第1章「不倫を認めたら慰謝料をまけてやる? ……ちょっと待って、私が不倫?」
「ノゾミは不倫をしている。それも、だいぶ前からね」
その一言で、ホテルの会議室が静まり返った。
テーブルを挟んで向かい合っているのは、私と夫のトシアキ、そして双方の両親。六人が揃ってこんな場所に集まっているのは、もちろん楽しい食事会のためではない。
離婚について、改めて話し合うためだ。
ところが、話し合いが始まった途端、トシアキはとんでもないことを言い出した。
隣に座る私の父は絶句し、向かいの義父さんは目を見開いている。義母さんに至っては、持っていたティーカップをソーサーに戻す手を止め、驚いた顔で私を見つめていた。
いや、ちょっと待って。
私が不倫? それも、だいぶ前から?
……何の話?
あまりに唐突で、あまりに荒唐無稽な告発に、私はただ目の前の男を凝視することしかできなかった。
そんな私を見て、トシアキはわざとらしくため息をつくと、妙に得意げな顔で言い放った。
「お前がちゃんと不倫を認めて謝るなら、慰謝料は少しまけてやるぞ」
……はあ?
何を言っているのか理解できなかった頭に、ようやく血が巡り始める。
そして、困惑が一気に怒りへと変わった。
「ちょっと待って。私、いつ誰と不倫したっていうのよ?」
私の反論に、トシアキは鼻で笑った。
まるで、すべてを知っていると言わんばかりの態度だ。
何なのよ、その自信は。
一体、何を根拠にこんなことを言い出したんだろう?
そもそも、私たちはお互いに離婚したいと思っていたはずだ。
それなのに、なぜ今さら不倫なんて話が出てくるのか。
私には、さっぱり理解できなかった。
思えば、半年前の最初の離婚協議では、トシアキもこんな態度ではなかった。
あの時は、私もトシアキも、とにかく早く別れたいという点では意見が一致していたのだから。
――そう、あれは半年前のことだ。
当時、私たちは結婚してまだ一年も経っていなかった。
にもかかわらず、夫婦揃って離婚したいと言い出したものだから、双方の両親は大いに困惑していた。
「あのね、あなたたち。まだ結婚して一年も経っていないじゃない。ちょっと結論を出すのが早すぎるんじゃないかしら?」
義母さんの言葉に、私もトシアキも黙り込んだ。
「もう少しお互いに妥協するなり、話し合うなりした方がいいと思うんだけど……」
その意見はもっともだと思う。
でも、もう無理なのだ。
顔を合わせれば喧嘩ばかり。何かにつけて意見が合わず、ほんの些細なことでも言い争いになる。
そんな生活に、私たちはすっかり疲れ果てていた。
「義母さんの仰ることはよくわかるんです。でも、もう話し合っても無駄だと思うんです。本当に、何もかも合わないんですよ」
「俺も同じ意見だ。こいつとは、もうやっていけない」
トシアキも私に同意する。
もっとも、同意しながらも私を睨んでくるのだから、本当に嫌な男だ。
私も負けじと睨み返す。
そんな私たちを見て、義母さんは大きなため息をついた。
「もう、よしなさい。……あのね、ノゾミさん。何がそんなに合わないのか、私たちにもわかるように、具体的に話してもらえないかしら?」
具体的に、か。
そうね。それなら……。
「じゃあ、一つ例を挙げますね。三ヶ月ほど前に、私、ウォシュレットを買ったんです。十万円以上する、そこそこ高級なものなんですけど」
「そうだ! こいつ、何の相談もなく勝手に買いやがって!」
いきなりトシアキが口を挟んできた。
「別にいいでしょう。私が稼いだお金で買ったんだから」
「だからって、相談くらいしろよ!」
「トシアキ! あなたは黙っていなさい。ノゾミさんの話が進まないでしょう!」
義母さんに叱られて、トシアキは渋々口を閉じる。
私は小さく息を吐いてから、話を続けた。
「それでですね。そのウォシュレットなんですけど、人が近づくと自動で蓋が開くんですよ。いちいち開ける必要がなくて、とっても便利なんです」
そこまではよかった。
問題は、その後だ。
「なのに、トシアキが勝手に設定を変えるんですよ。蓋だけじゃなくて、便座まで自動で上がるように」
男性には便利なのかもしれない。
だけど、私にとっては余計なお世話でしかない。
トイレに入るたび、いちいち便座を下げなければならなくなるのだから。
しかも、私が設定を元に戻しても、気がつけばまた便座が上がるようになっている。
私が戻せば、トシアキが変える。
トシアキが変えれば、私が戻す。
そんな馬鹿馬鹿しいことを、何度も繰り返していたのだ。
