霧曇る森の王
「森の様子が奇怪しい」
シンカはそう口に出した。
この辺りの森が他の地域に比べ木が育つのが遅く、比較的若い森であったとしても、大型の魍魎は森の奥を好むものだ。
ましてや金剛八咫猩々など、齢の森手前に住む深層の魍魎。しかも群の長である銀背が単独で現れるなど尋常ではない。
恐らくは。
森の奥で何かが起きているのだ。
八咫猩々が、己の縄張りを捨てる程の何かが。
森渡りは危きに近寄らない。
眼鬼を倒した後、気配を殺してナウラ達を追跡しながら不穏な気配を探っていた。
魍魎達の動きから問題源の概ねの位置は把握できていた。
ナウラを先頭、シンカが左翼、ヴィダードが後方を警戒する形で北上を行った。
時折狼の群れの近くを通ったが襲われる事も無く素通りすることが出来、陽が沈む頃にはかなりの距離を稼ぐ事が出来ていた。
オスカル達は疲労困憊の様で、とても夜番を任せられる状況では無い。
子供達も薬が切れて途中で起きていたが、騒ぐ事も無く再度眠りについた。
翌日翌々日と北上を続け、そこから西へと進路を取った。
1日目は特に問題無かったが、二日目の日暮れ前に森に霧がかかり始めた。
「先生、これが霧の森でしょうか」
ナウラが立ち止まり声を出した。
肌に張り付く様な濃密な霧が奥から徐々に流れ出、広がりつつある。
「恐らく」
霧は気象現象の一種である。巷では不吉の現れ等と恐れられる事もあるが、事実は大気と大地の温度差により、空中に微細な水滴が発生する現象を言う。
通常であれば。
しかしごく稀に、長く生きた植物が霧を吐くことがある。
風の有る地や強力な草食の魍魎が生息する地、要は殆どの森林中ではあり得ないことであるが、極稀に風が吹かず、強力な肉食の魍魎が生息する深い森の中で経を微量に含んだ蒸気を粛々と吐き出す植物が育つ事がある。
そんな場所を渡りの一族が見つけると、必ず植物を根絶やしにし、近辺の魍魎を狩り、生態系を操作する。
霧の森には主を凌駕する強力な個体が発生すると伝わっていた。
しかし何がどの程度強力なのかまでは伝わっていない。
森渡りの隠れ里の文献で、過去二例の記録が残されていた。
何方も多くの同胞を失う壮絶な戦闘となった旨が記載されていたが、その姿を見た同胞は皆戦闘の挙句死亡し、個体自体は遠距離より遺骸の残らない倒し方をしているため姿形の記録が残っていない。
森の特殊な立地や生態系の中、弱肉強食の中で遥か長い年月を生き延びたものが何かに変化する。
極々微細ではあるが霧の森はそういった可能性を秘めている。
鳥が羽ばたく羽音が聞こえる。
「オスちゃん、家族でひと塊になってくれ。全員を眠らせる」
「……分かった。ごめんね。苦労かけて」
「………いいよ」
背嚢を下ろし、手早く乾した薬草を数種類取り出す。
森の中でシンカは薬剤の調合を始めた。
ヴィダードが弓を構えて周囲を警戒している。
ナウラはオスカルを大樹の根元に誘導していた。
粘つく霧が徐々に濃くなり、服が肌に張り付いて気色悪く感じる。
焦らず調合を行い薬を完成させた。
呼気により体内に取り込む強力な睡眠薬である。
「ヴィー、弱い風を起こしてくれ」
「良いわ」
ヴィダードの手先付近で起った微風に乗せて粉末状の睡眠薬を撒いた。
子供が眠り、女性が眠り、オスカルが眠る。
そうこうしているうちに霧は濃くなり、嫌な気配が強くなる。
嫌な気配。漠然とした感覚だった。
ぐふ、ぐふという野太い息遣いが耳に届く。
シンカは更に懐から皮袋を取り出す。中身は匂いを消す薬草の粉末だ。
息遣いから魍魎は獣と推察できる。オスカル達の匂いを消し、標的を自分達に絞らせる為に粉を振り撒く。
「ナウラ」
「樹木の軋み、破砕、倒壊、地響きから体重………分かりません。え、これは。本当に?」
