第2章「半年間の仮面夫婦生活。そして夫が思いついた、とんでもない離婚方法」
一度目の離婚協議で、私たちは双方の両親から散々説得された。
「結論を急ぎすぎだ。もう少し話し合って、お互いに歩み寄る努力をしなさい」
言いたいことはわかる。
確かに、結婚して一年も経たないうちに離婚するなんて、あまり褒められた話ではないだろう。
だけど、もう無理だと思っている相手と、今さら何を話し合えばいいのだろう?
正直、そんな気持ちだった。
それでも、両親たちの言い分にも一理ある。
私たちは渋々ながら、もう少しだけ夫婦としてやっていけないか考えてみることにした。
そして数週間後。
私とトシアキは、リビングのテーブルを挟んで向き合っていた。
お互いに妥協できる部分はないか、改めて話し合うためだ。
……けれど。
「ねえ、家事の分担についてなんだけど。どうして洗濯も食事の後片づけも、ほとんど私がやってるわけ?」
「いや、俺だって仕事で疲れてるんだよ。それに、お前はやり方が細かすぎるんだって」
「私だって仕事してるんだけど?」
「だから、いちいち文句を言うなよ。気になるんなら自分でやればいいだろ」
「はあ? それじゃ何も変わらないじゃない!」
……ダメだ、こりゃ。
話し合いを始めて、まだ十分も経っていない。
なのに、もう喧嘩になってしまった。
家事の分担だけじゃない。
お金の使い方、休日の過ごし方、普段の生活習慣。
何を話しても意見が合わない。
もちろん、私だって自分の考えが全部正しいとは思っていない。
トシアキから見れば、私にも我慢ならないところがあるんだろう。
だけど、それは私も同じなのだ。
例えば、あのウォシュレットの件。
トシアキにとって、便座が自動で上がる設定は便利なんだろう。
でも、私にとっては不便でしかない。
そして、どちらも譲るつもりがない。
「だから、なんでそんな細かいことにこだわるんだよ!」
「だったら、あなたもこだわらないでよ!」
結局、また同じ言い争いになってしまう。
本当に、どうしようもない。
別に、トシアキだけが悪いと言いたいわけじゃない。
ただ、私たちは絶望的に相性が悪いのだ。
話し合いを重ねれば重ねるほど、その事実を思い知らされるばかりだった。
そして、何度目かの話し合いで、とうとう二人とも黙り込んでしまった。
もう、言うことがない。
何を言っても喧嘩になるだけだし、お互いの考えが変わるとも思えない。
私は大きくため息をつくと、トシアキに提案した。
「……ねえ。もう、お互いに干渉するのをやめない?」
「はあ?」
「だから、必要なこと以外はお互いに口を出さないの。もう、それでいいじゃない」
トシアキは少し考え込んでいたが、やがて頷いた。
「……ああ。俺もその方がいいわ」
こうして私たちは、夫婦というよりも、単なる同居人になった。
それからの生活は、驚くほど静かなものだった。
会話は必要最低限。
食事も基本的には別々。
掃除や洗濯についても、自分のことは自分でやる。共有部分だけは最低限の分担を決めた。
それ以外は、お互いに干渉しない。
すると、不思議なことが起こった。
あれほど毎日のように繰り返していた喧嘩が、ほとんどなくなったのだ。
例えば、以前ならトシアキが靴下を脱ぎっぱなしにしていたら、私はすぐに文句を言っていただろう。
でも、今は違う。
ああ、また脱ぎっぱなしにしてるわ。
そう思うだけで、放っておく。
だって、私が片づける必要なんてないんだから。
相手に期待しなければ、腹も立たない。
そんな当たり前のことに、今さら気づいてしまった。
ある日の夜。
リビングで偶然トシアキと顔を合わせたとき、私はふと思ったことを口にした。
「不思議よね。お互い何も期待しなくなったら、喧嘩もしなくなった」
すると、トシアキは呆れたような顔をして言った。
「だったら、最初から結婚する必要なんかなかったな」
「……それには私も同感よ」
本当に、そう思う。
こんな生活をするくらいなら、別々に暮らした方がずっといいじゃない。
それでも、不思議なことに今の生活は以前よりずっと楽だった。
毎日のように喧嘩していた頃と違い、家に帰るのが苦痛ではなくなったのだ。
でも、それは夫婦仲が改善したからではない。
お互いに、相手をどうでもいい存在だと思うようになっただけ。
……それって、夫婦でいる意味があるのかな?
