」
それだけだった。ヴェラは、それ以上は言わなかった。
でも、「ちょっと多め」のパンを渡す時の指の動きが、いつもより、ほんの少しだけ、強かった気がした。
パンの香りは、いつもと同じだった。焼き立ての、少し甘い匂い。
変わったのは、それを受け取る側の、街のほうだった。
◆
ネアの足取りは、帰り道、少し、速かった。
坂の奥、フリンの家の方向だった。
扉の前に立つ。ノックの前に、軋んだ扉の向こうから、普段聞かない声が聞こえた。
子どもの、弱い咳。大人の、疲れた呼吸。乳鉢の音が、普段より、ずっと、忙しない。
フリンが気づいて、扉を開けた。
「……ネア」
「うん」
「ちょうど、良かった。乾物屋に寄れるかい。葉が足りないんだ」
フリンの声は、少しだけ、掠れ方が強かった。
(疲れてるな、この人)
中に入って、すぐ分かった。咳と、呼吸と、熱っぽい気配が、部屋の空気を重くしていた。いつもより、人の数が多い。
奥の壁際、布を被せられた人影が、浅い呼吸をしていた。隣に、もう1人、小さい影。付き添いの親だろう、と、ネアは思ったらしかった。
薬草の匂いが、普段より、濃い。
フリンの指が、いつもの乳鉢の音とは違うリズムで動いていた。急いでいた。でも、荒っぽくはなかった。長年の手つきが、急ぐ時でも、手順を崩さなかった。
乳鉢の中で、葉が、細かく、砕かれていく音。いつもより、短い間隔で、鳴っていた。
「……みんな、同じ病?」
ネアが、小さく聞いた。
「……似てる。熱と、咳」
フリンが、短く答えた。
「子どもと、年寄りに、重く出るやつさ」
◆
ネアは乾物屋に走った。いつもなら荷物運びの足取りだが、今日は本気で走っていた。
俺は、ポケットの中で、揺れていた。
(広がってるな)
体の弱い者から順に、倒れていくやつだ。廃都には医者はいない。フリンが、唯一の薬師。でも、薬は体を助けるもので、病そのものを消すものではない。
フリンの乳鉢のリズムが、ずっと頭に残っていた。急いでいた。でも、急ぎすぎると、薬は薬にならない。
(俺に、何か——)
考えて、やめた。
あの夜の「やめて」を、もう1度、思い出した。
あの時、俺は病気の子を治そうとして、失敗した。子どもは自分の力で治った。俺は、ほぼ、何もできなかった。
(じゃあ今度も——同じか)
分からなかった。でも、同じだとしても、できることが何もないとは、思えなかった。
あの時と、違うことが、ひとつ、あった。
あの時、俺は、「治す」と決めた。だから、失敗した。
今度は、治すとは、思っていない。ただ、少しだけ、水を澄ませる。それだけなら、俺にも、できる。
◆
夕方、ネアがフリンの家に葉を届けた。フリンは、短く礼を言って、また乳鉢を動かし始めた。
帰り道、ネアは水場に寄った。
いつもの、共同水場。井戸から引いた水が、石の槽に溜まっている。
他に、人はいなかった。昼過ぎ、水汲みに来る人が、普段より、ずっと、少なかった。
ネアが、水を汲もうとして、一瞬、手を止めた。
「……」
ヴェラの言葉を、思い出していたらしかった。
水、生で飲むんじゃないよ。煮てから。
ネアは、水を汲まずに、家に戻ろうとした。
その直前、俺をポケットから取り出して、水場のふちの石の上に、そっと置いた。
指が、少しだけ、冷たかった。水場の空気のせいだけじゃない、気がした。
(……いいのか、ネア)
いつもなら、水場に置くのは、俺が「置いてほしい」と頼む時だけだった。今日は、ネアが、何も聞かずに、置いた。
——ネアは、俺がやれることを、覚えていた。
水の浄化。前に、俺がやったやつ。
◆
地脈に触れる。
水場の水。濁りは、前より、ずっと、薄かった。俺が何度か澄ませたあと、大きく悪くはなっていない。
でも、今日は、別の何かが混じっている感触があった。
水そのものの濁りじゃない。流れの中に、微かに、何か——淀みとも違う、重みのようなものが、漂っていた。
(なんだ、これは)
分からなかった。でも、地脈越しに、それは「本来、ここには無いもの」として、感じられた。
——なら。
引き出す、と決めた。水が本来持っている「澄む力」を。前に、覚えたやり方だった。作るんじゃない。ただ、戻す。
(戻れ)
水の流れに向けて、意識を集めた。深いところ、井戸の奥から、水本来の流れを、少しだけ、強く。
何かが、応えた。
水の中の「重み」が、少しだけ、流れに押しのけられていく感触。全部ではなかった。押しのけきれない塊もあった。でも、半分くらいは、流れの向こうに、押し出された。
同時に——俺のほうに、重さが戻ってきた。
前にも、あった。削られていく感覚。地脈との繋がりが、少し、遠くなった。水の重みを、俺が、引き受けた分だけ。
(……これくらいで、やめておこう)
無理はしない、と、決めていた。ネアの「やめて」を、今夜も守る。
◆
ネアが、俺を拾い上げた。
手のひらの温度が、いつもと同じだった。拾い方も、いつも通りだった。
「……イシル」
『ん』
「……やったな」
短かった。でも、咎める声じゃなかった。
『やった。少しだけ』
「……」
「……疲れてる?」
『ちょっとな』
「……わかった」
それだけだった。ネアは、俺を責めなかった。止めもしなかった。
今夜は、「少しだけ」なら、いい、と、ネアの中で、決まったらしかった。
家までの帰り道、ネアは、いつもより、歩くのが遅かった。俺を握る手の強さは、いつもと同じだった。
◆
夜。
ネアが眠った後、俺は考えていた。
(これで足りるのか)
廃都の水場は、俺が知ってるところだけじゃない。病の元が「水」だけとも限らない。
でも——
今日、水場の水を、少しだけ、澄ませた。「少しだけ」は、「全部」じゃない。でも「ゼロ」でもない。
フリンの乳鉢の音が、頭の中で、まだ鳴っていた。あの人も、1人で、全部を止められるわけじゃない。でも、1人ずつ、薬を作って、渡していた。急ぐ手つきでも、手順は崩さずに。
(石にも、薬師にも、できるのは、そのくらい、か)
そのくらい、を、明日もやる。
「少しだけ」を、毎日、積む。それしか、ない気がした。
それが、今夜の答えだった。
廃都に、病が広まり始めている。
咳が増えた。ヴェラが「水は煮て飲め」と言った。フリンの家が、いつもより忙しい。
俺は石なので、走り回ることはできない。
でも、水場の水を、澄ませた。少しだけ。
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星1つは、石にとっては重い。積み上がると、遠くまで届く。
次回「タロが倒れる」もよろしく。
……あいつ、働きすぎだからな。
——石より




