第14話「雨の日」
雨音で、俺の1日は始まった。
石に睡眠はない。だから「目が覚めた」ではなく、「気づいた」のほうが正確だ。細かい粒が、屋根の薄い板に規則的に当たっている。強まったり、弱まったりを繰り返しながら、途切れない。
(雨か)
半年の暮らしで、廃都の雨は何度か経験していた。昼には止む雨と、1日続く雨がある。今日の音の重さは、たぶん、後者だった。
ネアが起きる動きが、普段より遅かった。布の擦れる音が少し長く続いて、それからようやく体を起こす音があった。
「……」
ため息とも小さな声ともつかない、短い息が漏れた。
(お前も、雨の日は動きが遅いのか)
ネアが俺を棚から下ろした。手のひらの温度が、普段より、少し、低かった。
◆
ネアは仕事着じゃないほうの布を羽織った。
雨の日は、乾物屋も薬師も、頼まれごとが来ない。廃都には「配達」という概念が薄い。歩ける者が、歩ける日に、自分で取りに行って、自分で持っていく。それだけの街だった。
ポケットに入れられる。
ネアはすぐには出なかった。玄関の土間で、しばらく、立っていた。雨の音を聞いている立ち方だった。
「……」
「……行く」
誰に向けた声でもなかった。たぶん、自分にだった。
(どこに、とは言わないんだな)
言わないまま、歩き出した。外に出る。布越しに、雨の音が一気に近くなった。霧じゃない。粒のはっきりした、重い雨だった。
◆
街の音が、雨の日は違う。
市場通りは、いつもの声と足音の渦が、今日はうんと静かだった。かわりに、水の音が街中に満ちていた。石畳の隙間を走る細い流れ。屋根から落ちる雫。どこかで樋が詰まっているのか、断続的に溢れる音。
廃都の水路は、普段は弱い音しか立てない。でも今日は、主役のように響いていた。
ネアの足音に、迷いはなかった。仕事の日と、同じ歩き方。目的地があった。
(どこに行くんだ)
念話には、出さなかった。尋ねたところで、こいつは答えない。そのくらいは、分かっていた。
ネアが角を2回、曲がった。市場の気配が、だんだん薄くなった。ネアの足音の響き方が変わる。乾いた石を踏む音から、湿って重い音へ。人の気配が薄い場所に入っていた。
——坂を、上り始めた。
足音のリズムが変わる。平坦な石畳じゃない。傾斜のある道。どこかで聞いた振動だった。
(あれ、この道——)
この坂の感触、覚えがあった。
ネアが前に1度、俺を連れて上った坂だった。石段の上で、知らない爺さんに話しかけられた、あの坂。
(また、あそこか)
◆
坂の途中、ネアが立ち止まった。
石段ではなかった。もっと手前。坂の中腹。
ネアが俺を地面に置いた。地脈に触れる。
——広い。
平らな石が、ずっと向こうまで敷き詰められていた。市場通りの雑な石畳とも、石段の古い石とも違う。もっと大きくて、継ぎ目が少ない。何百年も前に、きちんと計算されて組まれた床の、名残だった。
所々に、四角い基礎石が残っている。柱があったらしい場所。柱そのものは、もう、ない。雨が基礎石を叩いて、水たまりを作っていた。
四角い基礎石は、1つや2つじゃなかった。等間隔に並んでいる。東西に何列か。南北に何列か。全部で、ざっと数十。柱が立っていたなら、相当大きな建物。屋根があったなら、廃都のどんな家よりも、高い屋根だったはずだ。
今は、雨が素通りしていた。屋根も柱も壁もない、ただの平らな石の広場に、雨だけが、降っていた。
(ここ、何かあった場所か)
ネアがしゃがんだ気配があった。呼吸が近い。
「……昔、ここ、大きい建物あったんだって」
ぽつり、と言った。いつもより、ほんの少しだけ、言葉数が多かった。
『……誰から聞いた』
「……お母さん」
——俺は、しばらく黙った。
ネアの口から「お母さん」という言葉が出たのは、半年で初めてだった。
「……お母さんは、昔は、ここが『イシュラ』って呼ばれてたって言ってた」
イシュラ。
(……イシュラ)
雨の粒が、基礎石を叩く音の中で、その名前がひとつだけ、浮かんで、沈んだ。
