20.救いの女神の降臨
あと少しで音楽室というところで、追いかけてきたノーマンが、回り込んで扉の前に立ちはだかった。彼は、これ以上先へは行かせまいとするかのように両腕を大きく広げた。
「お嬢様、なりません! 旦那様から、他人を勝手に家に入れないよう命じられております! お部屋へお戻りください! それから、ジェシー先生、お嬢様の体調は、まだ万全ではありません。あなたも事情をお察しの上、早々にお帰りください!」
額に汗を浮かべながらも、本来の威厳を取り戻したノーマンは、執事の職務に徹するべく、ジェニーの方へ一歩近づき足を止めさせた。
ジェニーの後ろについてきていたクレアは、この身の程をわきまえない執事の態度にカチンときた。ジェニーとノーマンの間に割って入ると、何があっても、この不埒者をこれ以上主に近づけるものかと、こちらも両腕を勢いよく広げた。
「ノーマン殿! 先ほどの花束のことといい、どれだけわが主を愚弄なさるおつもりですの! ジェニー様の侍女として、このような扱いを見逃すわけにはまいりません!」
「ジェニー? ジェニーとは、どういうことですか!? この方は、ジェシー・オルグレン先生ではないのですか!?」
怒りにまかせ、ノーマンに詰め寄ろうとしていたクレアは、自分のしくじりに気づき、しまったという顔をして体を強ばらせた。
「なんと、偽名を使っていたのか! ドゥラブル侯爵夫人の紹介だから、断り切れずに受け入れたが、とんだ食わせ者だったのだな! 何が目的だ!? この屋敷の秘密でも握って、強請ってやろうという魂胆か!?」
ノーマンは、不信感を込めて、ここぞとばかりに思いっきりクレアをねめつけた。
クレアは、彼の容赦ない視線から主を守ろうと、こちらもねめつけ返した。
「ジェニー……、今、ジェニーと言いましたよね? もしかして、あなたは……、ジェニー、ジェニー・ダフィールド様……、なのですか!?」
にらみ合った二人の横で、驚きの声をあげたのはエリアルだった。そして、大きな瞳を見開くと、ジェニーに近付き、何かを思い出そうとするかのように、眉を寄せて彼女の顔を見つめた。
ノーマンとクレアも、にらみ合うのをやめて、エリアルの動きを目で追った。
「そうだわ! あなたは、ジェニー・ダフィールド様! 一年ほど前、勇気を出して出かけていった夜会で、厭わしいものか忌むべきものでも見るような人々の目線にいたたまれなくなっていたわたくしへ、飲み物を勧め、声をかけてくださった優しい方……。あなたの『お久しぶりですね? お元気でしたか?』というさりげない言葉に、どれほど安堵し、励まされたことか――」
花束を抱きしめ直して、エリアルは涙をこぼしながら頭を下げた。
確かにあの日、ジェニーは、ダンスの輪から離れてぽつんと立っていたエリアルに、果実水のグラスを渡して少しだけ話をした。
二人が一緒にいたのは、ほんの短い時間だった。よもや、あの程度のことで、自分が彼女の記憶に残っているとは考えてもみなかった。
ジェニーは、改めてエリアルに丁寧な挨拶をした。
「いかにも、わたくしは、ジェニー・ダフィールドです。やむを得ぬ事情があったとはいえ、偽りの名を名乗り、ピアノ教師としてあなたに近づこうとしたことは深くお詫びします。失礼を致しました。それにしても、一年も前のことなのに、わたくしのことをよくおぼえていらっしゃいましたね? 確かに、互いに名乗り、言葉を交わしはしましたけれど――」
「心無い人は、あなたのことを『じゃないほうの方』などと呼んでいるようですけれど、わたくしにとっては、救いの女神ともいうべき存在でした。いつか、もう一度お目にかかりたいとずっと願っておりました」
実は、その後出席した大きな夜会で、ジェニーは一度だけエリアルを見かけていた。彼女の方では、ジェニーにまったく気づかなかったようだが――。