「俺にも分からない。これ程の音を出す魍魎に会ったのは龍種以来かもしれん」
地響きが次第に大きくなる。
「位置取りを変える。オスカル一家から離れ、俺が正面、ヴィーが後方樹上、ナウラは右側面。相手は四足歩行の獣。推定体重1000貫。ん?……僅かに経の気配有り!?」
「貴方様、逃げた方がいいのではないですか?」
「風上だ。手遅れだろう」
「シンカ………こ、これは。……すみません。怖いです」
「動けなければ匂いを消して下がれ」
「………大丈夫です」
「本当か?お前が動けなくなれば俺は助けに行くだろう。そこで2人とも死ぬことになる。本当に大丈夫か?」
「やれます。私は貴方の弟子です。やります」
「ヴィーも逃げて良いぞ」
「………私がそんな女だと思われるのは流石に心外ねぇ。死ぬ時は一緒です」
自分の何を良しとして2人が付き従ってくれるのか、シンカには判然としなかった。だが、得難いことだ。
近くの巨木が倒れ始める。
息遣いと地響きが近い。
そして、とうとう闇の中より魍魎が姿を現した。
大きい。途轍もなく大きい。
頭の位置は地面から2丈の位置にある。
丸みを帯びたその頭の直径もシンカの身長程度はある。
茶の体毛、ずんぐりした身体、鋭い牙と爪、太い四肢。
「熊だ。鬼羆。だが、大き過ぎる。本来の6倍はある。恐らく行法を使う。散れ!」
唸りを上げる鬼羆にヴィダードが矢を放つ。
風行法隙間風を使い威力を上げた矢が右の眼球に突き立った。
「耳っ!」
シンカとナウラは耳を即座に塞いだ。
直後、視線の先で大きく口を開ける熊の姿が目に入った。
掌で塞いだ耳にまで届く咆哮だった。
肌がひりつき、音波が身体に衝撃すら与えた。
暫し吠え続けた後熊はしかと此方を視線に捉えた。
「ナウラ正面を避けろ!ヴィー突撃来るぞ樹を移れ!」
鬼羆が動き始める。
そしてようやっとその全体が露わになる。
体高4丈、全長12丈。陸上にこれ程大きな魍魎は現状確認されていない。
巨大な鬼よりも体高は低く、大型の龍や蟲よりも体長は短い。だがその質量は此方の方が倍近くあるだろう。
何より獣は鬼よりも強靭である。
動き出す鬼羆を確認し、シンカはその進行方向から飛び退って退避する。
熊の身体が通り過ぎる。
風に煽られながらも手を組んだ。
水行法 白糸。口腔から細い水流を勢いよく吐き出し脚を切断する。
「な!?」
白糸は岩でも鉄でも切断できるが鬼羆の前脚を切断することが叶わなかった。
あまりにも脚が太く、また剛毛に守られて流血はするものの行動不能にまで持ち込む事は出来なかった。
そのまま突撃した鬼羆はいくつかの樹々を薙ぎ倒し、ヴィダードが矢を射た大樹をも突進により吹き飛ばした。
ヴィダードは既に隣の樹の枝に飛び移っている。
鬼羆はヴィダードの事を身体に比べれば小さな瞳で見上げた。
「……イ……タイ……」
鳥肌が立った。
羆が唸った。
いや、唸ったというのは自分に都合の良い解釈だ。
あれは今、言語を話したのだ。
「ヴィー!退避!」
シンカが叫ぶのと鬼羆が立ち上がるのは同時だった。
熊は獣の中でも執念深い生物である。
二足で立つことも可能な太く短い脚を持っている。
ヴィダードは辛うじて噛み付きから逃れることができた。
「引き付ける!ナウラ!受け止めろ!」
練っていた経を放出する。
風行 一角で白い雷を発して鬼羆の尻にぶつけた。
糞が尻にこびりついている様で強い異臭がする。
顎から逃れたヴィダードは目標を定めぬまま樹から飛び降りた為、体勢も整っていない。
熊が振り向いた隙にナウラが駆け寄り、その腕力を持ってして受け止めた。
低い唸り声を上げ鬼羆がシンカを見つめる。
ぴくりと前脚が動く。
来る。
両足で力強く飛び、右手で地を押し回避する。
やはり早い。
自分が躱すのに一杯で碌に反撃が出来ていない。
