25.遠い記憶
「ノーマン! あれは、妄想なんかじゃないわ! あの日ミエスは、音楽室の窓下の花壇を手入れしながら、やけに真剣な顔をして、『俺は、大変なことに気づきました。旦那様に、どうしても伺わなければならないことがあるんです』と言っていたの。気になったけれど、わたくしには、それ以上話してくれなかった。 ミエスは、お父様に何かをききに行ったのではなくて? そして、そこで恐ろしいことが起きて、あの子は戸板で運ばれることになったのではないの?」
「考えすぎでございますよ。あの日、ミエスは侯爵様に呼ばれ、領地屋敷へ行くように命じられました。ご指示通り、彼は、翌朝早く領地屋敷へ手伝いに向かったのです。それだけのことです。彼はもちろん、この屋敷から戸板で運び出された者など誰もおりません」
「嘘よ! ミエスは、久しぶりに休みをもらって家に帰っていたでしょう? きっとそこで、この屋敷に関わる秘密を知ったのだわ。以前からあの子は、亡くなったわたくしの婚約者たちにも興味を持っていたの――。だから、もしかしたら――」
エリアルの悲痛なつぶやきが、音楽室前の廊下に響いていた。
ノーマンが、静かな怒りを込めた眼差しを彼女に向けている。
さすがに、主を怒鳴りつけたり、叱りつけたりはできない。
だが、彼の胸の中に、何か新たな感情がわき上がっているのは間違いなかった。
ジェニーは、己を鼓舞しながら、二人のやりとりに割って入った。
「わたくしは、兄とあの夜のことを話し合い、兄が招魂術で救命したのは、この屋敷で働いていた少年だろうと考えました。その後、王都警備騎士団の知人から、この屋敷の庭師見習いの少年――ミエスの兄夫婦が、不審な投げ文を見てここへ押し掛けたことを聞き、わたしは自分の推察通りなのだと思いました。ノーマン、そろそろ認めたらどうですか? ミエスは、領地屋敷へなど行っていない。彼は毒を口にして、今、別邸で療養しているのでしょう?」
ジェニーの言葉を聞くと、エリアルは、はっとしたような顔でノーマンを見つめた。
「毒? そうなの、ノーマン? ジェニー嬢の言っていることは、本当なの?」
ノーマンは、二人の厳しい視線に耐えながら、表情を硬くして唇を噛んだ。
これ以上は何も言うまい、何を聞かれても、否定も肯定もするまい――と彼は心を決めていた。立場上、勝手な判断や発言は、命取りになりかねなかった。
ジェニーは、強ばったエリアルの肩に優しく手を載せ、彼女を落ち着かせた。
「本当ですとも――。ミエスは毒で命を落としかけましたけど、兄の術が功を奏し、徐々に回復に向かっているそうです。王都騎士団も、この件の捜査から手を引くつもりはありません。実は、彼らは真相を探るべく今も動いています。《《あなた》》が書いた投げ文は、ちゃんとミエスの役に立っていますよ」
「ジェニー嬢――、あなたは、どうしてそれを――」
エリアルは、屋敷を出ることはできなかったが、ノーマンの目を盗んで、屋敷に出入りする卵売りの娘に投げ文を頼んだのだった。
「以前、町で出会った好ましい青年が、石屋の弟子だと言っていたの。どうかこの手紙を、彼が働く石屋の店へ投げ込んできてちょうだい」
エリアルにそう頼まれれば、お嬢様の秘密の恋を手助けするというロマンチックな役割を夢想し、娘は喜んで引き受けた。
お嬢様から美しい絹の手巾を受け取りながら聞いた、「誰にも内緒よ」というささやきは、彼女の平凡な日常に宝石のような輝きを与えてくれた。
だから、ノーマンから投げ文のことを問われたときも、彼女は約束を守り、けっして口を割らなかった。
ジェニーは、屋敷の状況から、投げ文はエリアルによるものだろうと推理したが、それは間違ってはいなかった。
エリアルは、崇拝するようなまなざしをジェニーに向けていた。
ジェニーは、詳しい事情を知らなかったが、彼女を安心させようと黙って微笑んだ。
「そうか、お嬢様だったのですね! 下働きの者か出入りの物売りに、こっそりあの投げ文を頼んだのでしょう? まったく余計なことを! 侯爵様にしても、あなたにしても、なんであんな生意気な見習い庭師の小僧に、そこまでこだわるのですか!?」
ノーマンが、怒りを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。
たかが見習い庭師の小僧――。
ミエスは、由緒ある侯爵家から見れば、取るに足りない存在のはずだった。
だが――。
(このノーマンという執事は、エルヴィーラ嬢の失踪騒動のあとで、この屋敷へやってきたのだったわ。多くの使用人は、騒動の責任を取らされ、解雇されたり別邸や領地屋敷へ移されたりした。エルヴィーラ嬢のことを知っている使用人は、今のスタインズ侯爵邸にはほとんどいないはずだ――と、夕べお兄様は言っていた――)
ジェニーは、エリアルを抱えるようにして前へ進み出ると、音楽室の扉を開けた。
ノーマンは、それを止めることもせず、扉の横に立ち尽くしていた。
「あなたも一緒にお入りなさい、ノーマン。なぜ侯爵やエリアル嬢が、見習い庭師の少年を気にかけずにいられなかったのか、少し長い話になるけれど、わたくしが説いて聞かせるわ」
ノーマンは、一瞬、訝しげな顔をしたが、ジェニーの言葉に従い、仕方なさそうに音楽室の中へ入ってきた。その後に続いたクレアが、静かに扉を閉めた。
ジェニーは、手近にあった椅子にエリアルを座らせると、クレアに命じて窓を開けさせた。
微かに花の香りを含んだ風が、音楽室の中へ流れ込んできた。
(きっとミエスは、窓の下の花壇を手入れしながら、エリアル嬢が弾くピアノの音色に耳を傾けていたんだわ。それによって彼は、封じられた遠い日の記憶を、少しずつ思い出すことになったのね――)
エリアルが抱えている青いリボンの花束を見つめながら、ジェニーは、窓越しに語らう二人の姿を思い浮かべた。それはやがて、別の二人へと姿を変えていく――。
「なぜ、スタインズ侯爵は、魔道士団長に願い出てまで、見習い庭師の少年の命を救おうとしたのでしょうか? その理由を知るためには、二十年以上時間を遡る必要があります――」
ジェニーが静かに語り始めたのは、夕べ遅く帰宅した兄から伝えられた情報を、パズルのピースを一個一個はめ込むようにしてまとめ上げた一つの仮説だった――。
*
二十年以上前、王家の離宮建設のため、隣国からもたくさんの職人がやって来た。
多くの者は、離宮の建設が終わると、母国へ戻っていった。
しかし、働き盛りの職人の中には、この国が気に入りここに定住する者も現れた。
王家の離宮建設に刺激されて、王都屋敷や領地屋敷を手直ししたり立て直したりする貴族がいたので、彼らは引く手あまただった。
ミエスの祖父や父も、この国に移住し新たに店を構えた者の一人だ。
そして、一緒に離宮の造園に携わり、彼らと親しくなった造園技師テオフィルも、王都に事務所を借りてこの地で働き始めた――。




