第13話「タロの秘密」
タロが最近おかしい。
朝、市場の通りを全力で駆けていく足音を聞くようになった。あの腹の底から踏み込む重い足。走っていてもすぐ分かる。タロだ。
問題は時間帯だった。いつもなら市場の開く頃にぶらぶら現れて、荷運びを手伝ったり、おっちゃんたちに小遣いをせびったりしている。それが最近、朝から走って、市場を素通りしていく。
「おい、タロ!」
乾物屋の女主人が声を張った。
「悪ぃ、おばちゃん! 今日も無理! 夜また来る!」
止まらなかった。声だけ残して角を曲がった。
(夜「また」って、最近毎日か)
女主人がふう、と息を吐いた。
「ったく、あの子」
怒っていない。あの子に付き合い慣れた声だった。
「最近ずっとだね。何やってんだか」
独り言だった。俺の近くで言っただけで、俺に言ったわけじゃない。
でも、気になった。
◆
昼。
仕分けが終わって、ネアが俺をポケットに入れた。帰り道——と思ったら、違った。
いつもと歩幅が違う。帰り道はネアの足取りがほんの少し緩むのだが、今日は緩まない。むしろ、どこかに向かっている歩き方だった。
(買い物か? いや、市場はもう過ぎたな)
路地を曲がる。もう1回曲がる。壁が近くなった。足音の反響が変わった。空気も変わった。スラムの奥のほうだ。
「ネア!」
高い声が飛んできた。女の子。幼い。5つか6つ。ネアに向かって走ってくる小さな足音が聞こえた。
「ミナ」
ネアが即答した。間を置かない。知ってる子だ。
「ネア、きたの」
「うん」
「にいちゃん、いない」
「にいちゃん」。タロの妹だ、と分かるのに3秒かかった。
「いつから?」
「あさから。ずっと」
ネアが黙った。何か考えている間ではなかった。ただ、ミナの言葉を受け止めた沈黙だった。
「おなかすいた?」
「うん。でも、いい。にいちゃん、夜にはかえってくるって」
——慣れている。この子は、これに慣れている。
ネアがしゃがんだ。ポケットの中で俺の体が傾いた。何かを取り出す。
「食え」
ぼろ布の包み。ネアが朝、パンを半分しか食べずに残したやつだ。
ミナは何も言わなかった。受け取って、すぐに食べ始めた。パサパサのパンを水もなしに噛む音だけが聞こえた。
(……お前、これのために残してたのか)
今朝の「もう半分、食わないのかよ」を思い出した。
そうか。俺はあのとき、ネアが節約してるんだと思った。違った。
ネアは最初からここに来る予定だった。
◆
ミナの食べ終わる音が止まって、少しだけ間があった。
「ネア」
「なに」
「リュウも腹すいてると思う」
リュウ。弟のほうか。タロが前に「弟が8歳」と言っていた。
「どこにいる」
「家。にいちゃんが『寝てろ』って」
ネアが立ち上がった。迷わず歩き出す。ミナの家に向かったらしい。
小さな家に入ると、中にもう1人の気配があった。壁際で座っている。ミナより体が大きい。でも動かない。起きてはいるらしいが、じっとしている。
ネアが何かしている。かばんの中を探る音。
「食え」
「……いい」
低い声だった。ミナより太い。8歳の男の子の、意地を張る声だった。
「いいから食え」
「……」
間があった。それから、何かを受け取る気配。
ネアが持ってきたのは、たぶん乾物屋の仕分けでもらった端っこの乾物だった。仕事の報酬とは別に、おまけでもらうやつ。あれを取っておいたのか。
リュウが食べている音がした。黙って食べていた。
ネアも黙っていた。
俺も黙っていた。
◆
夕方。
ネアの仕事が終わって、帰る道。
いつもと違う路地に入った。ネアが意図的に選んだ道だった。足取りに迷いがないから分かる。
金属音がした。カン、カン、カン。規則的で、荒い。鍛冶屋の音とは違う。もっと乱暴な、解体の音。何かをバラしている。
ネアが足を止めた。
空き地に出たらしい。風の通りが変わった。
そこに、タロがいた。
カン、カン——音が止まった。
「……ネア?」
声が低かった。腹から出ていなかった。俺がタロと出会ってから、こいつがこんな声を出したのは初めてだった。疲れている。いや、疲れを隠そうとして隠せていない声だった。
「何やってんの」
「鉄くず。バラして、銅の線だけ抜いて売るんだ。割がいい」
説明が端的だった。いつものタロなら自慢げに膨らませる。それをしなかった。
「毎日?」
「朝は荷運び。昼はこっち。あと薪割りとか、日雇いで使ってくれるおっちゃんが何人かいてさ」
淡々と言った。仕事の一覧を読み上げるように。
「親は」
「出稼ぎ。半年帰ってきてない」
「仕送り」
「最初の2か月だけ」
ネアの声にも、タロの声にも、同情はなかった。事実の確認だった。2人とも、こういうことに慣れている人間の話し方だった。
タロがまたカンと鉄を叩いた。
「あと1か月で戻るって、手紙に書いてあったから。もうすぐだ」
その「もうすぐ」を、タロがどれくらい信じているのか。声だけでは分からなかった。
◆
足音がした。走ってくる。
「にいちゃん」
リュウだった。さっき家でじっとしていた子が、ここまで来た。
「腹減った」
「ネアにもらっただろ」
「あれじゃ足りねえ」
タロの声が、一瞬で切り替わった。疲れた声が消えて、いつもの腹から出す声になった。
「もうちょい待ってろ。もう少しで終わる」
「……いつもそう言う」
「今日はほんとだって——ほら、これ。さっきおっちゃんにもらったやつ。半分ミナにもやれよ」
包みを渡す音。
「半分?」
「そう半分。約束だ」
リュウが受け取って、走り去っていく。ミナの名前を呼びながら。
空き地に静かが戻った。
タロがもう1度鉄を叩いた。
それから、ネアのほうを向いた気配がした。
「……今の」
「うん」
「忘れてくんね?」
「なんで」
「……かっこわりいだろ」
ネアは何も言わなかった。
俺も、何も言えなかった。
かっこわるい、とタロは言った。
——どこがだよ。
思っただけで、やめた。
言ったらたぶん、タロが照れて崩れる。こいつの今の顔は、崩していい顔じゃなかった。
◆
夜。
ネアが家に戻って、いつもの場所に俺を置いた。
しばらく、何も言わなかった。ネアの鼓動がいつもの速さに戻るのを、ただ聞いていた。
『ネア』
「ん」
『あれ、毎日やってるのか。タロ』
「……だいぶ前から」
知ってたのか。
じゃあパンを半分しか食べないのも、ずっとやってたのか。ミナのところに持っていくために。乾物屋でもらった端っこも取っておいて。全部、最初から。
半年ポケットにいて、気づかなかった。
『……すげえな、あいつ』
ネアが毛布の中で少しだけ動いた。
「知ってる」
短かった。
でもその「知ってる」は、ずっと前から見てた人間の声だった。
タロの家に、妹と弟がいた。
あいつが朝から走ってたのは、そういうことだったらしい。
正直、見直した。
……本人には絶対言わないが。
言ったところで俺、石だから聞こえないし。いや聞こえるけど。まあいいや。
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タロが気になったなら、その気持ちを、星に変えてくれ。
次回「雨の日」。
雨で仕事が休みになった。
動けない石と、無口な少女と、長い長い一日の話。
——石より




