家なる妻はさやに見もかも
翌日目覚めるときちんと自分の宿の寝台で眠っていた。装備も解かれ、身体も清められていた。
背後からしがみ付かれている。鼻を鳴らすと森の匂いが香る。ヴィダードだ。
昨日は昼から飲み始めて宴会は夜まで続いた。最後の方の記憶は朧げではっきりと覚えていないがリンメイに罵られていた気がする。
彼女がシンカに怒りをぶつけるのには理由がある。
彼女が姉の様に慕うシンカの義理の姉、リンファとは昔恋仲にあったのだ。
姉とは言え数月しか生まれた日時は変わらないのだが、シンカが養父に引き取られてからは随分と年上ぶってこき使われたものだ。
恋人関係というのもリンファが始めリンファが終わらせた。
若い頃の思い出である。リンファから恋人関係の解消を告げられてシンカはその晩に里を出た。以来里には戻っていない。
今となってはナウラやヴィダードと出会い、充足した毎日を送る事ができている。
リンメイはリンファとシンカに縒りを戻して欲しいと願っており、それが叶わないのはシンカの甲斐性が足りていないからだと考えているのだ。
シンカはまだ里を中心に活動していた頃の事を夢に見ていた。初めて女と付き合った、淡く苦い記憶だった。
宿の窓からヴィティアの壁を窺う。門までは見通せないが、壁の上を巡回する兵士の姿が小さく眼に映る。
今から4日前に国境近くの街が落ちたと言う事は敵は既にある程度進軍していると見るべきだろう。マルン城塞まで辿り着いている可能性すらある。
軍備を整えての進軍は出来るだけ早く行うべきだろう。幾ら時間が掛かるとは言え悠長にすぎる。
着替えていると窓の枠に1羽の鳥が止まった。
丸みを帯びた頭と体。色は体が明るい茶、羽は濃い灰色、頭は茶だが目の部分だけ帯びの様に黒い。喉元は白で鋭く黒い小さな嘴が付いている。
体調は1尺程。愛らしい魍魎だが、肉食の獰猛な魍魎である。
一尺百舌。
脚に文が結び付けてある。
百舌に突かれそうになりながら文を取ると、ヨウロからであった。
至急装備を整えて簡易宿泊施設に来るべし
いよいよ始まる。
シンカの内心は苦々しい。
以前はカヤテの存在が有ったからこそ従軍した。それも好き好んでではない。
森渡りとしての力は平地や大勢の兵士の中で発揮し難いということもあるが、何よりシンカにとって必要の無い事である所が大きい。
人間は争いが好きだ。それはシンカとて変わりはない。自分を貫き守る為には最期は暴力を用いるしかない。
だがこれは人間だけに言えた話ではない。どの様な小さな魍魎であっても異性を奪う為に争うし、襲われれば反撃する。食べる為に襲い子孫繁栄の為に犯す。
だからこそ戦争がしたいのであれば止めはしない。それが森渡りの考え方だ。
但し自分に火の粉が降りかかるのであれば争わなければならない。
だがその理念と同時にシンカの中に燻る疑問もある。
これ程迄に醜い事象が何故存在するのか。
それをシンカは時折考える。
ユタには人を殺して得られる名声など碌なものではないと知って欲しい。
歴史を振り返っても名のある偉人達は皆惨憺たる最後を遂げている。
ヴィダードを起こし、ナウラとユタを起こしに行く。
2人とも酒臭いが仕方がないだろう。
一足先に支度を終えると代謝を上げる薬を調合する。代謝を上げ体内の酒精を飛ばすのだ。
2年前にユタに残したものと同じ薬だ。
3人の準備が終わると薬師用に充てがわれた宿泊施設へと足を向けた。
宿泊施設は木造の二階建て棟割り長屋で、ヴィティアらしい開放的な間取りとなっていた。
共同井戸の周りに人が集まっている。森渡り達の姿もある。
集団に近付くとソウハが声を掛けてきた。
「おー、来たか。さっき先触れがあってな。これから役人が来るらしい。薬師達を10人ずつに分けて軍に医療班として組み込み出陣するらしい。スライに定住している薬師は除外するとの事だ」
「薬師組合に薬の売買記録を提出させたから逃れられないとの事だ。住民台帳と比較すれば逃れられないな」
「どうするヨウロ、シンカ、ジュナ。これは泥舟だぞ」
「口が過ぎるぞソウハ。王政の人間に聞かれたらどうする」
方針は基本的に年長の4人で決めるらしい。
