第12話「薬師フリン」
朝、ネアはパンを半分齧って、もう半分を、ぼろ布に丁寧に包んだ。
(……もう半分、食わないのかよ)
思ったが、念話には出さなかった。出したところで、こいつは食わない。
ポケットに入れられる時、ネアの指が一瞬だけ俺を包んだ。いつもの一瞬。意味は、たぶんない。あるのかもしれないが、ネアは言わないし、俺も聞かない。
(……まあ、こいつはこういうやつだ)
昨日の夕方、あの家——熱を出した子どもがいた家——を出てから、ネアはずっと静かだった。市場でもいつもより言葉が少なかったし、夜も、寝返りが少なかった。怒っているのではない。考えている気配でもない。何かを「そこに置いたまま」にしている感じだった。
(俺もだけどな)
ポケットの布ごしに、ネアの鼓動を聞く。今朝はいつもの速さに戻っていた。
少しほっとした。石にほっとするも何もないが、気持ちの上で。
◆
昼前、ネアはいつもの仕分け仕事をしていた。石喰いも、今日も、来た。
カタ、カタ、カタ。
今日は1回で諦めて、早々に狸寝入りに入ったらしかった。カツンと乾いた音のあと、気配だけが居座る。
(お前も毎日ご苦労だな)
仕分けが一段落した頃、乾物屋の女主人がネアに声をかけた。
「ネア、悪いけど、フリン婆さんのとこ、これ届けてくれない」
布包みが台の上に置かれる音がした。紙にくるまれた、乾いた葉のような音。
「……薬草」
「そ。いつものやつ。婆さん薬師やっててさ。これがないと仕事にならないんだけど、もう腰が伸びなくて、自分で取りに来れないんだよ」
「……わかった」
ネアが布包みを受け取った。仕分けの礼にコインが1枚、それとは別に、小さな紙包みも渡された。中で細かい粒がさらさら擦れる音がした。
「塩もちょっと足しといたから。使いな」
「……ありがと」
(塩か。薬草届けるだけで塩をもらえるなら、いい仕事だな)
廃都では塩は高い。半年、ポケットの中で市場の会話を聞いてきて、それくらいは覚えた。
「気をつけなよ。婆さんの家、路地の奥だから」
「……知ってる」
ネアは短く言って、店を出た。
◆
市場通りを抜けて、細い路地に入る。
空気の温度がすっと下がった。日陰に入ったらしい。それから、空気の重さが変わった。湿った場所に近づくときの、あの重さ。
(水場のほうか)
初めて通る路地のはずだった。ネアが仕事で歩く道ではない。でも、足音に迷いがなかった。何度か来ている道らしかった。
角を2つ曲がる。途中、ネアの足取りが一瞬不自然にずれた。足元の何かを避けたらしい。
そして、扉に手が触れる音。古い木の扉だった。軋まない。よく使われている扉は、軋まない。ときどき油を差している扉だ。
「……フリンさん」
ネアが小さく声をかけた。いつもより、少しだけ、丁寧な声だった。
「入っておいで」
声が返ってきた。
低かった。掠れていた。でも——年齢が判別できない声だった。老人のようでもあり、そうでないようでもあり。長く、低く話してきた人の声。掠れそのものが、道具のようだった。ゆっくり話すための道具。
(これが薬師か)
扉が開いた。
◆
中に入った瞬間、空気が変わった。
乾いた葉の気配——鼻はないので匂いではない。空気の質感、と呼ぶしかない何か。天井から何種類もの束が吊るされているらしい気配が、空気の層の重なり方で伝わってきた。
奥のほうで、ことり、と小さな音。乳鉢の音らしかった。硬いものをゆっくり押している音。
「ネアかい」
声が、奥から来た。
「うん」
「こっち来て座んな。そこの敷布」
ネアが床に座る気配。膝を畳む音。
「乾物屋の使い」
「そう」
ネアが布包みを差し出す音。乳鉢の音が止まった。紙がほぐされる音。葉が少し崩れる、乾いた音。
「……いい葉だね。今年は乾きが遅いって聞いたけど、ちゃんと乾いてる」
フリンが独り言のように言った。ネアは、答えなかった。
「ここ置いとくから。代金、あとで店に届けとく」
「……うん」
しばらく、乳鉢の音だけが続いた。ことり、ことり、と。急いでいない音だった。
(……静かだな、ここ)
壁が近い気がした。四方が低い天井と近い壁に囲まれた、小さな部屋。薬師は狭いところに多くの物を置くものらしい。
◆
「ネア」
フリンが、ふと手を止めた。
「うん」
「最近、廃都の水、飲んでるかい」