答えなんて、とっくに出ている。
私は、もうこの人とはやっていけない。
ただ、また両親たちに反対されるのも面倒だ。
だからこそ、もう少し時間を置くことにした。
その間に、新しい生活のことでも考えておこう。
そう思うようになっていた。
一方、その頃。
トシアキは大学時代の友人と、居酒屋で酒を飲んでいた。
「マジで、いい加減にしたいんだよ。あいつ、ウォシュレットの使い方にまで文句つけてくるんだぜ?」
トシアキはジョッキをテーブルに置くと、吐き捨てるように言った。
「そんなに細かいことが気になるなら、自分で何とかすりゃいいだろうに。いちいち俺に文句言いやがって」
「ははっ。そりゃ大変だな」
友人は笑いながら相槌を打つ。
トシアキは以前から、ノゾミとの結婚生活について、この友人によく愚痴をこぼしていた。
もちろん、話すのは自分がどれだけ我慢させられているかということばかり。
自分にも悪いところがあるなどとは、少しも考えていなかった。
「もう別れるつもりなんだろ?」
「ああ。こっちはとっくにそのつもりなんだけどな。親たちがうるさくてさ」
「ふーん。でも、それってもったいなくないか?」
「……何が?」
友人はニヤリと笑った。
「いやさ、お前ばっかり我慢させられてきたんだろ? それなのに、ただ離婚するだけってのも損じゃねえか?」
「……まあ、そうだけどよ」
「だったらさ、どうせ別れるなら、その性悪女をハメて小遣い稼ぎでもしようぜ」
「……は?」
トシアキは思わず友人の顔を見た。
「何だよ、それ。どうやって?」
「簡単だよ。あいつが不倫してることにすりゃいいんだ」
「不倫?」
「ああ。不倫の証拠を突きつけて、慰謝料を払わせるんだよ」
「いや、あいつが不倫なんかしてるわけ……」
「だから、してることにするんだって」
友人は、こともなげに言った。
「今どき、写真一枚あればどうにでもなるだろ? 本人そっくりの格好をした女を用意して、それらしい場所で撮影すればいいんだよ」
「……でも、偽物だってバレるんじゃないか?」
「そこは考えてある。写真そのものは本物にするんだよ。そうすりゃ、加工を疑われても問題ないだろ?」
トシアキはしばらく黙り込んだ。
確かに、そんなことをすればノゾミを悪者にできる。
離婚するだけでなく、慰謝料まで取れるかもしれない。
だが、それはつまり、不倫の証拠を捏造するということだ。
さすがに、まずいのではないか。
一瞬、そんな考えも頭をよぎった。
しかし、すぐに別の思いが浮かんできた。
そもそも、俺はずっと我慢してきたんだ。
あいつのわがままに振り回されて、毎日のように喧嘩して。
結婚生活がこんなことになったのだって、元はといえばあいつのせいじゃないか。
だったら、少しくらい慰謝料を取ったって罰は当たらないだろう。
むしろ、今まで我慢させられてきた分を取り返すだけだ。
そんな都合のいい理屈が、トシアキの頭の中で出来上がっていく。
「……本当に、そんなことができるのか?」
「できるって。俺にいい考えがあるんだよ」
友人は自信ありげに笑った。
「お前、本当にあいつと別れたいんだろ?」
「ああ。当たり前だ」
「だったら決まりだな。せっかくだし、最後に一泡吹かせてやろうぜ」
トシアキはしばらく考え込んだ後、口元を歪めた。
「……いいな、それ。あいつがどんな顔するか、見ものだぜ」
こうして二人は、ノゾミを陥れるための計画を立て始めた。
その計画が、どれほど浅はかなものなのか。
このときの二人は、まだ気づいていなかった。
* * *
そして、最初の離婚協議から半年が経った。
私にとって、この半年間は、離婚への気持ちを固めるための時間だった。
最初の頃は、少しくらいはやり直せる可能性があるんじゃないかとも思っていた。
でも、結局は何も変わらなかった。
いや、正確には変わったこともある。
お互いに干渉しなくなったおかげで、喧嘩はしなくなった。
でも、それだけだ。
夫婦としての会話もなければ、一緒に過ごす時間もほとんどない。
こんな生活を続けるくらいなら、さっさと別れてお互いやり直した方がいい。
もう、十分だろう。
そう結論を出した私は、ある日、トシアキに声をかけた。
「ねえ、トシアキ。やっぱり離婚しましょう」
「……あ?」
「もう半年も経ったし、十分考えたでしょう? こんな生活を続けていても意味がないわ。きっぱり別れて、お互いにやり直しましょうよ」
トシアキは私の顔をじっと見た。
一瞬、何かを考えているように見えたが、すぐに頷いた。
「ああ、いいぞ。俺もそう思ってたところだ」
……あら。
意外とあっさりしてるわね。
もっと文句を言われるかと思っていたのに。
まあ、前から離婚したがっていたのはトシアキも同じだ。
半年もこんな生活を続けていれば、考えることも一緒なのだろう。
「じゃあ、今度こそちゃんと両親たちに話しましょう」
「そうだな。でも、また前みたいに反対されたらどうする?」
「それは困るけど……でも、もう半年も経ってるんだし、今度は納得してくれるんじゃない?」
「どうだろうな。あの人たち、結構しつこいからな」
「そうね……」
確かに、また反対される可能性はある。
それは面倒だ。
けれど、今回は前と違う。
私たちはちゃんと話し合ったし、半年間も考える時間を取ったのだ。
そのうえで離婚したいという結論が変わらなかったのだから、今度こそ理解してもらえるはず。
少なくとも、私はそう思っていた。
「まあ、いい。俺も自分の親くらいは説得できるようにしておくから、お前も自分の親を何とかしろよ」
「わかったわ。私も話しておく」
珍しく、話し合いがすんなり終わった。
何だか拍子抜けしてしまう。
でも、よかった。
これでようやく、この結婚生活を終わらせることができる。
私は胸のつかえが少し取れたような気がした。
これから引っ越し先を探して、新しい家具を揃えて……。
そう考えると、久しぶりに明るい気持ちになれた。
トシアキも、ようやく私と別れられると思って嬉しいのだろう。
妙に機嫌がよさそうだった。
まあ、そこはお互いさまね。
そんなことを考えながら、私は自分の部屋へと戻った。
その背中を見送るトシアキが、スマートフォンを手にして、ニヤリと笑っていたことにも気づかずに。
そして、私は知らなかった。
そのスマートフォンの中には、すでに私を陥れるための、とんでもない「証拠」が用意されていたことを。
次の離婚協議で、私がその写真を突きつけられることになるなんて、このときは夢にも思っていなかった。