彼女が、噂を気にせず社交の場へ顔を出せるようになったことがわかり、ジェニーは遠くから見つめながら満足していた。
人混みに紛れ、「その他大勢の一人」となってしまったジェニーは、知り合いであっても簡単には見つけられない。「じゃないほう令嬢」には、よくあることだ。
「ジェニー様、あなたのような方が、名前を偽ってまでわたくしに会いに来てくださったというのは、どのような事情でしょうか? まさか……、もしかして……、あなたは、またわたくしを助けに来てくださったのですか!?」
エリアルはそう言うと、不安と期待がないまぜになった顔をジェニーへ向けた。
その様子から、ジェニーは、自分の想像が間違っていなかったことを確信した。
エリアルは、ミエスの身に異変が生じたことに気づきながら、何もできず一人で思い悩んでいたのに違いない。
「ダフィールド……、そうか、そういうことか! あれほどお止めしたのに、侯爵様は魔道士団長に連絡してしまった。たかが庭師見習い一人、あのまま捨て置いても良かったのに妙な情けをおかけになって――。その結果が、この騒ぎだ――」
ノーマンは、低い声で、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。
そして、不穏な光を宿した瞳で、ジェニーの顔を憎々しげに睨んだ。
「ジェシー……、いえ、ジェニー・ダフィールド嬢、改めて申しますが、すぐにお帰りください。お見舞いのお花をお嬢様がお受け取りになったのだから、もうそれで十分でしょう? この屋敷では、事件や事故は起きておりません。あなたのお兄様にも、そのようにお伝えください。これ以上の詮索は、迷惑です!」
必死でミエスを別邸へ運び、侯爵家との繋がりに気づかれないように気をつけながら、ジェレミー・ダフィールドを迎えたはずだった。
助命が成功したのだから、それで彼の仕事は終わったはずだ。それなのに、彼は、なぜかスタインズ侯爵家との関係を突き止め、妹まで送り込んでこの屋敷で起きたことを調べようとしている――。
ノーマンは、ジェレミーの真意が掴めず不安を感じた。
だが――、何か証拠があるわけでもない。
ミエスの事故を知る者は、きわめて少数で、多くの使用人は、彼が領地屋敷へ行くことになったというノーマンの説明を信じている。
ミエスの兄たちが押し掛けてきてから、使用人たちには、余計なことを聞かれたり喋ったりしないように外部の者との接触を禁じてはいるが、それを訝しがる者はいない。
「投げ文」をした犯人だけは気になって、密かに探してはいるのだが――。
だから、ダフィールド兄妹の動きなど気にせず、従来の対応を繰り返せばいいのだ。
まもなく、王都警備騎士団も捜査からは手を引くのだから――。
見習い庭師のミエスは、領地屋敷の手伝いに行った――。
この屋敷では、何も不審なことは起きていない――。
どこまでも、それで押し通せばいいのだ――。
ノーマンは、不安を振り払い、ジェニーたちを再び玄関へ押し戻そうと構えた。
「嘘だわ――。わたくしは、見たのよ! あの晩、誰かが戸板に乗せられて、屋敷から運び出されるのを――。あれはミエスだったのではなくて? ノーマン、ミエスは……、本当は……、今どこにいるの!?」
エリアルは、抱えていた花束をさらに強く抱きしめて、ノーマンに訴えた。
ノーマンは、一瞬顔を歪めて怯んだが、すぐに忠実な使用人の仮面を被り直した。
「お嬢様、何をおっしゃるのです? お心を許していたミエスが、領地屋敷へ行ってしまったことで、おかしな妄想に取り憑かれてしまわれたのですね? お可哀想に――。お薬を飲んで、お部屋でお休みください。まだ、人に会えるようなご体調ではないのです。無理をしてはなりません」
ジェニーとクレアの顔を見ながら、念を押すように最後の言葉を付け足した。
だが、エリアルは、おとなしく引き下がりはしなかった――。




