第3章「不倫の証拠? 写真の男に見覚えがあるけれど……」
「今度は便座を温めっぱなしにするか、省エネにするかで喧嘩したの?」
義母さんが、呆れたようにため息をつきながら言った。
場所はホテルの会議室。
私とトシアキ、そして双方の両親が揃って、二度目の離婚協議を行っているところだ。
前回の話し合いでは、ウォシュレットの設定を巡る喧嘩をはじめ、私たちのあまりにくだらない言い争いを聞かされ、両親たちはすっかり呆れ果ててしまった。
今回も、また同じような理由で離婚を言い出したと思っているのだろう。
まあ、気持ちはわかる。
私だって、自分たちがくだらないことで揉めているという自覚はあるのだから。
でもね、義母さん。
そのくだらないことで毎日喧嘩する生活が、どれだけストレスになるか……。
いや、今さら説明しても仕方ないか。
とにかく、今回はちゃんと半年も考えたのだ。
お互いに妥協できるところはないか、何度も話し合った。
その結果、やっぱり離婚するのが一番だという結論に達したのだから、今度こそ納得してもらいたい。
そう思って、私が口を開こうとしたところだった。
「いや、今回はもっとシリアスな話なんだ」
隣に座るトシアキが、私より先に口を開いた。
……シリアス?
何よ、急に。
いつになく真面目な顔をしているけれど、そんなに深刻な話なんてあったかしら?
少なくとも、私は何も聞いていない。
「……何よ。また何か文句があるなら、まとめて言ってよ」
私がそう言うと、トシアキはなぜか得意げな顔になった。
そして、全員の顔を見回してから、ゆっくりと口を開いた。
「ノゾミは不倫をしている。それも、だいぶ前からね」
……はあ?
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
私の母は目を見開き、父は絶句している。
義父さんも義母さんも、信じられないといった表情で私たちを見つめていた。
いや、ちょっと待って。
不倫?
私が?
……誰と?
「ちょっと待って。私、いつ誰と不倫したっていうのよ?」
思わず聞き返すと、トシアキは鼻で笑った。
「お前がちゃんと認めて謝るなら、慰謝料は少しまけてやるぞ」
……何、それ。
意味がわからない。
そもそも、不倫なんてしていないのに、何を認めろというのか。
「冗談じゃないわよ! そんな事実無根の話で、どうして私が慰謝料を払わなきゃいけないのよ!」
「はあ……往生際が悪いな。もう全部わかってるんだよ」
わざとらしくため息をつくトシアキ。
その態度に、ますます腹が立ってくる。
何が全部わかってる、よ。
だったら、その根拠を見せてみなさいよ!
「そこまで言うなら、証拠でもあるんでしょうね?」
「ああ、もちろんあるぞ」
トシアキは待ってましたとばかりにスマートフォンを取り出した。
そして、画面を私たちに向ける。
「これを見ろ。お前の不倫の証拠だ」
そこには、路上で男性と向き合って話している私の姿が写っていた。
……え?
何、これ?
確かに、写っている女性は私だ。
でも、この男の人は誰?
見覚えがあるような、ないような……。
私は必死に記憶をたどった。
こんな男性と二人で出かけた覚えなんてない。
そもそも、知らない人じゃないの?
……あっ!
思い出した!
確か、一ヶ月くらい前だったと思う。
駅前で、知らない男性に道を尋ねられたことがあったのだ。
そうだ、間違いない。
あのときの男性だ。
「これ、この前道を聞かれた人じゃない! 私、道を教えただけよ!」
「はあ? お前なあ、そんなバレバレの嘘が通じると思ってるのか?」
トシアキは呆れたような顔をした。
……いや、本当なんだけど。
何なのよ、その態度は。
「嘘じゃないってば! 本当に道を聞かれただけなの!」
「はいはい。そういうことにしておきたいんだな」
「だから!」
「ああ、もういい。そこまで言うなら、決定的な証拠を見せてやるよ」
トシアキはそう言うと、スマートフォンを操作した。
「本当は両親の前で恥をかかせたくなかったんだけどな。お前がそこまで往生際が悪いなら仕方ない」
……何よ、その恩着せがましい言い方は。
腹を立てながら画面を覗き込んだ私は、次の瞬間、言葉を失った。
そこには、ホテルの入口に向かって歩いている男女の姿が写っていた。
男性の方は、先ほど道を尋ねてきた人に見える。
そして、その隣にいる女性は……。
……私?
服装も髪型も、持っているバッグも、確かに私のものに見える。
トシアキが画面を切り替えると、今度は同じ二人がホテルから出てくるような写真まで表示された。
「どうだ? これでもまだ不倫していないって言うのか?」
……ちょっと待って。
何、これ。
どういうこと?
「……そんなホテルに行った覚えなんてないんだけど」
私は思わず呟いた。
いや、覚えがないどころじゃない。
絶対に行っていない。
そもそも、あの男性とは道を尋ねられたときに少し話しただけだ。
それっきり、会ったこともない。
なのに、どうしてこんな写真があるの?
私が混乱していると、隣から母の声が聞こえた。
「ねえ、ノゾミ……あなた、本当に間違いを犯していないんでしょうね?」
……お母さん?