「まあ、行くしかないだろうな。前線は避けたいが、そうもいかんだろう」
「割り振りはどうするの?他の薬師は?」
「俺は自分の弟子3人とリンメイで組む。いいか?」
「リンメイか。あの子は優秀だが未熟だ。お前なら安心だ。シンカ」
「私とソウロは一緒でもいいわよね?」
「ああ。夫婦だからな。後はツルクを頼む。俺は弟子のロランとセンヒで組もう」
残る40人程の何も知らない一般的な薬師は流れに任せるしかないだろう。
結局薬師組合の指示によりシンカの元には30代の夫婦、50代後半の男性老人、20程度の若い女、30手前の優男が配置されることになった。
5つに分けられた薬師達はそれぞれ5つつの軍勢に割り当てられることとなった。
軍勢は其々5000。ヨウロが第一軍、シンカが第二軍、ソウハが第四軍に割り当てられた。
「シンカ。私達10人で5000もの兵を治療出来るのでしょうか?」
「……ナウラ……僕達の軍が5000人全員怪我した時は、きっともう負けてるよ………」
「…………」
ナウラの耳が赤くなった。
同日昼下がり、第一軍に続いてシンカの配置された第二軍がスライの町を出た。
第二軍は公爵であるラビン・オールドーの嫡男、アドル・オールドーが率いている。軍勢は全てオールドー領兵である。力のある貴族だ。
軍勢は騎兵が1000、歩兵が3500。歩兵の内訳は槍が1000、剣が2000、弓が500。彼らは荷駄隊も兼ねている。残りは貴族達の親衛隊が200、行兵が100、工兵が100、そしてシンカ達薬師を含めた衛生兵が100。
全五軍の編成はさして変わりないが、四軍と五軍は傭兵や徴兵された民兵が目立つ。
ヴィティアの国力ならもう少し兵を集められそうな気もしたが、攻められる側の為か幾分か集まりが悪い。
歩いていると50後半の老薬師が声を掛けて来た。
「お主、その装備は森渡りではないかね?」
「…………森渡り?」
「心配いらん。昔お主の仲間に世話になったのだ。クウケンという男じゃった」
「クウケンか。曽孫のクウロウが俺と同い年だな」
「ほう!どうやら元気じゃった様だの」
「残念だが15年前に死去したがな。76だった。8人の孫、19人の曽孫に看取られた」
「儂もそんな最後が良いのう。血塗れの戦争では死にたくないわい。じゃから儂はあんたの言う事に従う事にする」
「シンカだ。色黒がナウラ、色白がヴィダード。目付きが悪いのがユタ、小さいのがリンメイだ」
「レイゲンじゃ。宜しくな」
レイゲンは深編笠を一度外し掲げて人好きのする皺くちゃな笑みを浮かべ離れていった。ドルソ人特有の濃い肌なのか、歳をとり日に焼けたのか判別はつかなかった。
夕刻まで路を歩き続け、何の変哲も無い路の途中で野営の支度を始めた。
「ナウラ。左方の森を調査してくれ。俺は右方を確認する。ユタ。野営の支度を勧めてくれ。周りが焚いても火は焚くな。煙の匂いが付く」
「……うん」
「ヴィー。ヨウロからの合図を聴き逃すな。合図が有れば目立たぬ様返答してくれ」
「わかったわあ」
ヴィダードの返事を背に人目がそれた一瞬で森へと分け入った。
森に入ると四半刻真っ直ぐに進み、魍魎、或いは人間の痕跡を探す。
まず大きめの糞を発見した。匂いが強い。肉食だ。
周囲を観察すると、柔らかい土に足跡がいくつか残っていた。木の幹に体をこすりつけたのか体毛も残っている。
大牙虎の雄だ。糞も足跡も昨日のものだ。
小さな魍魎の痕跡が其処彼処に残っている。
だが今は姿も気配も無い。
軍が通り怯えて逃げたと考えて間違いはないだろう。
さらに奥へと進む。時間をかけると大型の魍魎の気配が濃くなって来た。
尾長獣脚亜竜が一頭周囲の様子を窺っている。
この竜は群れる為、見つかれば非常に危険だ。
特に何かを狙っている気配はない。個体が消えるのを待ちシンカは引き返し始めた。
帰りに倒れて苔むした木に薄っすらと残る足跡を発見した。
人間のものだ。男。装備は軽装。斥候だろう。
森に入るとは命知らずだ。
危険は無いと判断して野営地に引き返した。
野営地に戻ると同じ班分けになった女が目ざとく見つけて近寄ってきた。
「貴方いなくなったと思ったら森にいたの?てっきり女の子置いて自分だけ逃げたのかと思ったわよ」
