森の騒めき
森へ踏み入ると浅層と中層の境目を目指す。半刻程、何時もより遥かに遅い歩調で闇の中を歩んだ。
月光が差していた森の中も、中層に近づけば近づく程光が届かなくなる。
ゆっくりと先頭を進むシンカは時折遭遇する小型の獣や蟲を風行法、青花で仕留めつつ、子供を背負う森に不慣れな3人の様子を伺い歩んだ。
イラの町からの騎馬での追撃は行われていない様だ。
騎馬が駆ければ大地は振動する。それに力の弱い魍魎が騎馬を恐れて森の奥へ一時的に逃げようとする現象が起きていない。
夜に追っ手を差し向けても仕方がないと判断したか。
また暫く進むと人が通過した痕跡を森の中に見つけた。
柔らかい土に残る靴跡だ。
女性の物が2つだけ。
女性にしては靴跡が深く残っている。重たい物を背負っている証だ。
そして闇の中では気付きにくいが、土や草を踏まず痕跡を残さない様に工夫された靴跡が1つ。ヴィダードの物だ。
後を追い暫くするとヴィダード含む女性3人が眠りこける幼子を抱えて大樹の根元に身を潜めていた。
「ヴィー」
名を呼ぶとヴィダードは番えていた弓矢を下ろした。
「あなた様、ごめんなさい。逆風で匂いが分からず……」
「いい。ヴィーに森の中で匂いを気取られる程衰えてはいない」
「いつか追い風でも嗅ぎ取れるようになってみせます」
下らない事を宣うヴィダードの鼻を摘み、遅れて現れたオスカル一行を休ませる。
分別のつかない子供達には発育に影響の無い眠り薬を服用させ、恐怖に泣き叫ぶ事がないよう出発前から眠らせていた。
特に体力の消耗激しいマリアの様子を伺い、今日の移動を諦めその場で明け方まで身体を休める事とした。
真の緊張はこれからだというのに、オスカル達は無事に町から抜けた安堵から直ぐに眠りについてしまった。
シンカはナウラとヴィダードに休みを取らせ、1人夜番を行なった。
夜半の事だった。そろそろナウラに夜番を交代しようかと考えていた時。
高木の葉が擦れの音で思考から意識を浮上させた。
取り留めのない考えだった。
カヤテのこと、ユタのこと、森渡りの隠れ里の事、齢の森、霧の森、主、ナウラの事、ヴィダードの事、養父母の事、義理の姉の事、色々な事をぼんやりと考えていたが、それが風とは別種の葉が擦れであるとシンカは考えた。
ナウラとヴィダードをゆっくり二度小突く。
ごく僅かな葉が擦れの音。相手は一体では無い。
囲まれてはいないと判断する。
徐に吹き矢を構え、短く吹いた。
木から獣が一体落下し鈍い音を立てた。
尾無白面狐猿だ。
「………こんな所にこの魍魎が?」
疑問が口を突いて出た。
尾無白面狐猿の群れ。彼等は森の中層やや奥を生息地とする獣の猿であるが、非常に獰猛で、縄張りに入ったものを見境無く攻撃する夜行性の魍魎である。
狐猿の類であるが、尾が無く顔が白い。
大きさは成体で全長5尺にもなる。
動きは素早く、中層でも特に危険な魍魎の一種だ。
「ヴィー!距離の遠い奴を手当たり次第に落とせ!ナウラ!一家の背後に周り込んだ獣を土行で始末しろ!」
自身は経を丹田に貯めていつでも扱えるよう準備をしつつ短弓を放ち始める。
「シンちゃん!おじさんとアンリも戦えるよ!」
物音に目覚めたオスカルとアンリが闇の中で武器
を抜いていた。
「同士討ちが怖い!子供を守って固まっていろ!」
群れの数は20には届かないはず。
闇の中の樹上を認識するのは至難である。
前方から迫る気配を頼りに矢を射ていく。
ヴィダードの弓の腕は流石なもので、シンカに劣る事なく尾無白面狐猿を撃ち落としていく。
数体が木から飛び降り地を駆け寄ってくる。
「藤壁」
手を突き出す正面に薄紫の紫雷が張り巡り、壁となる。
藤色の壁は突撃してきた狐猿を焼き、即座に命を奪った。
慣性のまま転がる獣を避け、頭上から降って来る二体を見据える。
体を落とし一体目の爪を躱すと片足を軸に回転し肘を獣の心臓目掛けて打ち込んだ。
弾かれた様に一体目は吹き飛び大木に身体が当たって止まると、そのまま地に落ちて動かなくなった。
落下しながら牙を剥く二体目は正面から顔に拳を打ち込んだ。
さして強い一撃ではない。だが獣は頭を胴体にめり込ませながら吹き飛んだ。
地を駆ける狐猿も二体は藤壁に接触して命を失い、残る二体もヴィダードの弓によりこと切れた。
「直ぐに移動だ。匂いを嗅ぎつけて他の魍魎が来るぞ」
すぐさま仕度をし、一行はその場を離れた。
