第13話「タロの秘密」
朝の市場には、いつもの音がある。
木箱を置く音、乾いた袋を結ぶ音、眠そうな声で値段を言い合う声。そこへ最近だけ、タロの足音が混じるようになった。
今日は、その足音が違った。
いつものタロは、わざと大きく踏む。来たぞ、と先に知らせるみたいに鳴らす。けれど今朝の足は地面を押して、すぐ次へ移っていた。ふざける余裕を置いてこない走り方だった。
「タロ、こっち手伝っていきな」
「悪い、おばちゃん! あとで!」
返事だけが市場を抜けた。
止まらない。
ネアは仕分け台の前で豆を分けていた。タロの足音が遠ざかっても、指の速さは変わらない。小さな豆が台を転がり、ひとつ、ふたつ、袋の口へ落ちる。
「最近朝から忙しそうだね」
「……少し」
女主人の声は、心配を軽く包んでいた。ネアの返事はもっと軽い。
でもネアの「少し」は、少なくない時に出る。
◆
仕分けが終わると、ネアは硬いパンの端と干し芋をもらった。
自分では食べなかった。布で包んで、俺のいるポケットとは別の、潰れにくいところへ入れる。
(腹は減ってるだろ)
市場の出口とは逆へ歩き出す。人の多い通りから外れると、足音の返りが薄くなった。細い路地だ。地面が湿っていて、靴裏の音が低く吸われる。
奥から小さな足音が来た。軽い。急いでいるのに、まだ体重が音になりきらない足だった。
「ネア」
「ミナ」
少し間があった。
「にいちゃん、いない」
「うん」
少し間があった。
「朝、パンちょっと食べて、いった」
ネアが息を置いた。驚いたのではない。知っていたことを、本人の声で確かめた間だった。
「リュウは」
「家」
布包みがほどかれる。パンの端がミナの手へ渡った。
「食え」
ミナは返事をしなかった。すぐに齧った。硬いパンが奥歯で割れる音がして、飲み込む前に次を噛む。
遠慮がない。
遠慮する時期を、もう過ぎた食べ方だった。
ネアは食べ終わるまで立っていた。急かさない。慰めもしない。ただ、そこにいる。
最後のかけらが喉を通ったあと、干し芋を半分だけミナの手に押し込んだ。
「リュウに」
「うん」
◆
家、と呼ばれた場所は路地のさらに奥だった。
扉は軽い。開く音が薄く、閉まる音も薄い。板を何枚か合わせただけのものらしい。
中へ入ると、声は壁際からした。
「……ネア」
リュウは起きていた。寝起きの声ではない。起きて、動かずにいた声だ。ミナより少し低く、でも大人にはまだ遠い。
ネアが干し芋を出した。
「食え」
「いらねえ」
少し間があった。
「食え」
リュウは黙った。受け取るまでの沈黙が、腹の減りを隠すには短すぎる。
噛む音は遅かった。急いで食べる力まで残っていないのかもしれない。
「にいちゃんは」
「あとで食う」
少し間があった。
「いつもあとで」
「あとで食ってるだろ」
少し間があった。
「うそ」
ミナの声が小さく刺さった。
リュウは言い返さない。言い返せる立場ではなく、でも認めるには兄に近すぎる沈黙だった。
部屋の奥に、空の鉢が2つ置かれている気配があった。軽いものは、置かれているだけで音が違う。中身のない器は床に触れている面まで薄い。
タロが帰らないと止まる音が、ここにはいくつもある。噛む音。水を飲む音。寝る前に布を直す音。全部、あいつの足音を待っていた。
ネアは何も聞かなかった。
聞けば答えが増える。増えた答えを、今ここで食べられるものに変える方法はない。
◆
昼を過ぎて、ネアは市場へ戻らなかった。
湿った路地を抜け、足音の返りが広くなる場所へ出る。風が回り込み、乾いた草が擦れた。空き地だ。
金属を叩く音がした。
カン、カン、ガリ。
作る音ではない。壊して、中に残ったものを取り出す音だ。
「タロ」
金属音が止まった。
「……ネア?」
「何してる」
「鉄くず。銅の線だけ抜くと、ちょっと高く売れる。釘も分けると買ってくれるおっちゃんがいる」
説明が早い。自慢ではない。何度もやって、手順になってしまった声だった。
「朝は」
「荷運び。港のほう」
少し間があった。
「昼」
「薪割り。あと、壁の石運び」
少し間があった。
「夜」
「市場。行けたら」
