第10話 アラン模様のひざ掛け
第10話 アラン模様のひざ掛け
合同監査から戻って半月が過ぎると、辺境領にも遅い春が訪れた。領主館の庭では白い鈴蘭が小さな花を下げ、雪解け水を吸った土から若草の匂いが立っている。アリスは生成り色のワンピースに薄緑色の上着を重ね、開け放した窓辺の机で橋の完成報告を読んでいた。
グラン橋の修繕は予定どおり終わり、大型の荷馬車も通れるようになった。北部の診療所には一年分の薬草が届き、戦死した兵士の家族への補償金もすべて支払われている。アリスは報告書へ決裁済みの印を押したが、次の書類へ手を伸ばす前に、扉の隙間から白い鶏が入ってきた。
「そこは、あなたの定位置ではありません」
白い鶏は返事の代わりに机の脚をつついた。魔獣討伐の日から領主館へ居つき、いまでは厨房の隅に専用の籠まで置かれている。飼い主の老人は三日に一度、産んだ卵を半分ずつ分けるために通ってきた。
鶏を抱き上げようとしたところで、若い書記が部屋へ入ってきた。今日は前掛けに染みがなかったが、背中へ白い紙が一枚張りついている。『水を飲むこと』と書かれた注意書きを誰かに貼られたらしい。
「アリス様、辺境伯様がお呼びです」
「ご用件は?」
「教えてくださいませんでした。ただ、仕事の書類は持ってくるなと」
「それでは、仕事ではないのですか」
「さあ。閣下も書類を持っていませんでしたから、事件かもしれません」
書記は真剣な顔で答えた。領主が書類を持たずに歩いているだけで事件扱いされるようになったことを、本人は知らないらしい。アリスは帳面を机へ戻し、白い鶏を抱いたまま部屋を出た。
ルーカスは、領主館の裏手にある小さな庭で待っていた。濃紺の上着に黒いズボンを着て、両手には茶色い紙包みを抱えている。彼の足元には黄色い水仙が咲き、その一本を白い鶏がくちばしで引っ張ろうとしていた。
「その鶏まで連れてきたのか」
「私についてきたのです」
「抱えているではないか」
「廊下へ置いてくるわけにはいきません」
ルーカスは鶏とアリスを交互に見たあと、庭の長椅子を示した。座面には昨日の雨が少し残り、端に木の葉が張りついている。アリスが布で拭こうとすると、ルーカスは自分の上着から手拭いを出して先に拭いた。
「今日は、午後から休みにしてある」
「聞いておりません」
「言えば、先に仕事を詰め込むだろう」
「急ぎの書類が届いた場合は、どうするのですか」
「エルンストが判断する。本当に私たちが必要なら呼びに来る」
アリスは『私たち』という言葉を聞き返しそうになった。ルーカス自身も休むつもりらしい。白い鶏を地面へ下ろし、濡れていない場所へ腰を下ろすと、ルーカスが隣へ座った。
庭には、マルタが用意した籠が置かれていた。中には焼きたての胡桃パン、燻製肉、山羊のチーズ、蜂蜜入りの小瓶が入っている。水筒の蓋を開けると、湯気と一緒に林檎と肉桂の甘い香りが広がった。
「お昼を食べるために呼んだのですか」
「それもある」
「ほかにも?」
「先に食べよう。冷める」
ルーカスは胡桃パンを二つに割ろうとした。力を入れすぎたため、片方だけが大きく、もう片方は三分の一ほどしかない。彼は何も言わず大きいほうをアリスへ差し出した。
「閣下が割ったのですから、閣下が大きいほうをお取りください」
「私は胡桃が少ないほうが好きだ」
「先週、胡桃入りの焼き菓子を二つ召し上がりました」
「よく覚えているな」
「備蓄管理の一環です」
アリスは大きいほうを受け取った。パンの表面は香ばしく、中には砕いた胡桃がたくさん入っている。白い鶏が足元へ寄ってきたため、何も塗っていない部分を小さくちぎって与えた。
食事が終わると、ルーカスは茶色い紙包みを膝へ載せた。紐をほどく手が、帳面を扱うときより遅い。何度か結び目を間違えて締め直したあと、ようやく包みを開いた。
中から現れたのは、厚い毛糸で編まれた灰白色のひざ掛けだった。畳まれていても、表面にいくつもの立体的な模様が並んでいるのが分かる。アリスが両手で広げると、まだ新しい羊毛と乾いた草の匂いがした。
「アラン模様ですか」
「北海の島々で使われている編み方らしい。冬の交易に来た商人が持っていた」
