第11話 何もしない日の、私の居場所
第11話 何もしない日の、私の居場所
改革が始まってから一年が過ぎ、辺境の町には二度目の春が訪れていた。冬の雪で傷んだ街道は修繕され、国境から届く荷馬車は、行き先を示す色札に従って止まることなく進んでいる。市場の店先には小麦、豆、干し肉のほか、南部から運ばれた林檎や柑橘まで並ぶようになった。
領主館の庭では、白い鈴蘭と黄色い水仙が咲いていた。かつて片方だけ色の違う長靴を履いていた荷運び人は、今では倉庫長となり、新しく入った者へ台帳の付け方を教えている。字の代わりに描いていた長靴の印も、本人の正式な署名として使われるようになっていた。
若い書記は、林檎ジャムの染みがついた前掛けを卒業した。しかし今日の袖には、昼食の卵が少しついている。彼は気づかないまま、アリスの机へ改善提案書を置いた。
「北部倉庫の荷下ろし場所を、雨の日だけ東側へ変更したいと思います。西側は屋根から水が落ちるので、昨年は小麦袋が三つ濡れました」
「理由も費用も、きちんと書けています。私の確認を待たず、倉庫長と相談して試してください」
「よろしいのですか」
「一週間だけ実施し、問題があれば元へ戻せばよいのです。その結果を教えてください」
書記は提案書を抱え直し、明るい顔で部屋を出ていった。以前なら、どの変更にもルーカスの署名が必要だった。今では、少額の費用と小さな変更なら、現場の者が自分で考え、試し、結果を記録できる。
アリスが三日間休んでも、書類が山になることはない。誰か一人が不在なら、隣の者が仕事を引き継ぐ。緊急の報告も、声の大きさではなく、人命や期限によって順番が決められていた。
「アリス様、本日はお休みですよ」
エルンストが執務室の扉から顔を出した。茶色い上着の肘には、また新しい布が当てられている。アリスは机の上に残った一枚の書類へ目を向けたが、エルンストはそれを先に取り上げた。
「これだけ確認したら帰ります」
「その言葉を使う方は、たいてい次の一枚も確認します」
「では、確認せずに机の角だけそろえます」
「角は私がそろえます。辺境伯様が玄関で待っておられますよ」
アリスは諦めて席を立った。椅子の背には、ルーカスから贈られた灰白色のアラン模様のひざ掛けが掛かっている。冬の間に何度も使ったため、端の毛糸が少し毛羽立っていたが、ほつれた場所はマルタが同じ色の糸で直してくれた。
玄関では、ルーカスが濃紺の上着を着て待っていた。仕事用の剣も書類鞄も持っていない。代わりに、買い物用の籠を腕へ掛けている。
「まさか、閣下が籠をお持ちになるのですか」
「今日は領主として出かけるのではない」
「では、どなたとして?」
「休みの男としてだ。あなたも筆頭内政官ではない」
二人は並んで市場へ向かった。春の日差しは柔らかく、道端の蒲公英には蜜蜂が集まっている。パン屋からは焼きたての小麦と焦げた砂糖の匂いが流れ、店先で子どもが蜂蜜菓子を半分落として泣いていた。
市場の入口には、空の籠が乱雑に積まれていた。一番下の籠が斜めになり、上の籠が通路へはみ出している。アリスは足を止め、両手を伸ばした。
その手を、ルーカスがつかんだ。手袋をしていない指同士が触れ、アリスは籠ではなく彼の顔を見る。ルーカスは通路の邪魔になっている籠を一つだけ端へ寄せた。
「今日は内政官ではない」
「ですが、倒れたら危険です」
「危険な分だけ直した。残りは店主の仕事だ」
「分かっております。でも、きれいに重ねれば、もっと取り出しやすくなります」
「その間に蜂蜜菓子が売り切れる」
アリスは籠と菓子店を見比べた。焼き台には、胡桃入り、干し林檎入り、莓の砂糖煮入りの三種類が並んでいる。胡桃入りは残り二つしかなかった。
「今日は、私は何をすればよいのでしょう」
「焼き菓子を選ぶ。食べる。気に入らなければ残す」
「食べ物を残してはいけません」
「気に入らない物まで食べるから、次も同じ物を出される。嫌なら嫌だと伝えることも必要だ」
アリスは莓の砂糖煮入りを一つ選んだ。ルーカスは胡桃入りを二つ買い、自分は胡桃が好きではないと言いながら、そのうち一つをすぐに食べた。口元に粉砂糖がついていたが、アリスはしばらく教えなかった。
市場を一周したあと、ルーカスは領主館へ戻らず、庭の奥へ続く小道を歩いた。鈴蘭の間を抜けた先には、淡い蜂蜜色の壁をした小さな家が建っている。窓枠は深緑色で、玄関脇には新しく植えられた薄桃色の撫子が並んでいた。
「職員用の宿舎ですか」
「入ってみれば分かる」
玄関を開けると、木と漆喰の新しい匂いがした。居間には二人分の椅子と丸い食卓があり、窓辺にはアリスのアラン模様のひざ掛けと同じ柄の小さな座布団が置かれている。食卓の中央には、白い鶏が入り込まないよう蓋のついた菓子入れまで用意されていた。
隣の部屋には、二つの机が置かれていた。ルーカスの机は入口に近く、アリスの机は窓辺にある。書類棚は別々で、間には背の低い棚が一つだけ置かれていた。