ナウラとヴィダードだけであれば既に命は無かっただろう。
着地すると直ぐに振り向き翅を抜いた。
未だ背を向ける熊に向けて駆け寄り巨体を支える短い後ろ足目掛けて斬りつけた。
絶叫を上げる鬼羆。
だが太すぎる脚を切断する事は出来なかった。
地響きと共に振り向いた熊が腕を振る。
難無く躱すが、腕が通り過ぎた後に巻き起こる豪風に身体が吹き飛ばされる。
吹き飛ばされたシンカを追って顎門が迫った。
体勢を崩し天と地が入れ替わっている。
「シンカ!」
ナウラが叫ぶ。
「くっ、この知識を持ち帰らねばならない!ナウラ!ヴィー!離脱しろ!」
「なりません!」
ヴィダードが矢を射る。
放たれた矢は熊の首に深々と刺さり羽根だけが垣間見える状態であったが魍魎の動きは鈍りすらしない。
男の言う事を聞かない女共だ。
ならば。
風行法 黄滝
空中で体勢が整わぬまま両の手を突き出す。
掌から黄色の激しい雷が幾筋も延びて鬼羆の顔面に突き刺さった。
即座に耳を塞ぐとシンカを噛み砕かんと開かれた口腔から絶叫が迸った。
「ニン……ゲン……メ」
地の底から響いてくる様な低い声音で意味を成す言葉を発した。
口から煙と異臭が漂っている。
激痛に顔を抑えて蹲ってはいるが、その大きさは小山の如くシンカたちの前に立ち塞がっていた。
羆は執念深く、粘着質な獣だ。
一度自分の物と認識した獲物は執念深くどこまでも追う。
人を喰えば人肉の味を覚えて人を狙うようになる。
逃げれば追い、隠れても犬より優れた嗅覚で何処迄も追随する。
此処で仕留めなければならない。
だが、シンカの攻撃は未だこの王級の主である鬼羆にさしたる傷を与えられていないのだ。
「ヴィー、退避の後遠方より狙撃!ナウラ、俺が引きつけている内に脚の指を狙え!経も練っておけ!」
鬼羆の背後でヴィダードが巧みに枝を伝って巨木に登り、樹上を枝々を伝って離れて行く。
吹き飛ばされた先で軟着陸すると地に両手を突く。
土行 槍ヶ峰
羆の体の下、苔生した地面が轟音と共に隆起して鋭い槍の様に突き出した。
羆の巨体が浮き上がる。だが槍ヶ峰の先端は獣の体に食い込むものの大きな傷とはなり得ていない。
「ナウラ!」
「はい!」
低い姿勢で近寄ったナウラが左足で制動して背を大きく仰け反らした。
漸く身に付けた強力な火行 息吹を口腔から行う。
赤い焔が羆の体を舐めた。
「そのまま経を注ぎ込んで次だ!ヴィー!」
ナウラの口から吐き出される焔の色が青に変わる。
羆の体毛に焔が移り体が炎上し絶叫が上がる。
迫り上がり脇腹に突き刺さっていた岩の峰をへし折ると、羆はナウラに身体を向けた。
すかさず鼻先に矢が突き立つ。
弱点への攻撃に動きを止めた身体に向けてシンカは両の手を突き出した。
風行 蟒蛇
激しい稲妻が中空より降り注いだ。
可聴域を上回る咆哮を上げ、鬼羆はシンカを見据えた。
半身が灼け爛れ、片目と鼻を潰され恐らくは臓器を損傷しながらも、しかとシンカを睨め据えていた。
「ニ、クイ」
動いた。動いたと思ったら顎門が目前で開かれていた。
間に合わない。
気付いてすぐさま顎門は閉じられた。
噛みちぎられる事だけは避けたものの振られた首に打擲されて鞠の様に吹き飛んだ。
「シンカ!?」
ナウラが張り詰めた声音で叫ぶ。
吹き飛んだ先で大樹にぶつかりその木をへし折り地に落ちた。
だが鬼羆の動きは止まらなかった。
すぐさま追い掛け、シンカに向けて大きな前足を振り下ろした。
避ける事は叶わなかった。
「ああっ!」
ヴィダードがよろめいて幹に手を着く。
尋常ならざる地響きと共に幾度も、執拗に巨大な腕を振り下ろした。
濛々と立ち込める土埃の中、軈て羆は動きを止めた。
それまでの間シンカの反撃は一切なかった。