森がざわめいている。血の匂いを嗅ぎつけた魍魎達が動き始めているのだ。
北へ向けて森を移動していると、突如軋みを上げて大樹が倒れた。
身の丈30尺、青白い気色の悪い肌に単眼、短角、二足歩行の鬼が大樹をへし折って姿を現した。
「ナウラ。眼鬼だ。此奴からは逃げられん。俺が相手する。先に行け」
「し、シンカ、そんな……」
「ヴィーも頼んだぞ」
翅を抜くと駆け寄った。
目を潰すと暴れて手がつけられなくなる。
引き離して時間を稼ぐ必要がある。
背後でナウラ達が移動を始めた。
眼鬼は引き抜いた木を右手に持ち、シンカを薙ぎ払う。
振るわれた木の幹を飛び上がって躱す。笠がずれるので左手で押さえて着地した。
続け様に縦に振られた木を紙一重で体を開いて躱し、翅を振った。
鬼の手首に赤い線が走り、血が勢い良く鼓動に合わせて流れ出た。
目眩すら感じる大音量の咆哮を上げ、眼鬼は手首を押さえた。
素早く横合いを抜けて左足の腱を斬り裂き、続き右脚の腱も断つ。
振動と共に鬼は大地に伏した。
透かさず足から背に駆け上がり、首までたどり着くと延髄を切断した。
断末魔を上げることなく眼鬼は息絶える。
翅に血液を付けることなく倒すことができた。
「ナウラめ。眼鬼を俺が倒せないと思っていたな。………よし」
シンカと別れた後、ナウラは一家を引き連れて森の浅層と中層境界を北上していた。
シンカが相手取っている眼鬼が咆哮した為、声が聞こえる範囲にいた魍魎達が散り散りに逃げ、森は移動し易い状態であった。
眼鬼は深層と中層の際に棲息しており、生態系の上位に立つ危険な魍魎で、その単眼は半里を見渡すことができると教わっている。
食欲が旺盛で一度見つかれば、獲物をその手に掴み口に入れるまで追い続けるという。
姿を目にした時、ナウラは足がすくんで動けなくなってしまった。
他の者も同様だっただろう。
自分達を逃す為に1人立ち向かった自分の想い人の事を考えると目尻に涙が溜まってしまう。
いくらシンカが類稀な戦闘技術を持つとは言え、あれは人間や精霊の民に相手取れる存在ではないとナウラには感じられた。
ナウラが先頭を歩き、ヴィダードが後方を警戒する体制でその後二刻歩んでいると森の中が仄かに明るくなってきた。オスカル達も障害物を見分ける程度の視界が効くようになり移動速度が上がった。
シンカがいない森歩きは初めてだった。
彼は常に自分と在り、全てを見守っていた。
死んだ両親よりも遥かに過保護であった。
思えば彼に対してお導きが下されたのは必然だったのだろう。
お導きが何を根拠に下されるのかは分からない。
だがエンディラの民同士で好意のない相手には起こり得ない事から、好意に根ざすものであると考えられている。
拾われて手厚く扱われて好意を抱かないはずがない。
であれば、御導きが下るのは当然の成り行きだったと言える。
御導きが下された時、今まで抱いていたシンカに対する親愛に加え、情愛が湧き出すのを感じた。
当然の如く同じ様に自分を求めているかと思いきや、普段と変わらぬシンカの様子を見てナウラは驚愕した。
文字通り驚き愕然としたのだ。
自分に御導きが下れば相手も同じ。
それが常識だった。
それからの日々は苦痛だった。シンカの声が心の臓にまで響き、彼の眼差しが肺腑をも貫く。
胸が締め付けられる呼吸が苦しい日々だった。
人と文化や習慣が異なる事は分かっていた。
だからこそそれなりの好意を示したつもりだったが、軽口で、安易に茶化してシンカの冗談に対抗した事が仇になった。
今となっては詮無い事だが、初めから導かれる事を前提として応対していれば苦しまずに済んだ事だろう。
想いを告げてもシンカはナウラを求めようとはしなかった。
下世話な話だが、お導きが下ったエンディラの男女は直ぐ様各家の長に報告を行う。其々の家長は彼らを率いてお堂に赴き、里長に報告を行う。
その後お堂の奥にある小部屋、榊の間で互いの身体を求め合い、番いとなった事を精霊に報じる。
報じるまでの間は飢餓や渇きに似、且つ心の臓を握られたかの様な苦しみを覚える。
ナウラはその感覚を数ヶ月に渡って抱き続けることになった。
シンカの唇を見ると吸いつきたくなる衝動に駆られたものだった。
だからこそナウラは5年以上前からお導きが下ったにも関わらず、少し様子はおかしいものの狂わずにシンカを求め続けたヴィダードを尊敬していた。
自分であれば真似できただろうか?
