第11話「力石スキルの限界」
ネアが、いつもと違う道に入った。
仕事終わりだった。市場通りから逸れて、スラムの奥のほう。路地が細くなり、壁が近づいてくる。日の届かない一角に入ったのが、空気の温度で分かった。
ネアの足取りに迷いはない。何度か来ている道だ。
(今日、どこか行くって言ってたっけ)
言ってなかった気がした。でも、ネアは元々あまり言わない。
細い扉の前で、ネアが止まった。軽くノックの音。返事はなかった。扉が開く音。軋まなかった。何度も開け閉めされている扉の音だった。
「ネアちゃん」
女の人の声が中から聞こえた。若くはない。でも年寄りでもない。芯の細い、疲れた声。
「……水、替えにきた」
「ありがとう。入って」
ネアが中に入った。
——空気が、重い。
湿気と、人の熱と、それから、何か静かに溜まっているもの。部屋の奥から、呼吸の音が聞こえた。早い。浅い。規則的じゃない。
子どもだった。
◆
「3日目なんだよ」
女の人が、ぽつりと言った。
「水だけは飲んでくれるんだけどね」
ネアが短く頷いた気配があった。返事はしなかった。代わりに、ポケットから俺を取り出して、枕元の床にそっと置いた。
その手つきに、普段と違うものは、何もなかった。ネアは仕事の時と同じ落ち着きで俺を置いた。落ち着いているからこそ、何度もこの場面を繰り返してきたのだと分かった。
床の木目を通して、部屋が広がる。
小さな体が布団の中にあった。壁際に女の人が座っている。ネアが水差しを持ち上げる音。慣れた手つき。前にも何度もやっている。
(ネア、ここに通ってるのか)
半年ポケットにいて、今日まで知らなかった。
ネアが水を替える。布を湿らせて、子どもの額に当てる。女の人は、黙って見ていた。手伝うでもない。止めるでもない。ただ、見ていた。
「ネアちゃん、置いて帰って大丈夫だからね」
「……まだいる」
ネアの声は低かった。気を遣っているのではなかった。本人が、そうしたかった。
◆
子どもの呼吸を聞いていた。
体温は高い。心臓の音も速い。小さい胸郭が、熱と追いかけっこをしている。布団の擦れる音が、ときどき急に強くなる。うなされているのかもしれなかった。
(……熱い)
部屋の空気が、そう言っていた。呼吸の早さも、布団の擦れる音の慌ただしさも。
壁は直した。水もきれいにした。
じゃあ——
(この子の熱、下げられるか?)
分からなかった。やったことがない。でも、壁の時も「やってみよう」で始まった。水の時もそうだった。
試す価値はある、と思った。
(戻れ)
熱い小さな体に向けて、意識を集めた。
(戻れ。元の、健康な体に)
——
何も、起きなかった。
壁のときにあった「うん」という応えが、ない。水のときにあった「澄む」感触もない。石に何かが返ってくる手応えが、完全にゼロだった。
でも、俺のほうに、変化があった。
重い。
石なのに、重くなった。体の芯——というものが石にあるのか知らないが、その奥から、何かが薄く削られていく感じがした。地脈との繋がりが、ほんの少し遠くなった。ネアの鼓動の音も、いつもより遠い。
(あれ)
やめたほうがいい、と、俺の中の何かが言った気がした。
やめなかった。
この子の呼吸が、さっきより浅くなった気がした。たぶん気のせいだった。たぶん変わっていなかった。でも、変わっていないことが、一番怖かった。
(治れ。頼むから治れ)
もう1度、押し込むように意識を向けた。
子どもの呼吸は変わらない。早いまま、浅いまま。
代わりに、俺の中の何かが、また少し減った。
◆
念話を出そうとした。
『ネ——』
途切れた。
声が——いや、石に声はないが——念話が、かすれた。届いたかどうか、分からないくらいに。
「……イシル?」
ネアの声が、すぐそばで聞こえた。
振動が近い。枕元にしゃがみこんだ気配。
『……いる』
弱い返事しかできなかった。
「……何してる」
『……この子、治らないかと』
ネアがしばらく黙った。
呼吸が止まっているのかと思った。違った。息を止めて、何かを聞いていた。
「……声、変」
『……そうか』
「……いつもと違う」