これだけの質量を持った相手を前に反撃は許されなかったのだ。
「オデノ、ガチ」
荒い息を吐きながら羆は不気味な声音で言葉を発した。
ナウラもヴィダードもあまりの事に茫然とし、動く事すら出来ていなかった。
羆はゆっくりと、山の様な巨体を操り振り返り、立ち竦むナウラを見た。
「っ」
一歩後ずさった。出来たのはそれだけだった。
「ナウラ!逃げなさい!」
ヴィダードが張り叫び矢を射るが、全身を灼け爛れさせたナウラを羆は激しく憎んでいた。
振り返った羆は四肢に力を漲らせ、姿勢を低くして飛び掛かる体勢を整えた。
羆は激しい咆哮を上げた。
飛び掛かるかと思いきや、その場で姿勢を崩し地に横たわった。
太い右後脚が欠損し、夥しい量の血液を荒れ果てた森の地面に垂れ流し、残る3脚で立ち上がろうと踠いていた。
濛々と立ち込める土埃の中、ふらりと人影が歩み出る。
右手に翅をぶら下げたシンカであった。
口角と両の鼻腔から血液を垂らし、咳き込んだ。
あれだけの攻撃を加えられて何故シンカが生きていられたのかナウラにもヴィダードにも理解できない。挽肉となっているはずである。だが幸福な事には変わりない。
弓を取り直したヴィダードは1射、2射、3射と矢を射ていく。
残る眼球を潰し、暴れ回る巨体に向けてナウラが息吹を行う。
その間にシンカは四肢を落とし終え、最後に脳天に翅を突き立てた。
「………っ」
シンカは魍魎から距離を取り、樹木に背を預けた。
呼吸は行なっていない。脈拍の音も聞こえない。時折痙攣をしながらも再び動き出す事はなかった。
大きく息を吐くと気管支に異物を感じ咳き込んだ。
鮮血が口から吐き出された。
「シンカ!」
ナウラが駆け寄りシンカの体を支えた。
「どうすればっ、こんなっ!呼吸に音が混ざって!肺が破れているのですか!?」
「それだけではない。よく観察しろ。ヴィーも来い。俺の口臭を嗅ぐんだ」
真剣な顔でナウラとヴィダードが顔を近付け、鼻を鳴らす。
「血臭と……酸の臭い……胃が破れている!?」
「お落ち、着け。背嚢を持って来い。中から……そう。その薬で消化器官を治す。それから白梅擬の乾燥粉末と黒目柏の樹皮の日干し粉末をよく混ぜて、白虎丈根の茎の中身をくり抜いたものに詰める。そう。それでいい。両端を潰して片側に火を点けてくれ」
飲み薬を飲み干し胃の損傷を治療しながら葉巻の様に薬煙を吸った。
「これは呼吸器官を治療する秘薬だ。この煙に肺や気管を再生させる効能がある。副作用は空咳が三日三晩止まらなくなる事と、同じ時間水を飲むと喉に激痛が走る事だ」
「貴方様……もう大丈夫なのですか?」
「ああ。だが両腕に激痛が残っている。ヴィー。骨の罅用の湿布を作ってくれ。腕が使えん。お前達は何処か怪我はないか?」
「私は無いわぁ」
「私もありません」
ナウラが無表情でべそをかくという器用な芸当をしながらシンカの頭部を抱擁した。
「あっ!?肉女っ!私の旦那様ですよ!寄越しなさいっ!」
「森の中で騒ぐな……っ………ガレ一家を起こして直ぐに発つ。ヴィーは王種人参の粉末と青辛子の粉末を混ぜ合わせて大人に鼻から吸わせてくれ」
「あのぉ、ヴィーも心を乱されたのですけどぉ」
「後でな」
「は、はいっ!」
ナウラの豊満な乳房から顔を引き剥がすと再度薬煙を吸い込む。
呼吸が徐々に楽になりつつある。
危ない所だった。
死んでもおかしくない一撃を数十発は受けていた。
シンカは考察する。
あの個体を鬼羆の王種と呼称する。
あれは霧の森の効果で王種は誕生したものと考えられた。
微量に経を含んだ霧を吸い続け、あの個体は育った。
シンカが弾き飛ばされてからの動き。恐らく経を体内で循環させて神経、筋肉の反応速度を上げていたのだろう。シンカが戦闘の際に扱う技術である。
行法を扱えた可能性が高い。