下手をすれば命すら断ちかねない苦しみであったのだ。
ナウラはシンカが隣に居り触れ合う事ができた。
彼女は孤独で5年もの歳月を費やしたのだ。焦燥感や孤独感、それらは想像を絶するだろう。
譲る気は無いが。
更に二刻程歩んだ。陽は高く昇った様で、時折木漏れ日が薄暗い森に差し込んでいた。
シンカの姿は未だに無い。
ナウラは不安を必死に搔き消し、黙々と北を目指した。
痕跡を消す事には注意を割かず、周辺の気配を読み取る事に意識を費やした。
一般人数人を引き連れていれば、今更自分の気配を消しても仕方がないからだ。
風は東から吹いている。森の奥へと匂いが運ばれて行く。
幸い未だ強力な魍魎は現れていなかった。
ヴィダードが時折折った木の枝を射て小型の魍魎を殺し、血の匂いを撒く事で自分達が襲われる危険性を減らそうと試みている。
「!?」
鼻が獣臭さを捉える。
低い地に響くような唸り声が聞こえた。
響く足音は大きい。
かなり大きい獣だろう。
「下がって下さい」
オスカル達に短く告げた。
シンカは居ない。助けては貰えない。
ヴィダードと2人でやるしかない。
シンカはどうしたのだろう。ただ遅れているだけなのだろうか。
それとも……
考えたくない。
だが彼だって人だ。いつかは死ぬ。寿命を全うしても、ナウラの半分も生きない。彼が死んだ後、ナウラは1人で100年以上を生きる事となる。
いつかは覚悟しないとならない事だった。ヴィダード等は後を追いかねない危うさがある。
此処で唐突に別れが訪れるなど考えたくもない。
余りにも早すぎる。接吻も営みも足りていない。彼の子供も孕んでいない。
耐えられない。
瞳から涙が流れている。背嚢に吊り下げられた斧を取った。
刃の覆いを外し、きつく柄を握る。
木々の合間から黒い拳が突き出され、それが横に振るわれた。
大木がへし折れその後ろから巨体が姿を現わす。
黒い顔金の体毛、拳を固めて地に突き四つ脚で歩む。
猩々だ。それも最も頑強な八咫猩々。
その中でも特に大きい金毛の八咫猩々。確か………
「金剛八咫猩々!」
それも背だけが銀色の体毛で覆われている。
「ヴィダード!片目だけ潰して下さい!急いで!金剛八咫猩々の銀背種です!これは主です!」
直ぐ様、猩々の右眼窩に矢が突き立つ。
猩々は両の手で顔を抑え、咆哮をあげた。
何故魍魎など存在するのか。
たった1人の大切な人。家族を失いやっと得られた伴侶。
渾身の力を込めて斧を振るった。
まずは右足の親指。
シンカに教えられた八咫猩々の倒し方を思い出す。
両目を失った魍魎は手当たり次第に暴れ非常に危険である。
まずは片目を潰して死角を作る。
続いて足がある魍魎なら足を潰す。獣や鬼の類は親指や腱を攻撃するのが好ましい。
怒り狂った猩々が後ろ足で立ち上がり、激しく自らの胸部を両拳で叩き始めた。
威嚇行為と聞いている。
ジリと地に足を着けて斧を構える。
威嚇を終えると二足のまま素早く猩々が迫る。
ヴィダードの風行法を纏った矢が頭部に突き立つが、頭蓋に刺さるだけで脳には達しなかったようで、両拳を振り上げナウラに向けて振り下ろしてきた。
既の所で避け、土行を行使する。
迫り出した土の槍が猩々の体に当たるが、深い傷を負う前にさっと後ろに下がってしまう。
チラと地面を見ると猩々が殴りつけた位置が大きく陥没している。
顳顬から脂汗が一筋流れ落ちる。
極度の緊張状態にあるせいか、足にしっかりと力が入らずふわふわとした感覚を覚えた。
恐怖もある。だがそれとは別の何かが手足と歯の根を震わせていた。
その正体をナウラは知らない。
駆け寄ろうとする猩々に対しナウラは土槍で牽制する。
数度直接当てる事にも成功したが大した傷は負わせる事が出来ていなかった。
ヴィダードが放った矢は猩々の腹に浅く何本か刺さっていたが、致命傷とは程遠く、動きが鈍るようなこともない。
これ程の危機はシンカと出会って初めてだろう。
その様な危機にあっても彼は助けに現れない。
頭の片隅に押し込めていた不安が次第に大きくなりつつある。
彼は、あの鬼に喰われて死んでしまったのか。
自分達を逃す為に。
何故あの時残り共に戦わなかったのか。後悔が心中で渦巻いていた。
気付くと頰を涙が伝っている。猩々の凶相を油断なく見据えながら、頭の中では自分の涙もろさを可笑しく思っていた。
