第15話「ネアの母の話」
ネアが、歌を知っていた。
半年ポケットにいて、今日、初めて、それを聞いた。
知らなかった。半年一緒にいて、まだ、ネアの知らないところが、たくさんある。
◆
雨の日の続き、という感じで、その夜は始まった。
昼間、ネアは坂の上の広場と石段に俺を連れて行って、ぽつりと「お母さんがここを好きだった」と言って、それだけで帰ってきた。
家に戻ってから、ネアはあまり動かなかった。いつもなら寝る前に、道具を揃えたり、翌日の段取りを考えるような小さな動きがある。今日はなかった。
毛布に入る音。呼吸がゆっくりになる。——でも、眠ってはいなかった。
ネアの眠るリズムは、もう分かる。起きている時の呼吸の、奥のほうに、「まだ考えている」ざらつきがあった。
しばらく、静かだった。
◆
雨は、もう止んでいた。
屋根を叩く音がなくなって、代わりに、屋根から落ちる雫の音だけが、ぽつ、ぽつ、と続いていた。雨が止んだあとの、廃都の夜の音だった。雨そのものよりも、静かだった。
「……イシル」
『ん』
「……起きてる?」
『石に睡眠はないからな。いつも起きてる』
「……そうか」
沈黙。
ネアは、何かを言おうとしているのか、言わないことに決めたのか、分からない息の吐き方をした。吐いて、止まって、また吸って、また止まる。普通の、眠る前の呼吸ではなかった。
俺は、黙って、待った。急かしても、ネアは言わない。それは、半年のポケット生活で、じゅうぶんに分かっていた。
◆
それから、ネアは、歌い始めた。
——いや、歌った、というより、口ずさんだ、のほうが近かった。
メロディというには弱く、節というには細い。ほとんど息の延長線上の、小さな声。上がり下がりも、ほんの少し。強く出したら崩れそうな、そういう細さ。
でも、確かに、歌だった。
初めての歌だった。半年ポケットにいて、ネアが歌うのを、1度も聞いたことがなかった。怒鳴られた日も、疲れた日も、夜中に声を殺して震えていた日も、歌は、なかった。
(お前、歌、知ってたのか)
念話には、出さなかった。出したら、たぶん、止む。
俺は、黙って、聞いた。
◆
歌詞は、よく聞き取れなかった。ネアの声が小さかったし、半分は息だったし、ところどころ、知らない単語が混じっていた。廃都の言葉ですらない、もっと古い響き、という感じもした。
同じ節が、何度か、繰り返された。
ネアが歌い慣れている節だった。初めて聞かせてくれた歌、のはずなのに、ネア自身は、この歌を何百回も繰り返してきたような、そういう滑らかさ。
頭の中にある歌を、声に出す、ということに、慣れている。
でも、誰かに聞かせる、ということには、慣れていなかった。声が、細かった。
その歌の中から、1つだけ、拾えた言葉があった。
繰り返し、出てきた。歌の、たぶん大事な場所で。
「いしる」
(……イシル?)