実際は思っていない様だがそう口に出した。
「敵襲の痕跡が無いか自分で確認しておきたい」
「貴方軍人?違うわよね?」
女は白い肌に栗色の短髪で灰色の鋭い目つきをしている。ウバルド人だ。
「ああ。旅の薬師だ。一緒にいた女3人は弟子。小さいのは親族だ」
「さっき聞いたわ。お互い災難ね」
反対の森からナウラが現れる。
シンカを見ると手信号で異常無しを伝えてくる。
「適度に付き合い頃合いを見て離れるつもりだ。俺達には戦争に従う義務は無い」
「でも、私達の努力で多くの兵が救われるわ」
「それは違うと俺は考える。苦しみを長引かせるだけだ。治した兵は直ぐに戦場へ戻り、今度は死ぬ」
「……………そういう考え方もあるわね」
「敵は負傷兵を殺さないかもしれない。ベルガナ人とヴィティア人は同じドルソ人だ。見分けが付かなければ同情心も湧くかもしれん」
「それは当てにしない方がいいんじゃない?」
「まあそうだな」
「シドリよ。宜しく」
「シンカだ」
名乗り合っているとシドリの後ろ6間程にヴィダードが立っていた。
その手にはイーヴァルン製の短剣が握られている。
無論鞘からは抜き放たれている。
その目は大きく見開かれ、白目に血管が浮き出ていた。
「ヴィー。怒るぞ」
「貴方様が女を。ヴィーを捨てる気なのねえ。そんなの絶対に許されない」
「ヴィー。短剣を仕舞わないと置いていくからな」
「あっ!あっ!あっ!そんなあ!」
ヴィダードは慌てて短剣を収めてシンカの腕に縋り付いた。
「色男ね。ヴィダード、私は年下の男にしか興味ないの。安心して」
「女狐め!シンカ様に魅力が無いというつもりなのっ!?」
「め、面倒臭いわねー」
自分の女の手綱はきちんと握ってくれと告げてシドリは薬師達の元に戻っていった。
ヴィダードはシンカの背に額を擦りつけている。
「お前はもう少し普通に出来ないのか」
「ヴィーは普通です」
普通とは何だったか改めて考え直してみる。
訳が分からなくなった。
話にならないのでユタとナウラの元に向かう。
張られた天幕に近付くとナウラが寄ってきて手を取り中へと導かれた。
「身体をお拭きします」
笠を外され外套を取られ、上着を肌蹴られると濡れた布巾で身体を拭かれる。
適度な力加減が心地よい。
「…………シンカ」
冬の凍った湖面の様な表情でナウラはシンカの名を呼ぶ。
「なんだ?」
尋ねても暫くナウラは口を閉ざしていた。
「戦争が恐ろしいか?」
黙ったまま彼女は頷く。
「それで良い。そう在るべきだ。慣れてはならない。カヤテの様に様々な柵に捉われ、それらを護るために戦う者。俺の様に自分に関わる狭い範囲に及ばなければ見ないふりをする者。ユタの様に栄達を求める者。ヴィダードの様にまるで興味のない者。其々が好きに考えれば良い。希望を言えば戦争など求めて欲しくはないがな」
ユタには戦争を求めるなと強く言ったことがある。
それは飽くまで森渡りとしての事。個人で何を求めようとシンカに何かを強制する資格はない。
「だが1つ覚えておかねばならない。そうして在り方を選ぶことが出来るのは力を持っているからだ。力無き無辜の民は権力者の言うがままに徴兵され、猛る軍勢の力のまま蹂躙される。ナウラが在り方を選べるのは力をつけるべく努力したからだ」
「私はどうすれば良いでしょうか」
シンカの身体が粗方拭き終わる。
まだ使っていない布巾を手に取るとナウラの服を肌蹴て拭き始めた。
美しい女でも垢は出る。
だがヴィダードとナウラはそれが少ない。
長寿と何か関係があるかもしれない。
「人を殺したく無ければグレンデーラに今すぐ向かえ。戦争で敵対する兵士達は大半は害意など元々持たない民草か、国の為、家族の為に剣を振るう兵士だ」
「襲って来る敵を倒して後悔したことはありません。そうしなければ私やシンカ、ヴィーが死にます。私はあの様な人達を生かす為に死んだり、尊厳を犯されたくはありません」
「人はそのくらいの範囲を見て、護るのが分相応だと思う。俺が大人しく従軍するのには理由がある。お前にだけ教えてやろう」
ナウラの滑らかな白髪が一房溢れている。
それを纏めてやり、小ぶりな頭を撫でた。
