第9話 国から捨てるべきもの
第9話 国から捨てるべきもの
エドワードが帰国してから七日後、レイモンド王国の紋章を付けた騎士たちが領主館を訪れた。朝から降っていた雪は昼前に雨へ変わり、玄関の石床には黒い長靴の跡がいくつも残っている。庭の冬咲きの菫は雨粒を載せ、紫色の花を重たそうに伏せていた。
アリスは灰色の上着と深緑色のスカートを着て、応接室へ入った。卓上には温かい紅茶と、干し林檎を混ぜた焼き菓子が用意されていたが、王国の騎士は手をつけていない。騎士団長は濡れた手袋を膝へ置き、封蝋のついた書状をアリスへ示した。
「アリス・フェルナー。王国の機密文書を国外へ持ち出した容疑により、身柄の引き渡しを求める」
「機密文書とは、どの書類でしょうか」
「王宮の物資購入記録、勤務記録、会議の内容を記した帳面だ。あなたが国境を越える際、持ち出したと報告されている」
「報告したのは、どなたですか」
騎士団長はすぐに答えなかった。エドワードが署名した告発状には、持ち出した文書の名称も、機密に指定された日付も記されていない。ルーカスは書状へ目を通し、暖炉の前に立った。
「証拠も確認せず、帝国の官吏を拘束することは認めない」
「彼女はレイモンド王国の国民です」
「国外追放命令により、国民としての保護を停止したのはそちらだ。都合に合わせて、罪人にも所有物にもできると思うな」
騎士団長は濡れた手袋を握った。彼自身も、命令の不備に気づいているらしい。アリスは自室から革張りの帳面を持ってこさせ、机の上へ置いた。
「私が持ち出したのは、この一冊だけです。立ち会いのもとで確認していただいて構いません」
帳面には、アリスが何月何日に、何時間、どの仕事をしたかが記されていた。王太子妃教育の時間、備品の照合、侍女の勤務表作成、各部署から届いた申請の振り分け。支出額や会議の内容ではなく、自分が引き受けた作業の名称と時間だけである。
「朝六時から、夜十一時まで働いていた日があります」
騎士団長がページをめくる手を止めた。休日の欄は空白で、報酬の欄には毎月『なし』と書かれている。食事を取れなかった日には、小さな丸印がついていた。
「これは機密ではありません。私自身の労働記録です」
「しかし、王宮内の部署名が書かれている」
「部署名は王国年鑑にも掲載されています。どの法律の、どの条文に違反するのでしょうか」
騎士団長は告発状を読み直した。該当する条文は記されていない。アリスは焼き菓子を一つ取り、干し林檎の固い部分をゆっくりかんだ。
「この帳面を持って帰らなければ、我々は任務を果たせない」
「原本は渡せません。必要なページの写しなら、こちらで作成します」
「拒むなら、後ろめたいことがあると見なされるぞ」
「原本を渡して、紛失や焼却をされたら困ります。一度、同じことがありましたから」
騎士団長は口を閉じた。王太子執務室の管理記録が焼却されたことは、彼も知っているらしい。ルーカスは書記を呼び、王国側、帝国側、アリス本人の三者が立ち会って写しを作るよう命じた。
写しを作る途中、エルンストが帳面の一行へ目を留めた。二年前、アリスは北部救済用の毛布五百枚について、複数の部署から届いた請求を照合していた。商会名は違うが、金額と納入日が、辺境領の交易台帳に残る記録と一致している。
「この毛布は、国境を通っておりません」
エルンストが辺境領の台帳を持ってきた。レイモンド王国からクラウス帝国北部へ毛布を送ったことになっているが、国境の検査記録がない。存在しない荷物へ、救済予算から代金が支払われていた。
「こちらの薬草も同じです」
アリスは別の記録を開いた。王都の施療院へ納入されたはずの薬草が、帳簿上では一度国境を越え、帝国の商会から買い戻されたことになっている。しかし辺境領の倉庫には、荷物を受け取った記録がなかった。
調査を進めると、水増し発注、架空の運送費、存在しない職員への給与が次々に見つかった。アリスが照合制度を作った二年前から不正は一度止まっている。だが彼女の追放後、同じ商会への支払いが再開され、以前より金額も増えていた。
「告発を撤回するだけでは済みません」
ルーカスは王国の騎士団長へ、二国間の合同監査を求めた。架空の交易に帝国商会の名が使われた以上、帝国にも調査する権利がある。騎士団長は焼き菓子に一度も触れないまま、証拠の写しを持って帰国した。
一か月後、合同監査会がレイモンド王宮で開かれた。アリスも証人として出席し、雪解け水の残る街道を馬車で王都へ向かった。春の初めの空は薄く曇り、道端には黄色い福寿草が顔を出していた。