性別は雄。性器が退化し本来の鬼羆の物よりも縮小している。
番や子は存在しないと見て良いだろう。
特筆すべきは体毛の硬さだろう。
行法中一二を争う切断力を持つ白糸ですら骨まで達する事が出来なかった。
また脂肪と筋肉も分厚く風行法の雷系統も通りが悪かった。
鬼羆の鼻面による初撃は虚をつかれもろに攻撃を受けた。
この時右の肺が破裂した。
しかし木への衝突は背に蜂の巣構造の氷壁を展開して殺していた。
完全には殺しきれず折れた肋骨が胃を傷付け、右の脚を骨折した。
その後の追撃と執拗なまでの攻撃は高硬度の氷壁と岩壁で往なして攻撃を捌ききった。その時に両腕に皹が入っていた。
霧の森の魍魎についていくらかの伝承を目にした事はある。
しかしここまで大きく強力なものではなかった。
ナウラが強力な火行法を行わなければ危うかっただろう。
鬼羆の王種の硬化した体毛は火行法に弱かったシンカとは相性の悪い魍魎であった。
「し、しんちゃん!?大丈夫なの!?」
目を覚ましたオスカルが顔を血で汚し、おかしな方向に脚を曲げたシンカを見て駆け寄って来た。
「何とか。流石にあれは骨が折れた。見ての通り」
「うわっ!?なにあれっ。お城みたいだよ!?」
「ここまで大きいのは俺も初めてだ。ナウラ。心臓を裂いて珠を取り出してくれ。俺は身体を治したら霧の元を断ちに行く。国境まで先行してレヒレ川南岸の浅層にて待て」
「シンカ、何があるか分かりません。大怪我をしたばかりです。せめてヴィーを連れて行くべきでは」
腕の罅をヴィダードに作ってもらった湿布で治癒させると折れた脚の治療に移る。
「2人でガレ一家を護ってくれ」
刃物で俯せに横たわる鬼羆の背をナウラが裂き始める。返り血を浴びない様に血管を避けて丁寧に裂き、背骨の脇から肉を切り開く。
巨体のせいで心臓まで距離があった為、紐付きの小型の錨を投げて心臓に突き入れて力任せに心臓を引き摺り出した。
「お怪我をされたのですか?」
オスカルの幼馴染の嫁ステラが近寄って来て声をかけて来た。
「薬で如何にか治癒できる範疇だった。問題無い」
「あれ程大きな魍魎が存在するものなのですね………」
「そうらしいな。恐ろしい事だ。森の深くに潜る事は多々あるが、絶望的な気分となったのは初めてだ。何か良く無い事が起こりつつあるように感じる」
「良く無い事?」
折れ曲がった脚を激痛に耐えて伸ばし、新しい湿布を巻き付けた。
「分からない。例えばこの様な魍魎が世界の至る所で産まれる……とか」
ステラの顔色は森の暗がりの中で尚青ざめたのがわかった。
「なんの話をしている?」
娘を背負ったアンリが近寄ってくる。
「森の話だ。それより出発の支度は出来ているのか?あの魍魎が死んだ事を理解している雑多な魍魎は多いだろう。そのうちに集まり始める」
「もう発てる。本当に私達家族が迷惑をかける。すまない」
「いや、その台詞はラクサスの首都に無事に入るまで取っておくべきだ。恐らく国境で戦闘になるし、旅程は七分の一を過ぎた程度だ」
「確かにそうだが、此処まで連れて来て貰っただけでも十分すぎる程の恩義だよ。私達一家は生涯貴方達に頭が上がらないよ」
アンリはフラーを背負い、紐を結んでいるステラを眺めながら話した。
「俺達は旅人だ。土地にしがらみを持たない。土地を捨てねばならなかった貴女達の気持ちは到底分からない。この道しかないと信じているが、本当に正しい事をしているのかは分からない。世に確たるものはないとは言えど、その道は森の帷よりも尚暗い」
「あの人は、本当に優秀な人だった。誇り高く才能に満ち溢れていた。あの人の戦友達がその才能を妬んでいた事は分かっていた。戦功を上げれば上げる程、皆あの人を疎ましく思うようになっていった。それでもあの人は、正しい行いをしていれば何時かは認められるものと信じて直向きに才を示し続けた」