ナウラは生来的に表情の変化に乏しかった。
転んでも泣かず、嬉しくとも笑わない子供を両親は余り可愛いと思わなかったのだろう。
妹と比較すればその差は明らかだった。
ナウラの表情は乏しいが、その感情が乏しいという訳では決してなかった。
悲しく思う事もあれば楽しく思う事もある。当然だ。
恩を受ければ感謝し、礼を失すれば謝る事も出来た。
その内なる気持ちが表情と繋がらない。理由は分からないが、ただそれだけの話だった。
だから親を失った時も泣きはしなかった。
妹と比べて愛されてはいなくとも、15まで育てて貰った唯一無二の親である。
立て続けに親を失い、お導きも下っておらず、仲の良い友も無かった。
妹との仲も良好とは言えなかった。
ナウラは物心付いた時から人一倍好奇心が旺盛だった。
狭い村の中で余り人と触れ合わずに過ごした記憶は両親の死と共に未知なる世界への渇望という形で心中で嵐の様に荒れ狂い、葛藤の末1人里を出た。
無謀な、危険な旅であった。
正しく奇跡的にナウラは1年の歳月をかけて東の果ての湾に辿り着いた。
そこで人間に騙されて攫われたのだった。
初めは商品として売り払われる予定となっていた。
人攫いにそう告げられていた。
だが男達は船旅を続けるに従い欲を増し、終ぞ我慢が効かなくなりナウラを犯すこととした。
目先の欲に捕らわれて大金を失う愚か者達だった。
ナウラは隙を見て男達の腕を跳ね除け逃げ出した。
人間の男達はナウラよりも力が弱かったのだ。
しかし船の中に逃げ場は無かった。海には恐ろしい魍魎が数多く住むという。
だが、御導きの相手ではない有象無象に触れられ、犯され、尊厳を失うよりも鮫とやらに喰われた方が遙かにましだと思った。
だから甲板から海へ飛び込んだのだ。
だが1人に背を切られ、泳いだ経験もなく直ぐに意識を失ったのだった。
どれほど時が経ったのかは分からないが、体の猛烈な熱さに目を覚ました。
汗が全身から噴き出しており、不愉快すら通り越して発汗を快感にすら思ったほどだった。
騒々しかった。
体は動かなかったが近くに人がおり、何かをしているのが分かった。
焚き火の傍で、丸い角のない石が散らばる上で眠っていた。
恐ろしい経験だった。
薄気味悪い矢鱈に素早い動きの蟲が壁の様に迫っていた。
その光景を見た瞬間に、自分の命は終わるのだと考えた。
男が、シンカがたった1人武器を持ってナウラを跨いで立ち、それを退けていた。
滝の様に汗をかき、焦げ茶の癖毛を額や頰に張り付かせ、一心不乱に蟲を駆逐していた。荒い息を吐き、肩で息をして、焚き火が照らす薄気味悪い蟲達を断固とした面持ちで防いでいた。
その光景は正しく希望だった。
この男がナウラの事を守っていたのは明らかだった。
その時、ナウラは背筋が震えた。恐らくお導きがシンカに下ったのは必然だったのだ。
いつの間にか意識を失っていたナウラが次に目覚めたのは宿の寝台であった。
今まで味わったことのない良質な寝心地だった。
体は1つとしてかける事なく、背も痛まなかった。
彼は弟子が欲しいと言った。
ナウラに都合の良い条件だった。
それ以来父や兄の様に。実の父以上に彼を慕った。
シンカはナウラにとって、初めの夜以来希望だったのだ。
彼を愛している。
師として、父として、兄として。
そして夫として愛している。
彼が森に飲まれたというのなら。
彼が望んだように彼の弟子として知識を継承していかねばならない。
夫の望みを叶えなければならない。
子は得られていなかった。月のものが訪れたばかりだ。
生きて、彼から受け継いだ知識を次世代に伝える。
まだ教わった知識は不十分ではあれど。
それが彼への恩返しであり、愛の印である。
1人でこの獣を退治する事は必要不可欠な通過儀礼でしか無いのだ。
この程度を倒せずして何が恩か。何が愛か。
ナウラは表面上では無感動に見えども歳相応以上に、人一倍感情は豊かだった。
ナウラは気付いている。
自分がシンカの前でだけ笑みを浮かべ、不満を表し、悲しみを見せる事を。
彼の前でだけ自分は鮮やかに彩づくことを。
それ以外の場所では全てが灰色で、何の感慨も抱くことができず、全てが陳腐で、煩雑で、情趣が無い。
シンカがいない?たった1つの大切なものが、手からこぼれ落ちたのか?