久しぶりに入った王宮の大広間には、以前のような赤薔薇がなかった。花瓶には数日前の白百合が残り、水は薄く濁っている。長い机には王国と帝国の監査官が並び、中央にエドワードとエレナ、その父であるバルモア男爵が立たされていた。
「私は横領など知らない!」
エドワードは濃紺の礼装を着ていたが、襟元が少し曲がっていた。以前ならアリスが、謁見前に直していた場所である。彼の前には、アリスの名で作成された業務改善報告書が置かれていた。
「では、なぜ報告者の名があなたへ書き換えられているのですか」
監査官が原案と提出版を並べた。原案の作成者欄にはアリスの名があるが、国王へ提出された版ではエドワードに変わっている。アリスの名は、補助者の欄にさえ残されていなかった。
「王太子妃候補の功績は、王太子の功績でもある」
「婚約破棄をしたあとも、彼女の制度を自分の実績として報告しています」
「以前に提出した物を、再利用しただけだ」
「では、制度の内容をご説明ください」
エドワードは答えられなかった。未確認と決裁済みの違いさえ説明できず、赤い札は美観のための装飾だと言った。後ろに並ぶ役人たちが、そろって目を伏せる。
エレナは、管理記録を焼却したことを認めた。ただし、エドワードが不要だと言ったため従っただけだと主張する。エドワードは自分は命じていないと言い、二人は監査官の前で互いに責任を押しつけ始めた。
「あなたのお父上が経営する商会へ、架空の代金が流れています」
監査官が証拠を示すと、エレナの顔から化粧の下の色が消えた。バルモア男爵は別の商会が自分の署名をまねたと訴えたが、入金先は彼の私的な口座だった。その金で購入した馬車や宝石の請求書も、男爵邸から押収されている。
国王は玉座の上で、何度も額を押さえていた。朝から続いた監査の間に、食卓へ用意された肉のパイは冷え、表面の脂が白く固まっている。昼を過ぎた頃、国王はようやく処分を言い渡した。
エドワードは王位継承権を剥奪され、王太子の地位を失った。横領へ直接関与した証拠はなかったが、監督責任、職務怠慢、証拠の焼却容認、虚偽の功績報告を問われたのである。王族としての生活費も停止され、王立記録院で働きながら損害の一部を返済することになった。
バルモア男爵は爵位を剥奪され、屋敷と馬車、宝石は賠償のため競売にかけられた。エレナも平民となり、母方の親族が営む洗濯屋で働くことになった。自分の衣服を洗い、食費を計算し、使った物を元の場所へ戻す生活が始まる。
「アリス。待ってくれ」
監査会が終わると、エドワードが廊下まで追いかけてきた。礼装の上着は脱がされ、白いシャツと黒いズボンだけになっている。胸元にあった青玉の勲章も、すでに王家へ返還されていた。
「私は、お前がそこまで働いていたとは知らなかった」
「帳面には記録していました」
「見せなかったではないか」
「何度も、お渡ししました。殿下が床へ捨てたのです」
エドワードは口を開いたまま立ち止まった。廊下の窓から風が入り、花瓶の白百合が一枚、床へ落ちる。アリスはその花びらを拾わず、迎えに来たルーカスと一緒に王宮を出た。
それから数か月後、エドワードは王立記録院の下級職員として働いていた。灰色の上着を着て、朝から申請書へ番号を付け、日付順に綴じる。書類を一枚でも紛失すれば、最初から確認し直さなければならない。
「これは、ただの古い紙ではない」
年配の記録官が、破れた申請書をエドワードの机へ戻した。冬の燃料代を申請した女性が、三度提出した書類である。受付日を見ると、最初の申請から半年が過ぎていた。
「紙の向こうには、返事を待っている人がいる。勝手に捨てるな」
エドワードは返事をせず、破れた部分を薄い紙で補修した。昼食の鐘が鳴っても、書類の山は減っていない。支給された豆のスープは、食べる頃にはすっかり冷めていた。
辺境領へ戻ったアリスのもとには、監査結果をまとめた報告書が届いた。庭では雪が解け、白い鈴蘭が小さな芽を出している。アリスは朝食の黒パンを食べ終えてから、報告書を開いた。
エドワードとエレナの現在についても、最後のページに記されていた。アリスは二人を許したとも、さらに苦しめばよいとも思わなかった。自分の指で紙の角をそろえ、赤い印肉へ印章を押しつける。
「処理済みです」
アリスは報告書を、保管箱へ移した。机の中央には、今日取り組む橋の完成報告と、春の種まき計画を置く。エドワードたちはもう、彼女の一日を占める重要案件ではなかった。