「分かるよ。経験がある。多くの人は自分には出来ない事を行える人間の事を疎むものだ」
「貴方程強い力を持てば、経験はあるだろうね」
「………」
息を吐く。肺が完治している。胃も腕も問題無い。後は脚だけだ。
「あの人はそうして友人を失い、到頭尽くした主人にまで裏切られた。貴方とはボニで一度酒の席を共にしただけだと聞く。そんなあの人と私達に、何故?」
何故、と聞かれてすぐに答えられる感情など世に存在しないだろう。
右脚に染み込む湿布の薬効を感じながら考えた。
「オスカルと話した時、酔ってはいたが確かな知識を持っている事はすぐ分かった。話してこれ程楽しいと思えた事は今までそう無い」
「それは貴方に学があるからだと思う」
「偏った学がな。俺には政治も戦争も経済の知識も無い。しかし何だろう。彼には親しみを感じたのだ。そして窮地に立たされるのを見て思った。彼が死んでしまうのが惜しいと。そして何より失いたく無いと思ったのだ。貴女達も同じだ。唐突に現れた俺達を嫌な顔一つせずに持て成してくれた。それだけで十分だ。行為や親切はこうして世を巡る。オスカル・ガレが、貴女達が示してくれた無条件の好意は、俺が助けたいと考えるのに充分足り得たのだ」
「………」
「そろそろ行かなければ」
「私、分かった」
「何がだ?」
「貴女があれだけ美しい娘2人に懐かれる理由が」
「何だそれは。大変だったんだぞ」
ナウラが鬼羆の心臓を割り珠を見つけ出した。
人の頭大の群青に透き通った珠である。
ナウラは珠の血液を拭き取り消臭処理を施すと解体に使った道具を捨てた。
「へぇ。珠ってそうやって手に入れるんだね。道理で高価なはずだ。他の物は剥ぎ取らないの?」
やって来たオスカルが訊ねる。
「こんな重たい物持って歩けないだろオスちゃん」
「加工すれば強い武器になりそうだけど仕方ないね」
「さあ。先ずはレニ近郊まで向かうんだ。そこで顔も割れておらず肌の色も目立たぬナウラが食料の補給を行う。その後レヒレ川からムスクアナを目指す。それまでには追い付くだろう」
ナウラ、ヴィダード、オスカル一行が背を向けて歩みだすのを尻目に右脚を撫でる。
考えなければならない事はまだまだ多い。
まだ痛むが歩行に支障はない脚を引き摺り鬼羆の遺骸に寄る。
獣の体臭に体毛の焦げた匂いが立ち込めている。
匂いが移る前に立ち去りたい。
また羆について調べなければならない。
齢も何もかもが分からない。それを確認するには巣を見付ける必要がある。
足跡を追う事にする。
鬼羆が歩んで来た道程を辿るのは容易かった。
あの巨体である。
木々を薙ぎ倒して出来た道は全力疾走していても辿れる。
治療を始めてから半刻。
漸く痛みが取れた脚で道を辿る。
素早く、されど力を抑えて半刻程駆けると夥しい数の遺骸や骨が散らばる領域に辿り着いた。
大量の糞が至る所にこびり付いている。
接触しない様に気を付けながら進むとポツリと砥木が生えた広々とした空間が広がっていた。
木々が生えていない代わりに中心の砥木はシンカも目にした事がない程巨大で、枝葉を大きく伸ばして広大な範囲に傘をかけていた。
立ち込めた霧は砥木周辺から生み出されており、あまりの濃度に乳を溜めた槽にでも潜っている様な感覚を抱いた。
霧の元を辿ると、砥木の幹や枝に目立たぬが植物が生えており、
粛々と霧を吐いていた。
あまりにも巨大な樹から滝の様に霧が落ち、周囲に広がって行く。
美しい光景であった。
だがこの霧は危険なものだ。
経とは生命に流れる目に見えないもう一つの血液の様なものだ。
だらりと気迫なく横たわっていると身体を動かすのが億劫になる事がある。
これは経の流れが一時的に滞る為に起こる。