そんな事、あってはならない。こんな獣は直ぐ様倒し、彼を迎えに行かなければならないのだ。
既に猩々と遭遇し半刻は戦っている。
これ以上時間は掛けられない。
寄ってくる猩々に此れ迄と同様土槍で牽制を行う。
だが此れ迄とは違う。
ナウラは斧を振り、斧刃の平で突き出た土槍の先端を弾き飛ばした。
岩の塊がいくつかに分裂しながらも猩々にぶつかる。
此れ迄とは別格の速さと威力だった。
シンカの弟子として情けない戦いは出来ない。
無駄なく、ありとあらゆる手段を講じ危機を逃れる。
大きく息を吸った。体内で練り上げられた経が喉元に集中し熱く滾る。
熱い茶を飲んだ時のような温もりが喉に宿った。
仰け反り、更に息を強く吸い込み両手を背後に突き出し一気に息を吐いた。
息と共に口から抜け出た経は火を帯び、紐のような細さから太く膨らんで獣に直撃した。
野太い脳まで侵されそうな咆哮を上げて体毛を焼く炎を払おうとする。
ナウラは呼気を調節し、徐々に炎の温度を上げていった。やがて火行・息吹は青白く色を変え、行法が切れる際には全身に火傷を負って蹲っていた。ヴィダードの矢は骨に防がれるのか、深く刺さる事はない。走り近寄り、垂れた頭に斧を振り下ろした。
果物を短刀で割るように猩々の頭は断ち割れ、赤黒い血液が溢れ出した。
「………」
これ程までに大きな魍魎を自分は倒せるようになったのだとつくづく感じた。
シンカ、私、出来るようになったよ。
そう目を閉じ心中で祈りを込めて呟いた。
「詰めが甘い。戦いが終わったなら直ぐに先に進む支度だ」
茂みを掻き分けて森の闇からシンカがぬらりと現れた。
「が、良くやった。成長したな」
頭を撫でられ、安堵のために彼の胸へ飛び込んだ。
「……私を………置いて行かないで………・」
様々な感情が胸中で渦巻いていた。安堵、怒、歓喜、それらが綯い交ぜとなり今自分が何を考えているのか判然としなかった。
「おまえは本当によく泣くな」
呆れたような、慈しむような。
2つが混ざり合った声が頭上から降ってくる。
「貴方が心配させるのが悪いのです」
「俺はいつか、お前よりも先に死ぬ。覚悟はしなければならない。俺がいなくなった時のために強くならなければならない」
「嫌です」
シンカは答えを聞いて柔らかく笑った。
笑い、頭を撫でる。
そんな彼の頭を抱き、口づけをした。
彼の匂いに包まれて、綯い交ぜになっていた不快な感情が胸中から雪が溶けるように消えていった。
「それでも、人は老いてしまう。嫌でも、何れお前を置いて行かねばならん。男とはそういうものだと俺は考えている。女の為、子の為に身を削り、外敵から守りぬいて先に死ぬ」
「死ぬ必要まではありません。私が支えます」
「好いてくれるのは嬉しい。だが現実は変えられない。理想では生きていけない」
「………なら、せめて100まで生きてください。寝たきりになっても私が御世話します」
「そうまで衰えたら無理せず死なせて欲しいがなぁ」
苦笑いするシンカに駄目です、と笑いながら答えた。
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