「……ときどき」
「どう、味」
「……」
ネアが、少し考えた気配。
「……前より、マシ」
「マシかい」
「……前は、変な味だった。飲まないようにしてた。最近は、大丈夫」
「うん」
フリンは頷いたらしい。衣擦れの音が小さく動いた。
「この街の水、最近きれいになってるんだよ」
ぽつり、と言った。独り言なのか、ネアに言っているのか、分かりにくい言い方だった。
(……)
俺は、黙っていた。黙るしかなかった。
水場は、たしかに、何度か澄ませた。力石スキルで、流れがこもっていた水路に、意識を当てて、「戻れ」と語りかけた。あれが効いていたなら——廃都の水が少し変わっていても、おかしくはない。
(俺がやった、んだよな)
内心で、言ってみた。
でも、口には——念話にも——出さなかった。出せなかった、が近い。誇らしげに言える気分じゃなかった。昨日、自分の力の輪郭を知ったばかりだ。引き出すことしかできない。作ることはできない。それを分かった直後に「俺がやりました」と胸を張るのは、なんだか、違う。
(……黙っとくか)
(バレたら、面倒だし)
「気のせいかねえ」
フリンはそう言って、また乳鉢を動かし始めた。ごり、ごり、と。さっきより、少しだけ、音が早い気がした。
◆
沈黙が、少しあった。
ネアは動かなかった。座ったままだった。
フリンが、もう1度、手を止めた。
「ネア」
「うん」
「そのポケット」
(は?)
一拍遅れて、何を言われたのか分かった。
「その、右側のポケット。なんか入ってるだろ。何入れてるんだい」
ネアの指が、ぽん、と俺の上を軽く叩いた。いるよ、の確認だった。こっちにも、そっちにも。たぶん、両方向けの合図だった。
「……石」
「石ね」
フリンが、短く息を漏らした。笑いのような、笑いでないような、息だった。
「見せてもらっていいかい」
「……」
ネアが、少し黙って、ポケットに手を入れた。
温かい指に包まれて、俺はポケットの外に出た。
指が、来た。フリンの指。細くて、節くれだって、乾いている。長年、乳鉢を握ってきた手の形だった。
その指先が、俺の表面に、そっと置かれる。
動かなかった。しばらく、置かれていた。
「……」
フリンも、黙っていた。
息の音だけが聞こえた。長く、ゆっくり、吐いて、吸って。
俺も、黙っていた。念話は、出せなかった。この人の手のひらの上で何か呟いたら——届きそうな、そういう気配があった。
フリンの指先が、俺の表面を、ゆっくりとなぞった。何かを確かめるように——いや、何かを聴いているような動きだった。乳鉢を擦る手つきとは違う。もっと、耳を傾けるような。
(この人、俺から何か、聴いてる?)
やがて、指が離れた。
「……変な石」
ぽつり、と、フリンが言った。
(え)
「……変な石だね」
もう1度、言った。
今度は、少しだけ、笑いが混じっていた。面白がっている種類の笑いだった。「変な石」は、意味を断定する言葉ではなかった。何かを感じた、という、手前の段階の声。興味を持った声。
(……またか)
(俺、廃都中の爺婆に「変な石」って言われる流れか)
ネアは、何も言わなかった。フリンが俺をネアに返す。ネアの手に戻る。ポケットに入れられる。布の温度に戻る。
◆
「ネア」
フリンが、また口を開いた。
「うん」
「最近さ」
乳鉢の音が、また止まっていた。
「この廃都に、ちょっと、力が戻ってきてる気がするんだよ」
ネアの鼓動が、一瞬だけ、速くなった——気がした。半年分のリズムに照らしたら、ほんのわずかな変化だった。普段なら気づかないくらいの。
「気のせいかねえ」
フリンはそう言って、また乳鉢を動かし始めた。
ごり、ごり、ごり。
ネアは、答えなかった。
俺も、答えなかった。
答えられなかった、が、近い。
薬師の家は、狭かった。
葉っぱが天井からぶら下がっていて、乳鉢の音が、ずっとしていた。
婆さんに「変な石」と言われた。
「変」にもいろいろあるらしく、本人としては、気になる種類の変だった。
……あと、廃都の水の話は、聞こえなかったふりをした。
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あいつがちゃんと働いてるらしい、という噂、本当かどうか。
——石より