人によってはこれを気や気力と呼ぶ事もある。
気力等呼び方は様々ではあるが、総じて日々の生活では感じる事の難しいものである。
経は人のみならず魍魎や植物にまで流れる。
植物とて愛情を込めた植物とてそうでない植物には成長に差が出る。
これは経が活性化される為と考えられている。
然し乍ら訓練が施されていなければ植物どころか人間ですら経は扱えない。勿論行法を扱うなど夢のまた夢である。
そしてこれは極めて認知度の低い知識であるが、この経の流れは大地にも存在し、時折火山の火口の様に湧き出でる箇所があるという。
砥木の大樹が立つ場所は正に経の火口だった。
この砥木は幹の内部に多量の経を巡らせている。
恐らく、この経の火口に生えたいく本もの砥木の内、この砥木が生存競争を生き抜いてここに立っているのだろう。
経を根から吸収するこの樹がまだ若木のうちに取り付いた宿り木が、この砥木から経を吸収して霧を吐く様になったのだろう。
大樹の根元にたどり着く。
根の下に大きな魍魎の骨が組み敷かれている。
骨は触れれば崩れる程風化している。
年代の推測は難しい。
獣。足が短く太い。鋭利で弧を描く黒い爪。熊。
恐らく鬼羆だ。
木の根元より三分の一程骨盤がはみ出している。
形から雌であると推察できた。
あの熊の母熊であろう。
この大樹、恐らく樹齢二千年は優に超えているであろう。樹皮の色合いでなんとか判断できた。
であれば根に潰された母熊はそれよりも前に死んでいた事になる。
そして更に、先程漸く倒した王級の鬼羆はその母熊から生まれたであろう事を考えればあの熊の齢も推し量れるというものだ。
この樹は倒さなくてはならない。
直径は20間はあろう。その上樹齢を重ねて硬度を上げに上げた砥木である。
水行法 白糸でも傷を付けられない。
しかし樹上の霧を吐く宿り木を滅さない事にはまたあの様な強力な魍魎が生まれてしまう。
しかしシンカも伊達に森に深く潜っているわけではない。背嚢より陶器の小瓶を取り出した。
中には胡麻斑粘這蟲の乾燥粉末が収められている。
僅かな量の粉末を幹に付着させるとその位置から径にして5尺程が瞬時に結晶化し音も無く崩れた。
それを何度か繰り返し、砥木の根本の表面を半分程半円に削った。
砥木は表面は非常に硬いが、或る程度内側はそこまでの硬度を持たない。
管が通っているからだ。
ゆっくりと体内で練り高めた経を肺に溜め込む。
その一部を口に流し込み口腔内で水へと変化させる。
頰が大きく膨れる。
口と頰を窄めて中の水を圧縮すると勢いよく吹き出した。
白い糸の様に細い水条が甲高い音と共に発射され、砥木に突き立つ。
貫く事は出来なかったが、時間をかける事により細い水流は砥木をとうとう穿った。
そこからゆっくりと水条を動かし、少しづつ切り倒しに掛かった。
幾度の呼吸と製経を挟み、たっぷり一刻を掛けて幹に横一条の切り目を刻んだ。
反対側に回り込むと再度経を体内に生み出し、地に両手を突いた。
土行 大駄津。
大地から斜めにせり出した巨大な杭が巨大な砥木に激突する。
砥木は針の様な細い葉を揺らしながらゆっくりと傾げ、とうとう地鳴りと地震と共にその威容を大地に横たえた。
濛々と立ち込めていた霧は土埃に散らされて、白い世界は褐色の土埃が立ち込める世界へと塗り替えられた。
霧を吐く宿り木を採取しようか迷うが今はそれどころではない。此処へは二度と訪れる事はないであろうし悩んだ末、一株だけ採取して背嚢に詰めた。
経の口は砥木の切株に塞がれている。早々新しい大樹は産まれないだろう。
森渡りとしての役目を終えた事を確認し切株と母熊の骨に背を向けて歩き出した。
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