行けたら、がもう予定ではない。
余った時間があれば、という意味でもない。体が残っていれば、というほうに近かった。
「親は」
タロはすぐ答えなかった。
足元で薄い金属がずれた。手で寄せたのだろう。軽いものと重いものを分ける音だけが、少し続いた。
「出稼ぎ」
「いつから」
少し間があった。
「半年くらい」
「帰るって」
少し間があった。
「書いてあった。最初は」
最初は。
そこから先を、タロは音にしなかった。言えば鉢の底みたいに薄くなることがある。空き地の風と鉄の匂いの中で、その短い言葉だけが重かった。
「ミナとリュウ、食べた」
「……行ったのか」
少し間があった。
「うん」
タロの息が荒くなった。怒ったのか、助かったのか、どっちも喉に詰まっている。
「余計なことすんなよ」
強い声のあとに、金属片がひとつ落ちた。拾わない。
「助かったけど」
その小さい付け足しのほうが、たぶん本当だった。
◆
空き地の外から、走る足音が近づいた。さっき壁際にいたリュウの足だ。息が切れている。転ばずに来ただけで精一杯の速さだった。
「にいちゃん」
「おう。ミナは」
少し間があった。
「ねた」
「そうか」
タロの声は普通だった。普通にしようとした声ではない。弟が来たらそこへ戻る、決まった場所みたいな声だ。
「腹、まだ」
「もうちょい待て。これ先に持ってけ」
紙包みが擦れた。
「半分な。ミナが起きたら食わせろ」
「にいちゃんは」
少し間があった。
「あとで食う」
「いつもあとで」
タロはすぐ笑わなかった。リュウの息だけが先に続く。
「あとで食ってるだろ」
「うそ」
短い沈黙。
タロが鉄を床へ置いた。叩きかけの仕事をいったん離す音だった。
「うそじゃねえよ。俺が守ってるから。お前らは家にいろ」
重く言ったわけじゃなかった。市場で荷物を持つ時の「そこ置いとけ」と同じくらい、普通の声だった。
だから余計に残った。ネアへ向けた言葉ではない。リュウに、ミナに、たぶん自分にも向けて、タロはそれをいつもの場所へ置いた。
リュウは包みを持って走っていった。
足音が遠ざかる。空き地にタロの息と、叩きかけの鉄だけが残った。
◆
「今の、忘れろよ」
「なんで」
少し間があった。
「かっこ悪いだろ」
「別に」
ネアの返事は短い。短すぎて、慰めにもならない。だからタロは少しだけ息を漏らした。
「別にじゃねえよ。弟にあんなこと言うの、なんかさ」
金属を拾い直す音がした。指が滑ったのか、釘が地面に落ちる。小さい音だった。
「おれ、もっとちゃんとできると思ってたんだよ」
ネアは黙っていた。
タロも、すぐには続けなかった。空き地の風が金属片をかすかに鳴らし、鳴った分だけ、言葉の置き場所がなくなる。
「親父が戻るまでだから。あとちょっとだから」
「いつ」
少し間があった。
「……もうすぐ」
もうすぐ。
半年待った子どもの「もうすぐ」は、今日を終わらせるための紐みたいなものだった。切れたら困るから、細くても握る。
ネアが最後の干し芋を出した。
「食え」
「いらねえ」
少し間があった。
「食え」
「お前さ、それしか言わねえの?」
少し間があった。
「うん」
タロが笑った。ほんの少し。受け取る音がした。
「借りだからな」
「いらない」
少し間があった。
「いる。返す」
「じゃあ、明日来い」
少し間があった。
「市場?」
「うん」
少し間があった。
「……行けたら」
ネアは何も言わなかった。
「行けたら」の重さを、ネアはもう知っていた。行く気がない言葉ではない。行きたいだけでは届かない時に出る言葉だ。だから、押さなかった。
◆
夜、ネアは家に戻って、俺をいつもの場所に置いた。
布から出される時、指が少し冷えていた。空き地の風が残ったのか、持ち帰らなかった言葉が冷えたのか、石にはそこまで分からない。
水を飲む音がして、しばらく何も続かなかった。
パンを食べる音はない。
『ネア』
「ん」
少し間があった。
『タロって、すごいな』
寝床の布が小さく擦れた。
ネアは少し遅れて答えた。
「……知ってる」
ネアを見守りたい人は、⭐評価かブックマークで。
——石より