俺は、一瞬、自分の名前を呼ばれたのかと思った。違った。ネアは俺を呼んでいない。歌の中に、その単語があっただけだった。
でも——
(ネアの母親が歌っていた歌に、「イシル」があるのか)
ネアが俺に「イシル」と名付けたのは、覚醒の日だった。そのとき、ネアは、どこから取ってきた名前か、言わなかった。1人でつけた名前、とだけ、俺は思っていた。
違ったらしい。
ネアの中には、最初から「イシル」という言葉があった。母親の歌の中に。
そして、ネアは、拾った石に、その名前をつけた。
(……)
何か言おうとした。やめた。
ネアの歌は、まだ続いていた。途切れそうになって、また戻って、また途切れそうになる。その、危うい細さが、壊したくなかった。
◆
歌が、ふと、止まった。
「いしる」のところで、止まった。
ネアが、少し、息を整えた。口を閉じるでもなく、続けるでもなく、真ん中で、止まっている呼吸だった。
雫の音が、ぽつ、と、屋根から落ちた。
それから、ぽつりと、言った。
「……お母さん、よく歌ってた。小さいとき」
『……そうか』
「……あと、お父さんも、歌ってた。同じの」
(……)
ネアの口から「お父さん」という言葉が出たのも、半年で、初めてだった。
「お母さん」が出たのは昨日。「お父さん」は、今日。
ネアの中で、半年間、鍵をかけられていた言葉が、雨の日の夜に、1つずつ、外に出てきていた。
「……病で死んだ。2人とも」
淡々とした声だった。事実を確認するときの声。
「……一緒に。そんなに間、空かずに」
ネアの呼吸のリズムが、少しだけ、乱れた。気づかないくらいの、ほんのわずか。
でも、半年聞いてきた俺には、分かった。
ネアが今、いつもより深く息をしようとしている、と。
◆
「……お母さんが、呼んでたのかな」
ぽつり、と、言った。
(え)
「……『いしる』って。歌に出てくる、『いしる』」
ネアは、言葉を選んでいた。
「……意味、知らない。お母さんも、言わなかった。ただ、歌ってた」
そして、
「……その名前、どこから来たんだろ」
ネアは、俺に聞いていた。でも、答えを求めている声じゃなかった。
自分で、確かめようとしている声だった。
◆
(……)
何も、言えなかった。
石のくせに、と思うかもしれないが、石だからこそ、言えなかった。
俺は、道端に転がっていた、ただの、石だった。半年前まで、誰にも気づかれず、誰にも拾われず、ただ、在っただけだった。
そんな俺を、ネアが拾った。
拾ってくれた。
そして、自分の知っている歌の中の「いしる」という言葉を、俺に、つけた。
偶然なのかもしれない。偶然じゃないのかもしれない。
でも、少なくとも、今、俺は「イシル」という名前を持っている。
半年前の、道端の、名前のない石じゃない。
(……ありがとう)
念話には、しなかった。
ネアが今、答えを求めていないのと、同じように。俺も、今、返事を求めていなかった。
——ただ、ネアの歌の中に、俺の名前があった、という事実だけが、部屋の中に、ぽつん、と、置かれていた。
誰かが拾ってくれるのを待っている、小さな、何かのように。
◆
「……おやすみ、イシル」
ネアの声は、いつもより、ほんの少しだけ、温度があった。
『おやすみ、ネア』
布が動く音。体の向きを変えた。
呼吸が、少しずつ、眠りのほうへ傾いていった。
雨の雫の音だけが、まだ、ぽつ、ぽつ、と続いていた。
◆
俺は、眠れない。いつものことだ。
今夜は、もうひとつ、長い夜の分、長かった。
歌の中の「いしる」の意味を、俺は知らない。ネアの母親が何を思って歌っていたのかも、知らない。ネアがどうして俺に「イシル」とつけたのかも、本当のところは、分からない。
でも——
道端の、名前のない石が、ある日、少女に拾われて、少女の母親の歌の中の言葉を、名前として、もらう。
それは、偶然にしては、出来過ぎている。
(……)
答えは、出なかった。
出す必要も、たぶん、なかった。
ネアは、もう、眠っていた。俺は、眠れないまま、ネアの寝息を聞いている。半年前から、変わらず、同じ位置で、同じことをしている。
でも、今夜は、1つだけ、違うことがあった。
俺には、名前がある。その名前は、ネアの母親の歌の中から、来たものらしい。
それを知っている人間は、この世界に、2人しかいない。ネアと、俺。
石を「俺」と数えていいのかは、毎回、怪しいところだが——今夜だけは、入れてもらうことにした。
ネアの寝息だけが、雨の雫と並んで、夜の中に、続いていた。
ネアが、歌を歌った。
半年ポケットにいて、初めて聞いた声だった。
その歌の中に、「いしる」という言葉があった。
……俺の名前は、そこから来ていたらしい。
知らなかった。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアが歌ってくれなかった続きは、読者のみんなが歌ってくれてもいい。(※無理にとは言ってない)
次回「廃都に病が広まる」もよろしく。
——石より