(この街には、名前があったのか)
ネアの母親が言った、というだけの話だった。でも、「廃都」という呼び名は、いつも「元は何か」を前提にしていて——その「元」の名前が、今、ネアの口から出た。
イシュラ。
頭の中で、もう1度、繰り返してみた。音だけの、名前。意味は分からない。でも、この足元の広い石床と、遠くの石段と、雨の中に消えていく基礎石の列——そういう場所にふさわしい、響きだった。
念話には、出さなかった。
出したら、ネアはたぶん、黙る。今のネアの話は、半年分の沈黙のあとに、ようやく出てきた一欠片だった。壊したくなかった。
◆
ネアが俺を拾い上げた。地脈から離れる。ポケットの温度に戻る。
でも、ネアはまだ立ち上がらなかった。しばらく、雨の音だけを聞いていた。
やがて、足音が、坂の上へ向かった。
石段があるほう。
雨の中、ネアは坂をもう少しだけ、上がろうとしていた。
◆
石段の下に着いた。
ネアはすぐには止まらず、そのまま上がっていった。1段、2段。10段。上まで。
石柱の前で、ネアが俺をポケットから出して、石段の1番上に置いた。地脈が開く。石柱の根元。
前に来た場所だった。石の継ぎ目の感触にも、覚えがある。
でも今日は、こつ、こつ、という杖の音がなかった。爺さんはいない。たぶん、雨だから。あるいは、別の理由で。
(爺さん、雨の日は休むのか)
独りで言って、独りで、少し、可笑しくなった。雨の中でも来るような老人だったら、それはそれで、怖い。
雨が、石段を叩いていた。すぐ隣の石柱にも、雨が当たっている。地脈を通して、水が細い線になって、柱を伝っているのが感じられた。柱の表面に刻まれた文字の溝に、雨水が溜まって、溢れて、垂れていく。
(碑文に、雨が染みていく)
前に来たときは、乾いた文字だった。今日は、濡れている。濡れて、地脈で拾える輪郭が、少しだけ濃くなっていた。
◆
ネアは、立ったまま、しばらく動かなかった。
雨音だけが、あった。
ネアがしゃがんだ。俺の真横に、何かを置く気配があった。小さな、軽いもの。ひと枝の葉か、草か。そこまでは分からない。石段の石に、それが落ちる、微かな音だけがした。
そこにしばらく雨が当たって、葉だか草だかが、少しずつ、水の重さで沈んでいく気配がした。地脈越しに拾える、ごく小さな変化だった。
「……」
沈黙があった。
雨の音の中で、沈黙はよく育つ。市場の喧騒の中の沈黙とは違う。雨は、沈黙を邪魔しない。ただ、並んで、そこにある。
やがて、ネアが、小さく口を開いた。
「……お母さんがここを好きだった」
ぽつり、と。
(……)
(——そうだったのか)
半年、ネアはずっとこれを、ここに置いたままにしていたのか、と思った。
市場で働いている間も。荷物を運んでいる間も。夜、布団の中で体をゆっくり震わせていた、あの夜も。
ネアの中には、ずっと「ここ」があった。雨の日に初めて、俺にだけ、その一欠片を、そっと差し出してくれた。
言葉は、それだけだった。好きだった場所なのか、好きだった人なのか、ネアはそれ以上を言わなかった。
ネアが立ち上がる気配。俺を拾い上げる。石段を下りる足音。坂を下りていく。ポケットの温度に戻って、雨の音が、少しずつ、遠くなった。
それでも、しばらく、頭の中には、石段の上の沈黙が、残っていた。雨の音の中で育った、あの種類の沈黙だった。市場で聞くどんな音とも違う、重さのある静けさだった。
雨の日、ネアは仕事に行かなかった。
そして半年で初めて、お母さんの話を、少しだけ、した。
「……お母さん」
「……好きだった」
それだけだった。
でも、半年分の沈黙のあとの、それだった。
石としては——たぶん、重いほうに数えるべきだと思う。
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雨の日の暇つぶしに、石を1つ、連れていってくれ。
次回「ネアの母の話」もよろしく。
ネアは、もう少しだけ、話してくれるだろうか。
——石より