「私が買ったものなのに、何度言っても勝手に設定を変えるんですよ! もう、トイレに行くたびにイライラして!」
思い出しただけでも腹が立つ。
思わずトシアキを睨みつけると、向こうも黙っていられなかったらしい。
「なんだよ、そんな細かいこと! 便座を下げるくらい大したことないだろ!」
「はあ? 大したことないなら、あなたも設定を変えなきゃいいじゃない!」
「いちいち細かいんだよ、お前は!」
「細かいって何よ! だったら、どうでもいい設定をわざわざ変更しないでよ!」
「俺だって使うんだから、好きに設定させろよ!」
「だったら、私が設定を戻したって文句ないでしょう!」
また始まってしまった。
私だって、こんなことで言い争いたいわけじゃない。
けれど、どうしても腹が立ってしまうのだ。
結局、どちらも一歩も譲らないまま、義母さんの大きなため息が響いた。
「いい加減にしなさい、あなたたち。トイレの便座がどうのこうのって……子供じゃないんだから」
呆れられるのも無理はないと思う。
自分でも、くだらないことで揉めているという自覚はあるのだから。
だけど……。
「義母さん。確かに、くだらないことだとは私も思います。でも、そんなことばっかりなんですよ」
私は、できるだけ冷静に説明しようとした。
「便座の設定だけじゃないんです。毎日の生活で、ちょっとしたことが何もかも合わないんです。お互いに譲れないから、どんどんストレスが溜まって……もう、疲れちゃったんですよ」
本当に、そうなのだ。
便座を上げるか下げるかなんて、本来なら離婚の理由にするような話じゃない。
でも、こんな小さな衝突が毎日続いたら?
何をするにも相手の行動が気になり、相手の言葉に腹が立ち、しまいには同じ空間にいることさえ苦痛になってくる。
私たちは、そんな状態になっていた。
だからこそ、一刻も早く別れたい。
けれど、残念ながら親たちには理解してもらえなかった。
「気持ちはわからなくもないけどね。でも、そんな理由で離婚するなんて、あまりにも早計じゃないかしら」
義母さんが困った顔で言うと、今度は私の母も口を開いた。
「そうよ、ノゾミ。あなたもあんまり意地を張らないで。お互いに譲り合えるところがあるはずでしょう?」
「でも、お母さん……」
「そもそも、あなたたちが結婚するときにも言ったじゃない。もう少し慎重に考えた方がいいんじゃないかって」
うっ。
それを言われると弱い。
私とトシアキは、友人の紹介で知り合い、交際を始めた。
最初から結婚を意識していたこともあって、付き合い始めて半年ほどで結婚を決めてしまったのだ。
当時は何の問題もないと思っていた。
でも今になって考えれば、もう少しお互いのことを知ってから決めるべきだったのだろう。
その点については、私も反省している。
トシアキも同じことを考えていたのか、珍しく素直に口を開いた。
「母さんの忠告を聞かなかったのは、今じゃ後悔してるよ。もっと考えてから結婚すればよかったって」
「でしょう? だったら今回は、私たちの言うことも聞きなさい。結婚も離婚も、そんなに簡単に決めるものじゃないのよ」
結局、その場で離婚を認めてもらうことはできなかった。
正直、今すぐにでも別れたかった。
けれど、両家の両親が揃って反対している以上、少し時間をかけた方がいいのかもしれない。
「……わかりました。もう少しだけ、考えてみます」
私がそう答えると、トシアキも渋々頷いた。
その日の話し合いは、それで終わった。
――そして、半年後の今日。
再び両親を交えて離婚について話し合うことになった私たちは、なぜか不倫という、とんでもない問題に直面している。
目の前では、トシアキが相変わらず勝ち誇った顔をしていた。
「往生際が悪いな。もう全部わかってるんだよ」
……何が全部わかっている、よ。
不倫なんてしていない。
心当たりだって、まったくない。
それなのに、この男は平然と私を裏切り者扱いし、慰謝料まで要求してきたのだ。
もしかして、夫婦喧嘩で散々言い合ってきたことを、こんな形で仕返ししようとしているのだろうか。
それとも、何か別の理由があるのか。
どちらにしても、冗談じゃない。
離婚することについては、私だって大賛成だ。
むしろ、一刻も早くこんな男とは縁を切りたい。
でも、だからといって、やってもいない不倫を認めるつもりなんて毛頭ない。
私は怒りを抑えながら、トシアキをまっすぐ睨み返した。
――結婚生活をやり直せと言われたあの日から、半年。
一刻も早く私と別れたいはずのトシアキは、なぜ今になって、不倫なんてありもしない罪を私に着せようとしているのだろう?