「こちらの棚は、共有ですか」
「二人とも読む本や、相談が必要な書類を置く。ほかの棚には、勝手に触れない」
「閣下の机は、三日で散らかると思います」
「五日はもつ」
「では、五日ごとにご自分で片づけてください」
ルーカスは返事をせず、寝室へ続く扉を開けた。窓辺の鏡台には、小さな木製の受け皿が置かれている。中央に細長いくぼみがあり、アリスの木の櫛を置くのにちょうどよい形だった。
「これを作らせるために、勝手に寸法を測ったのですか」
「冬に布を巻き直したとき、測った」
「なぜ、櫛の置き場所まで必要なのです?」
「置く場所が決まっていないと、あなたが困ると思った」
アリスはポケットから、黄色い布に包んだ木の櫛を取り出した。歯の一本欠けた櫛を受け皿へ置くと、細長いくぼみへぴたりと収まる。欠けた部分に巻かれた布の結び目まで、鏡台へ触れない高さになっていた。
新しい櫛へ交換するのではなく、古い櫛が傷まない場所を作ってくれた。アリスは受け皿の縁を指でなぞった。木目は滑らかだったが、一か所だけ、小さな削り跡が残っている。
「私は、ここへ何を置けばよいのでしょう」
「あなたが置きたい物だ」
「仕事の書類ではなく?」
「必要なら置いてもよい。だが、食べかけの菓子や、編みかけの物や、何の役にも立たない石を置いてもよい」
「石は置きません」
「では、何を置く」
アリスはすぐには答えられなかった。王宮の部屋には、王太子妃候補として必要な物しか置いていなかった。自分が欲しいという理由だけで持っていた物は、木の櫛一つだけだった。
ルーカスは懐から、小さな鍵を取り出した。銀色の輪には、毛糸で編んだ不格好な紐がついている。アラン模様の縄をまねたらしいが、途中で目の数を間違えたのか、片側だけ太くなっていた。
「私の人生を管理してほしいとは言わない。君の人生を私に預けてほしいとも言わない」
ルーカスは鍵を差し出したが、アリスの手へ押しつけなかった。彼女が受け取るまで、開いた手の上に載せたまま待っている。窓の外では、風に揺れた撫子が窓枠へ小さく触れていた。
「ただ、帰る場所を同じにしたい。私と結婚してくれないか」
アリスは鍵を見つめた。妻として領主を支えられるか、この家を整えられるか、仕事と家庭を両立できるかという問いが、次々に頭へ浮かぶ。そのとき鏡台に置いた木の櫛が目に入った。
役に立つから残されたのではない。欠けた部分を隠すためでも、捨てて新しくするためでもない。そのままの形で置ける場所が、先に用意されていた。
アリスは鍵を受け取った。毛糸の紐の太い部分が、手のひらに当たる。きれいに編み直そうとは思わなかった。
「では、この家を二人で使いやすくしていきましょう。ただし、あなたの机はご自分で片づけてください」
「努力する」
「努力ではなく、仕組みにいたしましょう」
「結婚の返事より先に、机の話をするのか」
「大切なことです」
二人は市場で買った焼き菓子を、丸い食卓の上へ広げた。アリスが選んだ莓の砂糖煮入りは、思っていたより甘く、半分で手が止まった。以前なら無理に食べきったが、今日は包み紙へ戻した。
「気に入らなかったのか」
「少し甘すぎました。残りは、明日いただきます」
「明日は、私が食べてもよいか」
「胡桃が好きではない方に、差し上げる必要はありません」
ルーカスは口元へ粉砂糖をつけたまま、胡桃入りをかじった。アリスは布を渡そうとしたが、手を止める。自分で気づくまで何分かかるか、少し見ていたくなった。
食後、二人は居間の椅子へ座った。アリスはアラン模様のひざ掛けを膝へ広げ、半分をルーカスへ掛ける。春の風が窓から入り、毛糸に残っていた羊毛の匂いを運んだ。
アリスは少しだけ目を閉じるつもりだった。しかし目を開けたときには、窓から差す光が橙色へ変わっていた。向かい側では、ルーカスが読みかけの本を胸に載せたまま眠っている。
食卓には焼き菓子の包みが残り、空の杯も置かれていた。椅子の下には、ルーカスが脱いだ片方の靴下まで落ちている。アリスは立ち上がろうとしたが、ひざ掛けの縄模様を握り、そのまま座っていた。
「今日の私は、何一つ役に立ちませんでした」
目を覚ましたルーカスは、眠そうな目で窓の外を見た。頬には本の角が当たった跡がついている。彼は食卓の菓子包みを見ても、片方だけの靴下を見ても、すぐには動かなかった。
「ああ。満点の一日だったな」
アリスは笑い、木の櫛を鏡台の受け皿へ戻した。古くても、欠けていても、役に立たない日があっても、ここへ置いてよい。その夜、二人は菓子の包みを片づけないまま、アラン模様のひざ掛けを分け合って眠った。
翌朝になっても、アリスの木の櫛は同じ場所にあった。彼女の鍵も、ルーカスの不格好な毛糸の紐がついたまま、食卓の上に置かれている。何もしなかった一日を過ごしても、アリスの居場所は、昨日と同じ場所に残っていた。