——ネアに、分かったらしかった。
ネアの手が、俺を拾い上げた。
地脈から離れる。部屋の広がりが消えて、ネアの体温と鼓動だけが残った。いつもの場所。ポケットの中。
——ネアの鼓動が、いつもより速かった。
「……やめて」
小さい声だった。
怒鳴ってはいない。怒ってもいない。でも、そこにある温度は、俺が今まで聞いたどのネアの声よりも、はっきりしていた。
「……やめて」
もう1度、言った。
ネアの指が、俺をきつく握っていた。痛くはない。石だから痛みはない。でも、力の強さが、ネアが今どれだけ何かを抱えているかを伝えてきた。
『……悪い』
謝るしかなかった。
◆
家を出た。
夜気が冷たかった。ネアは何もしゃべらなかった。俺も、しゃべれなかった。かすれが尾を引いていて、念話を出しても半分しか届かない気がした。
ポケットの中で、ネアの鼓動を聞いていた。家に入る前より、少しだけ速かった。歩幅も、ほんの少し速かった。怒っている歩き方でもない。焦っている歩き方でもない。ただ、早く家に帰りたい、という速さだった。
途中、ネアが1度だけ足を止めた。何かを考えた気配はなかった。ただ、立ち止まった。
それから、また歩き出した。
家に着いて、いつもの場所に俺が置かれた。ネアが毛布の中に入る音。
(……何か、言うべきか)
言葉が浮かばなかった。
しばらく、何も言わないままだった。
「……イシル」
ネアの声が、毛布の中から聞こえた。
『ん』
「……もうするな」
短かった。
『……ああ』
それで、終わりだった。
◆
夜が明けた。
夕方、ネアはまた同じ家に寄った。
扉を開ける前から、空気が違った。重さが抜けていた。
「ネアちゃん」
女の人の声が、昨日より柔らかかった。
「夜中にね、汗かいたの。今朝、熱が下がった」
ネアの足が、ほんの少しだけ止まった。
「……そう」
それだけだった。でもネアがその一言を言うまでに、昨日の夜から今日の夕方までの時間があったのだと思った。
布団のほうから寝息が聞こえた。昨日の、早くて浅い息じゃなかった。深く、規則正しい。今朝までに流された汗の量を、寝息だけで想像できるくらいだった。
「水、替える」
ネアは、それだけ言った。いつもの「別に」も言わなかった。ただ、手だけが静かに動いていた。
(治ったのか)
俺は何もしていなかった。昨日、何もできなかった。それは、俺が一番分かっていた。
でも、子どもは、治った。
(この子が、自分で治したのか)
汗をかいて、眠って、朝を迎えた。俺が祈ったからじゃない。この子の体が、自分でそこに戻った。
◆
夜。
ネアが眠った後、俺は考えていた。
壁も、水も、今日の子も——みんな、元々「戻る力」を持っていた。
壁は、俺が「戻れ」と言ったら戻った。水も同じ。俺の声が届いた。
でも子どもの体は、違った。俺の声は届かなかった。届いたのは、子ども自身の中にある、子ども自身の声だけだった。
たぶん、そういうものなんだと思う。石から石へは呼びかけられる。石から水へも呼びかけられる。でも、生き物の中に戻る力は、本人にしか呼び出せない。
(——俺、何もしなくても良かったんだな)
少し、悔しかった。
でも同時に、少しだけ、ほっとした。
(引き出す、か。作り出すんじゃなくて)
声には出さなかった。念話にも出さなかった。ネアは寝ている。今はネアを起こすような言葉じゃないと思った。
明日のネアが、いつも通りの素っ気ない顔で起きてくれれば、それでいい。もし起きてきたネアが昨日のことを一言も口にしなかったら、それは許してくれたということだと思うことにする。
ただ、そう思った夜だった。
昨日、俺は頑張ろうとした。
頑張り方が間違っていたらしい。
石には石のやり方がある、ってことで。
ネアに「やめて」と言われた。
あの声、しばらく忘れられないと思う。
怒っても泣いてもいなかったけど、あれは、ネアが俺のことを本気で心配した声だった。
たぶん、今まで聞いた中で一番、あいつの声だった。
次回「薬師フリン」。
廃都の薬師、という職業の人が出てくる。
俺が力を使わなくても治せる人が、たぶん、いる。
——石より