私は思わず母の顔を見た。
母は心配そうな顔で私を見つめている。
どうやら、本当に私が不倫したのではないかと疑っているらしい。
……嘘でしょう?
お母さんまで、そんなことを言うの?
「してないわよ! お母さんまで何言ってるの!」
「でも、こんな写真が……」
「だから、知らないって言ってるでしょう!」
思わず声が大きくなってしまった。
けれど、無理もないと思う。
やってもいない不倫を疑われて、しかも自分の親にまで信じてもらえないなんて。
こんなに腹立たしくて、悲しいことがあるだろうか。
「ほらな。これだけ証拠が揃ってるのに、まだ認めないんだぜ」
トシアキが、勝ち誇ったように言った。
その顔を見ていると、殴ってやりたいくらい腹が立つ。
だけど……。
どうして?
どうして、こんな写真があるの?
不倫していないことは、私自身が一番よくわかっている。
それなのに、写真に写っているのはどう見ても私だ。
……いや、待って。
写真?
そうよ、写真じゃない。
今の時代、画像なんて簡単に加工できるはずだ。
もしかして……。
「……これ、加工したんじゃないの?」
「はあ?」
「そうよ! 生成AIとか、画像編集とか! 今ならこういう写真だって作れるでしょう!」
そう言うと、トシアキは馬鹿にしたように笑った。
「ははっ! 今度は写真が偽物だって? お前、本当に往生際が悪いな!」
「だって、私はこんなところに行ってないんだから!」
「じゃあ、この写真は何なんだよ?」
「だから、加工したんじゃないかって言ってるでしょう!」
「そんな言い訳が通じると思うなよ!」
……くっ!
腹が立つ。
でも、今の私には写真が加工されたものだと証明する手段がない。
確かに、こんな写真が出てきたら、周りの人が疑うのも無理はないだろう。
実際、私の両親まで困惑している。
義父さんも、難しい顔で写真を見つめていた。
このままでは、私が不倫したことにされてしまう。
冗談じゃない。
やってもいない不倫を認めて、慰謝料まで払わされるなんて、絶対に嫌だ。
でも、どうすればいい?
写真が偽物だと証明するには、専門家に調べてもらうしかないんだろうか。
そうなると、お金も時間もかかるかもしれない。
そこまでして争うべきなのか。
それとも、多少の慰謝料を払ってでも、さっさと離婚した方がいいのか。
……いやいや!
何を考えてるのよ、私!
どうして、何も悪いことをしていない私が、お金を払わなきゃいけないの?
そんなのおかしいでしょう!
私は拳を握りしめた。
時間がかかろうが、お金がかかろうが、絶対にこのまま終わらせるわけにはいかない。
そう決意した、そのときだった。
「……ねえ、トシアキ」
それまで黙っていた義母さんが、ふいに口を開いた。
「何だよ、母さん」
「ちょっと、最初の写真をもう一度見せてくれない?」
「……は?」
「ほら、ノゾミさんが道を聞かれたって言っていた写真よ」
義母さんは、何か考え込むような顔をしていた。
トシアキは怪訝そうに眉をひそめたが、渋々スマートフォンを操作した。
「……これか?」
「そう、それ」
義母さんは画面を覗き込むと、しばらく黙って写真を見つめていた。
そして、首をかしげた。
「……ねえ。この男の人、あなたの大学時代のお友達によく似ていない?」
……え?
大学時代の友達?
「ほら、昔うちにも何度か遊びに来ていたじゃない。あの人よ。名前は何だったかしら……」
義母さんがそう言った瞬間だった。
トシアキの表情が、ピクリと動いた。
「……は? いや、違うよ。別人だって」
……あれ?
何か、変じゃない?
さっきまであんなに自信満々だったのに、急に声が上ずったような気がする。
義母さんは、なおも不思議そうに写真を見つめていた。
「そうかしら? 私にはよく似ているように見えるんだけど……」
「だから違うって! ちょっと似てるだけだろ! 俺だって知らない男だよ!」
トシアキは、少し強い口調で言い返した。
そして、さっさとスマートフォンを引っ込めてしまった。
……何よ、それ。
どうして、そんなに慌てるの?
今までのトシアキなら、義母さんに何か言われても、もっと堂々と言い返していたはずだ。
なのに、今は明らかに様子がおかしい。
もしかして……。
もしかして、あの写真の男性は、本当にトシアキの知り合いなんじゃないの?
そう考えると、いろいろと引っかかることがある。
そもそも、どうしてトシアキは、私が道を尋ねられただけの場面を撮影できたのだろう?
偶然にしては、都合がよすぎない?
それに、ホテルの写真だって……。
私は改めてトシアキの顔を見た。
さっきまで勝ち誇っていた男が、今は妙に落ち着かない様子で視線を逸らしている。
……怪しい。
絶対に、何か隠している。
まだ何も証明できたわけじゃない。
でも、さっきまでどうすればいいのかわからなかった私の頭に、ようやく一つの考えが浮かんできた。
写真が偽物かどうかを調べる前に、まずは写真に写っている男性が誰なのか、確かめればいいんじゃない?
私はゆっくりと息を吸い込んだ。
――ねえ、トシアキ。その写真の男、本当にあなたの知らない人なの?