太い縄のように交差する模様、菱形の模様、小さな木の実を並べたような模様が、ひざ掛けの端から端まで続いている。同じ灰白色の毛糸なのに、編み方が違うだけで、光の当たり方も手触りも変わった。裏側には、小さな糸の結び目がいくつか残っている。
「こちらでは、縄の模様は人とのつながり、菱形は実りを表すそうだ。木のような模様には、家族が健やかに育つようにという願いがあるらしい」
「すべて、同じ意味ではないのですね」
「編んだ者や土地によって違うそうだ。商人にも、意味を断定するなと言われた」
ルーカスは少し早口になった。贈り物の説明を覚えてきたことを知られたくないらしい。アリスは編み目の間へ指を滑らせ、ところどころ毛糸の太さが違うことに気づいた。
「手編みですね」
「ああ。村の編み手が、冬の間に作った物だ。大きさは、あなたの机の椅子に合うよう頼んだ」
「なぜ、私に?」
「冬の朝、あなたは寒くても窓辺の机を動かそうとしなかった。明るくて書類が読みやすいからと言って」
アリスは自分の膝を見た。寒い日はスカートの下で足を組み、片方の靴の中へもう片方の爪先を入れていた。誰にも見られていないと思っていた癖である。
「暖炉へ近い机へ移ればよかったのでは?」
「私がそう言ったら、配置を変える費用がもったいないと断っただろう」
「机を動かすだけなら、費用はかかりません」
「では、仕事の動線が変わると言う」
図星だったため、アリスは返事をしなかった。ルーカスはひざ掛けの端を持ち、アリスの膝へ掛ける。厚い毛糸の重みが両脚を包み、冷たい風が遮られた。
「ありがとうございます。大切に使います」
「汚れても使え。ほつれたら直せばよい」
「使用記録を作ったほうがよろしいでしょうか」
「作るな」
「洗濯の時期だけでも」
「好きなときに洗え。これは備品ではない。あなたの物だ」
アリスの手が、ひざ掛けの上で止まった。王宮で与えられたドレスも宝石も、すべて侯爵家か王家の所有物だった。国外へ出るとき、自分の物として持ち出せたのは着替えと帳面と木の櫛だけである。
「仕事への報酬でしょうか」
「違う」
「橋の修繕を終えた祝いですか」
「違う」
「では、どうしてくださるのですか」
ルーカスは水筒の蓋を閉めた。金具がうまくかみ合わず、二度やり直す。三度目にようやく閉まると、彼はアリスの膝ではなく、庭の水仙を見ながら答えた。
「あなたに、温かく過ごしてほしいと思ったからだ」
風が吹き、水仙の黄色い花が揺れた。白い鶏はひざ掛けの端をつつき、毛糸を引っ張ろうとする。アリスは慌てて端を持ち上げ、鶏から守った。
「すでに、ほつれそうです」
「だから鶏を連れてくるなと言った」
「言われておりません」
「顔には出した」
「顔で伝える方法は、業務手順に含まれていません」
ルーカスは声を出して笑った。アリスもひざ掛けを抱えたまま口元を緩める。庭の向こうでは、洗濯係が白いシーツを干し、風にあおられた一枚と格闘していた。
午後の鐘が鳴っても、二人はすぐに執務室へ戻らなかった。ルーカスは長椅子の背へ寄りかかり、アリスはひざ掛けの模様を一つずつ指でたどった。仕事をしない時間が長くなるにつれ、机の上に書類が積もっていくような感覚が胸の奥に広がったが、アリスは立ち上がらなかった。
「本当に、戻らなくてもよいのでしょうか」
「呼びに来ないということは、皆で処理できているということだ」
「私がいなくても、仕事が進むのですね」
「ああ。それが、あなたの作りたかった仕組みだろう」
アリスは、ひざ掛けを膝の上へ掛け直した。自分がいなくても仕事が進むことは、以前なら捨てられる前触れに思えた。しかし今日は、温かな毛糸の重みが、立ち上がろうとする両脚をその場所へとどめていた。
しばらくすると、ルーカスが長椅子の端で眠り始めた。いつも固く結ばれている口元が緩み、膝から片方の手袋が落ちる。アリスは拾って彼の上着のポケットへ入れようとしたが、思い直して、ひざ掛けの半分をルーカスの膝へ掛けた。
縄の模様と菱形の模様が、二人の膝の上でつながった。白い鶏が長椅子の下へ入り、丸くなって目を閉じる。アリスも背もたれへ体を預け、春の冷たい風の中で、午後の残りを何にも使わずに過ごした。