「ナウラ。今から数千年後、この大陸の版図はどうなっているだろうか?今のままだろうか?」
「いいえ。そうは思いません」
「大国クサビナやメルセテ、メルソリア、アケルエント。これらの四大国すら存在するか怪しい。ベルガナとヴィティアの戦いでヴィティアは滅ぶかもしれない。国が1つ滅びた時、千年後にその原因は分かるだろうか?何故国が滅びたのか。後世の歴史家は知りたがるだろう。俺はそれをこの目で見て、記録に残す。危機を体で感じ、具に記録し書に残す。後世の者は俺に感謝するだろう。そして間近でそれを体感できた事を羨むだろう。ナウラにも分かるはずだ。笠山の遺跡で感じただろう?あそこでどの様な儀式が行われたか、俺は現実に見たかった」
「………それは、分かります」
「兵士達を殺す事に罪悪感がない訳では無い。だが彼等は兵士だ。俺が殺さなければ別の誰かを殺す。今回はベルガナがヴィティアを攻めている。俺が殺さなければ無辜の民が蹂躙される数が増えるだろう。そう考える様にしている」
人を殺せば夢を見る。悪人であれただの兵士であれ。ナウラもそうなのだろう。
だが殺さなければ生きられない。森や魍魎に抑圧された人間は弱者から糧を奪おうとする。
世界は陰惨だった。
「……今回の戦争では殺し合いにならないかもしれませんしね」
気はやはり重いのだろう。
「シンカなら、国を作って殺し合いの無い世界を築けるのではないですか?」
「その為に多くが死ぬ。そして俺の一生をかけても実現できるか。それに、そんな知らぬ人の為に自分をすり減らすくらいなら、俺の生涯はお前達に使いたい」
「………」
築けたとしても直ぐに戦乱は始まるだろう。
それが少ない大地に住まなければならない人間の宿命だ。
「俺が、人を殺したり、これから殺す事を悔やみ悩む時に行う儀式がある」
「初めて知りました。何かしていた記憶はありませんが」
「女を抱く。情けなくとも女にしがみ付き、劣情をぶつける。恥も外聞もなく乳を吸い、接吻する。殺した人間の夢を見れば、乳を繰って接吻する。不思議と気が楽になる。まるで半分肩代わりして貰った様にな」
「………確かに、シンカがいつになく夢中になっている事がありますね」
少し恥ずかしい。自分の弱さを見せる様で。
だがそれで良いのかもしれない。ナウラは伴侶だ。隠す必要など恐らくはないのだろう。
「元来男と女とはそういうものなのだろう。子を作り産み落とす事は数多の精霊に夫婦が認められた証であると言うだろう?各地で男根や女陰を象った象徴を精霊として崇める風習もある。兵士は戦地に赴く前に女を抱く。所によっては女の陰毛や下着を願掛けに持って行く者もいる」
「気色が悪いですね」
「そう言うな。俺はお前を愛しているが、命を失うかもしれない闘いに赴く前にお前の毛が欲しいと俺が願ったら、お前はくれないのか?お前の元に戻る為に欲しているのだぞ?」
「確かに。その時は差し上げるでしょう」
ナウラの返答を聞いて微笑する。
「男女は無意識にお互いを尊重し、信頼し、神聖視すらしているのだろうな。そして結局は狭い世界に戻って来る。人を殺すのが怖い。不特定な自分の尊厳や人間性を保つ為の不安だ。形が曖昧で範囲も定かではない。朧げなその恐怖を異性で癒す。心の傷も異性で癒す。人は結局、伴侶や家族さえいればいいのだ。俺はそう思う」
「確かに、貴方を失うことに比べれば瑣末な悩みだとは思います」
「俺はお前を説得したいわけではない。お前はもう1人でも生きていける。あの日砂浜で裸で倒れていた弱々しい精霊の民はもう居ない。自分で選び、自分で見届けるのだ。お前にはそれが出来る。1人で何処へだって行ける」
「シンカの隣にいます」
「ならば、少なくとも斧を振るい、経を練る間だけはその悩みは忘れなければならない。躊躇えば自分が死ぬ。……但し、それ以外では幾らでも悩むがいい。俺もその悩みを聞いて半分は肩代わりをしたいと思う。それが、伴侶の形だと俺が思うからだ」
ナウラがシンカに顔を寄せ、柔らかく唇を吸った。
シンカはそれに応えてナウラの括れた腰と稔った乳房に手を伸ばした。
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